経済・政治・国際

ローマの窓から平和憲法が見える-木庭顕「法学再入門:秘密の扉-番外篇」

【今日の言葉】

だがそのまえに、呪わしい欲望が、軍勢をとらえるのではないか
壊してはならぬものを、壊すことになりはしないか
(アイスキュロス「アガメムノーン」)

【読書日記】

こんにちは。ともです。
今日は、雑誌『法学教室』2015年8月号に掲載された木庭顕「法学再入門:秘密の扉-番外篇」を読みます。

■番外篇とは何か

木庭先生による「法学再入門:秘密の扉」は、「民事法篇」が2015年3月で終了してしまい、最近は『法学教室』を読むことも無くなっていました。が、なんと8月号に「番外篇」が予告されているではないですか。で、刊行前に「番外篇」とは何かについて、いろいろと妄想してしまいました。

ふと頭をよぎったのは、木庭顕「ローマ法案内」の序における「『ローマ法』は私法であるとは限らない」という一節です。

最近では、ほぼコンセプトを同じくする「公法・刑事法の古典的基礎」http://catalog.he.u-tokyo.ac.jp/g-detail?code=25-6591&year=2015&x=40&y=8という授業もあるようですので、もしかしたらそのテクスト化なのか、とも考えましたが、未だテクスト化するには早すぎますし、もしそうだとしたら「公法・刑事法篇」と銘打っての長期連載となるはずです。

では何か。

と考えたとき、最近木庭先生が公表される文章において、ある一定の懸念を表明していることが気になりました。

■懸念

東京大学出版会の『UP』2014年12月号に掲載された木庭顕「知性の尊厳と政治の存亡」においては、三谷太一郎「人は時代といかに向き合うか」の書評という形をとりつつ、特に註において厳しい現実批判の言葉が並んでました。

いわく「ポップな妄想に駆られ(憲法さえ軍事化=産業化す)る政治セクターは全くチャンスの無い路線を80年ぶりに再現する」と、足許の政治動向が、満州事変以降の軍国主義の路線に回帰しつつあることを示唆する鋭い指摘をしています。

また2015年1月に刊行された木庭顕「笑うケースメソッド 現代日本民法の基礎を問う」では、「日本国憲法や人権理念に対する攻撃のほんとうの動機がむしろ占有破壊ドライヴに存することが多い。ありていにいえば、憲法破壊は修飾部分であり、ほんとうにしたいのはつねに土地上集団の活性化・軍事化である」という指摘もありました。

深い現実政治への懸念をそこからは読み取ることが出来ます。

そこで、足許の安保法案論議です。まさかとは思いましたが、「番外篇」では、ギリシャ・ローマから見た「憲法論」が展開されているのです。そして「集団的自衛権」に関する議論までもが展開されているのです。

■木庭三部作

今回の「番外篇」は、木庭三部作「政治の成立」「デモクラシーの古典的基礎」「法存立の歴史的基盤」の骨子がもれなく網羅されています。というより確固たる理論的視座を構築した木庭先生が、それを縦横に駆使して現実を分析しているというほうが正しいかもしれません。その中で「政治システム」についても「自由な主体間で厳密な議論を交わして決定すると、人々は自発的にそれに従うという原理」と明快な定義が示されています。そしてそれは、不透明な集団を作り上げる社会学的事象を排除することによって成立するものであることが、繰り返し示さています。「政治の成立」の用語を使えば、政治は分節articulationという概念で表現され、社会学的事象は枝分節segmentationという対概念となります。

そして「法」すなわち「占有」は「一番追いつめられた人の立場に一方的に立って事態を見る」こと、「事態を素早く、冷静に分析」することであると簡潔にその意義が示されています。言い換えれば、分節articulationを最も弱い個人に対して成立させることによって、枝分節segmentation集団を排除することになります。

そして「法存立の歴史的基盤」で示された通り、占有が原基となって、その後の公法・刑事法・民法の諸概念が形成されてきたことを前提として議論が進んでいくのです。

■占有原理から憲法9条を読む

この「番外篇」の白眉は、「個別的自衛権」が占有原理であるのに対して、「集団的自衛権」とは、占有侵害の実力行使である横断的実力形成vis armataであると断じている箇所です。

木庭顕「ローマ法案内」では、vis armataに関して、「まだ占有侵害に至らないとしても既に内部軍事化を完了した単位は危険である。中が火の玉になった単位を近傍に持つことは大きな危険を意味する」としvis armataは他への侵害以前に違法と言えると解説しています。

そして「番外篇」においては、「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」の英訳「land,sea,and air forces,as well as other war potential,will never be maintained.」に言及し、「"war potential”の語が印象的だ。いくら防御のためと称しても中を火の玉のようにして軍事体制を作り待ち受けることも禁じられるというのは古典的な法原則だ。内部に文節を擬制しその分節を融解させることも横断的軍事化vis armataと看做す。これは脅威ないし危機の法学的定義である」と集団的自衛権の違法性につきローマ法の観点から断じています。

「占有」の射程が、憲法のうち人権規定まで延びるのは「最後の一人=個人の尊厳」の観点から想定はしていましたが(このブログの記事『ギリシャとローマの交錯点としての憲法96条―木庭顕「デモクラシーの古典的基礎」「法存立の歴史的基盤」から読む』をご参照くださいhttp://tomonodokusho.cocolog-nifty.com/blog/2013/05/96-4b2d.html )、正直、「占有」の射程がそれを飛び越え、憲法の平和主義、憲法9条にまでも及ぶというのは驚きでした。

確かに、日本における最大の実力組織は暴力団と米軍であると指摘し続けてきた木庭先生から見れば、米軍とともに横断的実力形成・軍事化を図る「集団的自衛権の行使」は「占有違反である」ということは至極もっともなことなのだろうと思われます。

木庭先生の鋭い知性は、そのように「集団的自衛権の行使」(番外編の言葉では桃太郎の鬼退治)を進めようとする背景・原因にまで切り込んでいきます。一言で言ってしまえば、彼らは占有原理の観点からは「排除するべき枝分節segmentation集団」だという指摘になります。

■誰のものでもない

そして憲法とは「皆のもの」(占有して皆で取り分けることが出来るもの)ではなく、「誰のものでもない」(誰も占有しえない)と木庭先生がいうとき、私は、res publica共和国という言葉の原義はそう訳すべきであったのかもしれないと考え、改正限界の基礎理論は「誰のものでもない」という公共概念を前提とすべきなんだろうなと気づくことになります。

また自主憲法制定論に対し、ソロンの立法や十二表法までもちだして、そもそも憲法は第三者(外国人)が書いてそれを批准するものだ、という木庭先生の大胆な反論にニヤニヤすることになります。また逆説的に学問と文藝の重要性が浮かび上がる、という仕掛にはドグマティックな法律論では味わえない知的好奇心に胸を躍らせることになります。

まだまだ指摘したいことは多くあるのですが、下手な要約よりは、直接読んで分析して頂いた方が面白いテクストですので、みなさまの感想も是非お聞かせください。

では。

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なぜアキレウスの怒りは味方の軍勢を壊滅寸前に陥れるほど強かったのか―マデリン・ミラー「アキレウスの歌」

【今日の言葉】

国家は人間がつくった最も愚かなものだとケイロンが一度言ったことがある。「どの国の人間であろうと、あるひとりがべつのひとりよりも価値があるということはけっしてないのだぞ」
(マデリン・ミラー「アキレウスの歌」)

【読書日記】

こんにちは。ともです。
今日はマデリン・ミラー「アキレウスの歌」を読んだ感想です。

■アキレウスの怒り

かねてからホメロスの「イリアス」にたいしてある疑問がありました。

なぜアキレウスの怒りはこれほど強いのか、と。

直接的な怒りの原因は、アキレウスお気に入りの戦争捕虜の奴隷女を、トロイア遠征軍の総大将であるアガメムノンに奪われたことがきっかけでした。でも、そもそもトロイ遠征の原因になったヘレネがメネラオスの正妻であるのに対して、アキレウスが奪われたのはただの奴隷女です。

いわば、アキレウスが、正妻の奪還のために終結した遠征軍を全滅させかねないほど、奴隷女ごときに執着して激怒するのは何事か、という感想を私は抱いたわけです。引き籠りにもほどがある、と。

しかも自分の代わりに出撃させた盟友のパトロクロスが戦死したからといって、再び参戦するというのは、我が儘がすぎないか、とも思いました。だったら初めから自分が参戦すればよかったではないか、と。これだから、ギリシャの神々や英雄たちの話はよくわからないよ、と納得したところで正直終わりにしていました。

今回、ホメロスの「イリアス」を現代において翻案した小説であるマデリン・ミラー「アキレウスの歌」を読んで、これらの疑問が、何と、するすると解消していったのでした。

■マデリン・ミラー「アキレウスの歌」

疑問が解消したということは、作者であるマデリン・ミラーも同様の疑問を抱いていて、それらに対する解答を文芸作品の形で提示したい、という強い意思があったということになります。

作者自身が「謝辞」のなかで「10年におよぶ」執筆期間を要したと記していることを信頼すれば、それだけの価値が「アキレウスの怒り」にある、ということになります。

また、作者の専攻が古典学であることから、敢えて学術論文の形ではなく、文芸作品の形で「イリアス」の解釈を示したことには、「この形でなければ伝えることができない」と考えた何かがあるはずです。

その答えをここで記載することは、未だこの本を読んでいない読者の楽しみを奪うことになりますし明らかにしませんが、一つだけ指摘しておきたいのは、作者であるマデリン・ミラーの答えに説得力があるとはいえ、それが文芸作品であるがゆえに、「現在、まさに今を生きているわれわれ」が理解できるロジックを使ってその答えを提示している、ということです。

ホメロス「イリアス」の成立については様々な説が唱えられていますが、もともとトロイ攻略に関するさまざまな伝承が当時から存在しており、ホメロスは、それを編集したものであるというのが、現在の一般的な理解になってきているようです。

ということは、アキレウスに関する伝承もさまざまに存在していたわけで、そこには、当時の人々が「イリアス」を読んだとしても、その行動や背景、考え方を理解できるような周辺的な伝承が豊かに存在していたと思われます。

マデリン・ミラーの解釈に、それらの周辺的な伝承群の古典学的な研究の成果が、どこまで活かされているのかは存じ上げませんが、まさに「アキレウスの歌」が行ったことは、アキレウスの行動や背景、考え方を理解できるような周辺的な伝承の「現代的なヴァージョン」を提供しようとするものだと、私は理解しました。

したがって、当時のギリシャ人の理解するところと、現代人が「アキレウスの歌」を読んで理解するところとは、全く別物である可能性が大いに存在します。そこがこの小説の限界であろうとも思われます。

■社会全部を敵に回しても守るべき、かけがえのない価値

とはいえ、敢えて「イリアス」を現代に甦らせて、「アキレウスの怒り」を今に生きる人々に理解してもらいたい、という姿勢に意味がないということではありません。

なぜならば、「イリアス」は西洋社会において読み続けられてきた第一級の「古典」であり、そこには独自の価値があるはずだからです。そして「古典」を現代の目で読み直す、という行為は、古くはルネサンスの時代からそれぞれの時代の現代人が行ってきたことの繰り返しであるからです。

そして、今回「アキレウスの歌」を読んで私が理解したことは、

「社会全部を敵に回しても守るべき、かけがえのない価値」がある

ということです。

これが遠くわれわれの時代において、「個人の尊厳」という議論に響いている、ということが、まさに古典であるにもかかわらず、それが現代的である所以なのだろう、と思った次第です。

では。

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ギリシャとローマの交錯点としての憲法96条―木庭顕「デモクラシーの古典的基礎」「法存立の歴史的基盤」から読む

【今日の言葉】

「学術的」とは別の言葉で言えば「批判的」とも言えるだろう。
(長谷川修一「聖書考古学」)

【読書日記】

こんばんは。ともです。
今日は、木庭顕「デモクラシーの古典的基礎」「法存立の歴史的基盤」を解釈した地点から、―いわば「斜め後ろ」から―、憲法96条を読んでみたいと思います。あくまで私の「解釈」ですので、みなさまは「批判的」にお読みください。

■憲法96条を素直に読んでみる

まず、素直に条文を読んでみましょう。

日本国憲法 第9章 改正
第96条 この憲法の改正は、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票において、その過半数の賛成を必要とする。
2 憲法改正について前項の承認を経たときは、天皇は、国民の名で、この憲法と一体を成すものとして、直ちにこれを公布する。

■ギリシャ型デモクラシーとローマ型法システムの交錯

この96条には、ざっくり言ってしまえば、唐突かもしれませんが、古典期のギリシャとローマの歴史的経験の結婚がみられます。

まず、木庭顕の基本的な歴史的認識をみてみましょう。木庭顕がギリシャを扱った「デモクラシーの古典的基礎」およびローマを扱った「法存立の歴史的基盤」の両著書によると、最初に、ギリシャにおいて狭義の「政治」が成立し、社会構造変動に伴って民主化が進展するとともに、ギリシャでは「デモクラシー」が成立したとされます。またローマにおいては、このギリシャ型のデモクラシーの影響もうけつつ、ローマ社会構造に応じて成立したものが「法」である、ということになります。すなわち、「デモクラシー」と「法」は、政治成立後の各々の社会構造変動に対応した、等価なものであるとされるのです。

ここで憲法96条を見ると、「国会」「国民投票」というデモクラシー的契機が、ギリシャのデモクラシーから比較的原型に近い形で範をとったことが「明瞭に表れている」状況がみてとれます。他方、憲法という「法」による儀礼的(手続的な)契機がみられ、そこにはローマ法を範にとった法システムの「表出」がみられます。ここでは両者が端的に交錯していることがみてとれるのです。

「デモクラシー」と「法」がともに、社会から見放された「最後の一人」を守ること、に対するギリシャとローマの各々の解答方法であるという木庭顕の歴史的な観点からは、憲法96条は、ギリシャ型デモクラシーとローマ型法システムの二重のプロテクトをかけた手厚い規定である、ということが言えるかもしれません。

では、デモクラシーによるプロテクトとは、どういうものでしょうか。

■木庭顕「デモクラシーの古典的基礎」

木庭顕の「デモクラシー」の定義は、「二重分節」というタームによって記述されます。ここが難しいところなので、あくまで私の解釈で、ざっくり言い換えてみたいと思います。

まず、デモクラシーの前提となる「政治」の成立は、「分節」が成立することでした。言い換えると、「自由な主体(分節化された主体)が、暴力や不透明な取引を排除し、明晰な(すなわち分節化され、ディアレクティカ=純粋な論理の力による推論によって)かつ自由な議論によって、一義的にものごとを決定すること」が政治の成立であり、デモクラシーの前提となります。デモクラシーはこれを更に「二重に分節」するものとしてとらえられます。

「自由な議論」というのも結論と論拠の二重に分節され、「結論に対する論拠が歴史学等の議論の蓄積によって充分に批判され、社会構造を射程に入れた議論」によって第一段階がクリアされたものだけ、「本来の決定手続き」である次の第二段階の議論の俎上に上る、というのがデモクラシー段階の議論・決定方法だとされています。

憲法96条の文脈に沿って更に意訳すると、「民会」(96条で言えば、国民投票)にかける前段階の「評議会」(96条で言えば「国会」)による明晰かつ自由な議論のみが第一段階の議論をクリアする条件であって、第二段階の「民会」(国民投票)に進む資格要件となる、ということです。ここで、意外なことに憲法96条にギリシャ型デモクラシーがくっきりとした輪郭を備えて表れていることが端的にみてとることができます。

■違憲審査権の古典的基礎

さらに木庭教授はデモクラシー段階に入ったアテナイの状況を次のように記述します。

「こうなる(デモクラシー段階に入る)と政治的決定はオールマイティーではなくなる。一旦決定されても前提的資格が疑われる場合がある。瑕疵を帯びる場合がありうる。前提的批判が十分ではなかったのではないかと。そのような場合アテーナイなどでは裁判によって政治的決定を争いえた。瑕疵を帯びた決定を提案したのは政治システムの根幹を破壊したことに相当する、というのである。」(「ローマ法案内」46頁)

これはまるで、違憲審査権とうりふたつではないでしょうか。

■立憲主義

とはいえ、木庭顕によると、ギリシャでもローマでも立憲主義は、実質として人々の意識の中にビルトインされ機能することがあっても、規範で縛るということはなされなかったと説明しています。

近代の立憲主義は、これら古典期のテクスト解釈から自らの新しい制度を作ってきました。が、中でもローマ型の法システム、すなわち、法により「最後の一人」を守るという原理に導かれ、人権規定や成文憲法を生むことになったようです。すなわち、ギリシャ・ローマの経験の上に、自らもう一回、ローマ型の法システムによって、一段と厳しい縛りをかけたということになります。

それが憲法96条の文脈で言えば、「明晰かつ自由な議論のみが第一段階の議論をクリアする条件」を、実質的に議論の中から判断するにとどまらず、「三分の二以上の賛成」という規定で縛りをかけていることに、遠く響いてきているのかもしれません。

■標準的な教科書では...

このギリシャとローマの交錯を、端的に表現している代表的な憲法教科書があります。引用してみましょう。

「この人権(自由の原理)と国民主権の原理(民主の原理)とが、ともに『個人の尊厳』の原理に支えられ不可分に結び合って共存の関係にあるのが、近代憲法の本質であり理念である。」(芦部信喜「憲法」第5版、387頁)

ここでは、「民主の原理」=ギリシャ型デモクラシーと、「自由の原理」=ローマ型法システムが、「個人の尊厳」=「最後の一人」を守るという共通の原理に貫かれいることが端的に表現されています。

そして、この記述が憲法96条を解説した「三 憲法改正の手続と限界」の「3 憲法改正の限界」にあるフレーズであることは、偶然の一致ではないことがわかるのではないでしょうか。

では。

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ソクラテスの法学―木庭顕「法学再入門:秘密の扉-民事法篇」

【今日の言葉】

文化とは、文をもって化する、文をもって民を治める、という意味なのです。
(古井由吉「漱石の漢詩を読む」)

【読書日記】

こんばんは。ともです。
今日は、木庭顕「法学再入門:秘密の扉-民事法篇」の「第一話,占有」がおわったところで、多少感想を。

■なんでいまさら...

木庭教授が約10年ぶりに法学教室で連載を開始したと聞き、大河ドラマのような長編大作である「政治の成立」「デモクラシーの古典的基礎」「法存立の歴史的基盤」という三部作を出しつつ、それらを要約した「ローマ法案内」という概説書や、一般の法律家も読みやすい言葉で書いた「現代日本法へのカタバシス」などの論文集で、さらにそれらの補足を行ってきて、いまさら何をやられるつもりなのかな、と訝しがっていたところ、4月号を読んでやっとわかりました。

そう、木庭教授は「教育がしたいのだ」と。

■ソクラテスの方法

そのソクラティック・メソッドの論述は、実際に行われていた授業(「学習困難者のための法学再入門」)を下敷きにしているとはいえ、騙されてはいけないのは、そこに出てくる生徒は、すべて木庭教授が生み出したキャラクターだということです。

注意深く読むと生徒A以下すべての登場人物には、それぞれ役割が振られていることがわかります。木庭教授のタームにすれば、Critiqueが施されているのです。言い換えれば、そこにはディアレクティカ(弁証論)が施された概念的人物たちが登場している、といってもよいでしょう。

そう、木庭教授が「ディアレクティカ」と、わざわざ手垢の憑いた「弁証法」という用語法を周到に排除してきたのは、ソクラテスの問答法・産婆法dialektikeを、なるべく原初に近い形で想起して貰うためでした。

ここでは、原型の授業(「学習困難者のための法学再入門」)をソクラティック・メソッドで行いつつ、その二次テクスト(「法学再入門:秘密の扉-民事法篇」)をソクラテス=プラトンのディアレクティカを用いて作っている点で、なんと、木庭教授はソクラテス(は周知のとおりテクストを後世に残さなかった)とプラトン(がソクラテス文学を生み出した)の一人二役までやってのけていることになります。すごい意気込みですね。

■「ゼンベエどんとオハナぼう」のお話=ウェルギニア伝承

そのソクラテスとプラトンを気取った木庭教授が、最初に持ってくる「お話」が「ゼンベエどんとオハナぼう」です。こりゃ「法存立の歴史的基盤」を読んだ人には明らかな通り、占有概念成立の原基となったローマの「ウェルギニア伝承」のパロディです。

さしずめ、ゼンベエどんは娘を奪われる父ウェルギニウスVerginius、オハナぼうは悲劇のヒロインである娘ウェルギニアVerginia。 対するゴンザエモンは悪代官アッピウス・クラウディウスAp.Claudius、ゴンベエはその子分M・クラウディウスM.Claudiusといったところでしょうか。

「ウェルギニア伝承」は原典の精密な訳ではありませんが、現在では日本語でも読めるので(抄訳ですが、リヴィウス著・北村良和編訳「[抄訳]ローマ建国史(上)」や、ノーベル文学賞を受賞したモムゼン「ローマの歴史」による熱い口調の翻案、など。「法存立の歴史的基盤」でも大略翻訳がついて理解できるようになっています)わざわざパロディにしなくてもいいのになあ、と思う反面、ソクラテスに立ち返るためには、日本の昔話に模した「お話」によって、予断なく、まるでギリシャ人のように考える・想像するという教育的配慮をおこなっていると評価できるのではないでしょうか。

兎角、「難解だ」とされる木庭「占有理論」を『ここまでわかりやすく』例解したということは、現在のゆとり世代の学生水準に合わせたという面があるにせよ、面白く伝えたい・教えたいという、ここ最近の木庭教授の教育にかける情熱が伝わってきます。その情熱は、東京大学出版会の機関紙「UP」2013年2月号に掲載された「法科大学院をめぐる論議に見られる若干の混乱について」という論考にも見られますし、「Business Law Journal」2013年6月号の「放蕩息子の効用」における卒業生へ対する暖かい視線にもつながっているようです。

■ゴダール「フィルム・ソシアリスム」

と、法学教室の4月号・5月号を読んできて、ふと既視感に襲われたのは、ゴダールの映画「フィルム・ソシアリスム」の「予告編」と「本編」の関係に、この連載が何か似ていると思ったからです。

ゴダール「フィルム・ソシアリスム」の予告編では、102分の本編を高速再生によって2分で全編流すというよく言えばアヴァンギャルドな手法、有体に言えば人を食った手法がとられています。予告編を見て本編を見に来た観客は、全部見ているはずのものを、改めて通常速度で見直すことになります。ここで観客は、良く訳のわからなかった予告編が本編ではこういうものであったのだと納得することになるのです。(とはいえ本編を見てもわからんという観客は多数いると思いますが)

実は、木庭教授の上記の著作群にも、「予告編」が存在していることを知っていましたか?

「岩波講座 社会科学の方法〈6〉社会変動のなかの法」(1993年)に収録された木庭顕「政治的・法的観念体系の諸前提」がそれです。

■木庭顕「政治的・法的観念体系の諸前提」

この論文「諸前提」は本文が15ページ足らずという短い論考ですが、以後の三部作「政治の成立」「デモクラシーの古典的基礎」「法存立の歴史的基盤」の基本線がすべて凝縮され、圧縮されており、非常に密度の濃い記述となっています。そのためポイントを落とした脚注が本文以上の17ページにわたって綴られているというすごい形式になっています。

「法存立の歴史的基盤」が出版されたのが2009年ですから、「諸前提」で展開された「予告編」が、「本編」たる三部作で、実に16年の永きにわたって、膨大な2500ページを費やして「解凍」されてきたことがわかります。

ここでゴダールとの比較をすれば、ゴダールが予告編を2分÷102分=1.96%に圧縮したよりも更に大きく凌駕し、木庭教授は32頁÷2500頁=1.28%に予告編を圧縮していたことになります。ここで人は、木庭教授の初期の研究プログラムが、いかに周到に準備され、かつ、射程の長いものであったかと驚かされることになるのです。

■占有原理

そして「諸前提」において「別に発表予定の研究」と予告されていたウェルギニア伝承の分析が「法存立の歴史的基盤」において16年の永い冷凍状態を解かれ全面に展開しているのを人は眩しそうに眺めることとなります。

とはいえそのエッセンスを伝える「ローマ法案内」では、明示的にはウェルギニア伝承を取り上げた議論を行っていません。「現代日本法へのカタバシス」ではリファーがなされるものの、その意義を十分に伝える形には至っていないのが実情です。

今回の「法学再入門:秘密の扉-民事法篇」の「第一話,占有」において、そのウェルギニア伝承を多少のパロディを交えて伝えているのは、「法存立の歴史的基盤」ではローマ史歴史学のプロトコルに則って厳密な分析を行っていたことにより、かえって難解に見えていた占有原理を、『あたかもギリシャ人であるかのように』木庭教授が、本来は水と油の関係にあるギリシャ哲学とローマ法を、いったん忘却して架橋しようとしたアヴァンギャルドな試みなのかもしれません。

「Liviusのテクスト自体へのCritique,これは以降長く結局はアヴァンギャルドでありつづける」(「法存立の歴史的基盤」30頁)。

という木庭教授のつぶやきがきこえてきそうです。

では。

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自由な憲法解釈と政治の不在―木村草太「憲法の創造力」

【今日の言葉】

実は、法の世界に入るためには秘密の入り口があるのです。知りませんでしたか?
(木庭顕「法学再入門:秘密の扉―民事法編」)

【読書日記】

こんにちは。ともです。
今日は、木村草太「憲法の創造力」を読んでみたいとおもいます。

■魅力

木村草太の魅力は、なんといっても、その「同時代性」にあるとおもいます。
自身の憲法講義をベースにした演習書「憲法の急所」では、ユーモアあふれる秀逸な設例で大いに楽しませてくれました。鮮やかに右左を逆転させ思考の深化を誘う「国家伴奏拒否事件」設例や、涼宮ハルヒに関する社会現象から着想を得た「妄想族追放条例事件」設例など、遊び心が満載です。また「キヨミズ准教授の法学入門」では、石黒正数のイラストととぼけた会話の妙などが、同時代感覚をふんだんに吸収したつくりになっており感心しました。

■「憲法の創造力」

その木村草太が「憲法学の入門書」を一般人向けにだしたのですから、面白くないわけがありません。また、入門書とうたうからには、いわゆる個別の論点についての見解のみではなく、ある程度、木村憲法学の全体像のようなものがみえてくるのではないか、という期待感もあります。では、その期待が当たったのか、はずれたのか、以下に木村草太「憲法の創造力」を読んで「共感できた」点と「違和感が残った」点を、順にみていきたいと思います。

■共感

最近、子どもの入学式に参加して、久しぶりに国歌斉唱の場面に出くわしました。
「憲法の急所」などの書物からの知識で、教育現場において激しい対立があることを知っていたため、やや身構えておりましたところ、あっさりと教員・生徒・父兄一同が起立して何事もないかのように終了してしまい拍子抜けしました。

そこで思ったのは、こんなあっさりと済む儀式に対して、裁判で争われたように極度の体調不良を惹き起こす教員もいるのだという驚きでした。というわけで改めて、憲法学者はどう整理をつけるのだろうと興味を覚えながら、木村草太「憲法の創造力」の第一章「君が代不起立問題の視点」を読みました。

そこでは、原告と最高裁のロジックを丁寧にわかりやすくなぞっていきつつ、右左の人たちの信念を手際よく要約したうえで、法的議論がそのような信念のレベルとは異なるものであることを、くっきりと浮かび上がらせています。

憲法ドグマティークの議論では、ここまでわかりやすい立体的な像を提示することはできないしょうし、敢えてしないのだと思われます。憲法学者の議論として一般人にもわかりやすい整理といえるのではないでしょうか。さらに、最高裁の判断を「肩すかし」「詭弁」と評価し、この問題を「パワハラ問題」としての法的議論に再構成しようとする姿勢には脱帽です。

■違和感

と個別の議論では感心する記述も多いのですが、違和感を持ったのが、「総論」部分の議論です。

序章の「国家と憲法の定義」にある「国家は、『権力』を作ることを目的とした団体である」に続く「権力」の定義として掲げられた「暴力を背景に、有無を言わさず人を従わせる力」である、という箇所です。

「木村草太の力戦憲法」というブログでは、「良書」として木庭顕「ローマ法案内」と「現代日本法へのカタバシス」が挙げられており、また「キヨミズ准教授の法学入門」でも「現代日本法へのカタバシス」が紹介されています。木庭教授の著書を推薦図書に挙げている割には、木村草太は、木庭教授の「急所」をつかんでいないのではないかという懸念を私は感じました。

「法の前提には政治があり、政治とは暴力や不透明な取引を排除し、言語による自由な議論のみが君臨することである」という木庭顕の基本テーゼからいうと「有無を言わせぬ物理的強制力」とは、「政治もなく法もない」状態、木庭顕のタームでいえば「無分節」状態のことを指すと思われます。これは乱暴に言い換えれば、社会契約論の「自然状態」、すなわち政治が成立する以前の状況、言ってしまえばアウトローの状況です。

憲法は「国家を成立させる『ルール』」であるという木村草太の憲法の定義に、先の権力の定義を代入すると、憲法とは「暴力を背景に、有無を言わさず人を従わせる力、をつくることを目的とした団体の成立ルール」ということになります。

■解釈

これでは「日本には西洋的な政治も法もなく、ただ憲法典という政府による暴力を正当化する(法という記号が一応付与されているが、本来の法とは異なる)東洋的ルールがあるのみである」と読めなくもないことになります。

木村草太の記述は、ちょっと古いけど徹底したリアリスト、もしくはホッブズ主義者による国家観の吐露としてスルーすることも可能でしょう。一般受けを狙ったわかりやすい説明に徹したと好意的に解釈できなくもありません。しかし、例えばこれから大学へ進学するべき中高生をも想定読者としている新書の入門書としては、いかにも不用意ではないでしょうか。まるでリアル北斗の拳であるかのような国家観を青少年に植え付けやしないか、と危惧します。

木村草太の本意がそんなところにあるのではなく、上のような解釈がただの私の誤読であればと祈りつつ、木村草太には、「各論」だけではなく、「総論」についても是非とも思索を深めていただき、高い学問的水準を背景にしたわかりやすい国家と憲法の関係を論じていただきたい、と思った読後感でした。

では。

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その後の世界―エヴァQとぼくたちの失敗

【今日の言葉】

そもそも、社会の基本的な枠組みに関わるということは、あれやこれやの権威・権力・関心・利害以前の、或いはその外の、それらすべてを制約する、事柄に関わるということを意味する。現実の厳しい対立状況に言葉一つを武器に割って入る、皆が一定方向に流れるときに枠組みをタテにとって敢えて嫌がられることを言う、そのかわりに沈む船から最後に脱出する類の責任感を持つ、というメンタリティーは社会の基本的枠組みに関わる者に固有のものである。
(木庭顕「法学部―批判的紹介の試み」)

【読書日記】

こんにちは。ともです。
今日はエヴァQを観ての覚書です。
ネタバレを含みますので、観てからお読みいただくことをお勧めします。

【以下、ネタバレあり】

■エヴァ破

まずは前作のおさらいです。

2009年7月6日のこのブログで、エヴァ破について書きました。
http://tomonodokusho.cocolog-nifty.com/blog/2009/07/post-e050.html

そのなかで、エヴァ破のテーマは「新しい政治」であろうと僕は読んでいます。
スピノザが「神学=政治論」で明らかにしているように、神と政治は等値可能です。
ミサトのセリフ「この世界が終る」を、「古い政治が終る」と読み替えたわけです。

その後、現実に日本では政権交代が起きました。
エヴァの前作は、日本社会の現実を扱っていたことになります。

そして、その動機を「かけがえのないひとりの女性を守ること」に求めています。
政権を獲った政党のスローガンが、モノから「人へ」と訴え、党首が「命を守りたい」と演説したのを多くの方は覚えているのではないでしょうか。ここで、エヴァと日本社会が妙なシンクロをしていたことをまずは思い出してみましょう。

■エヴァQ

そこで、今回のエヴァQです。

その展開についてはいろいろな議論があるようです。
物語内部のさまざまな符牒から、謎を精緻に読み解こうとしている人もいるようです。
単純に、物語にカタルシスが見られないことから、否定的に評価する向きもあるようです。

確かに、物語としてみると、カタルシスのない、その意味で「出来の悪い」話だということも可能です。

ここでは、前作について僕が読んだことの延長線で、エヴァQを観てみたいと思います。つまり、日本社会との「妙なシンクロ」です。

■ぼくたちの失敗

エヴァQを「日本社会の現実」を扱ったものという観点で見てみるとどうなるでしょうか。

「あれから」、その後、日本の社会は大きく変わってしまいました。
政権党は、その公約の主要な部分を、実現できませんでした。
より悪くなってしまった、という評価も、全否定することは困難です。

また「命を守りたい」という切実な主張とは裏腹に、3・11により多くの尊い命が失われました。そして、福島県沿岸の状況も、未だに本質的な解決策を見いだせてはいないようです。また、ここにきて日本社会に対する国際社会からの風あたりも厳しくなったようです。

さまざまな「インパクト」が日本の社会を襲ったと言い換えることもできるでしょう。

■そこからの景色

これは、エヴァQで、シンジがみた「その後の景色」と非常に似ています。

「そんなつもりはなかったんだ」

日本の社会には、シンジと同じような言い訳をしている人間が、見当たらないでしょうか。
政治、社会、経済、科学技術の分野において、リーダー、エリートとみなされる人間が、そのような言い訳をしている場面を、「あれから」何度も見てきたのではないでしょうか。

エヴァQをみて否定的な評価をしている人は当然です。
せっかく、肯定的な物語へと変化しようとしていたエヴァに期待をして見に行ったところ、逆に、見たくもない出来の悪い物語、すなわち「自分たちの現実」のようなものを突き付けられたのですから。

「助けてなかったんだ」

そう日本の社会、つまり僕たちは、世界を救っていなかったのでした。

■開かれた未来

こうしてみると、エヴァQの最後の場面は、きわめて象徴的です。
あてどもなく歩く3人の後ろ姿。
どこへいくのか、明確な行き場もなく、どちらを見ても荒れた大地。

それでも僕たちは歩いて行かなければいけない。
やり直し(redo)ができることを希望として。

と、あまりにもざっくり観てしまったので、正直、好きとか嫌いの問題よりも、「わかるなあ」というのが感想です。以前、宮崎駿が「庵野くんは、震災以降、どう描いていいのかとても悩んでいるようにみえる」とどこかのインタビューで語っていた通り、今作が、その答えだと思いました。

「その後の世界」

それでも僕たちは歩いて行かなければいけない。
やり直し(redo)ができることを希望として。

では。

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さまざまな意匠―「群像」2012年9月号

【今日の言葉】

ブルジョワよ、立法者であれ、商人であれ、七時か八時の鐘が鳴り、疲れた頭が炉床の熾火のほうへ傾いたり、肱かけ椅子の耳にもたれかかったりするとき、諸君は芸術の効用を理解する
(ボードレール「一八六四年のサロン」)

【読書日記】

こんにちは。ともです。
今日は、「群像」2012年9月号に面白いテクストが多かったので、それらの感想です。

■舞城王太郎「私はあなたの瞳の林檎」

アリストテレスは「詩学」において、優れた悲劇の条件として、登場人物は首尾一貫していること、そしてストーリーはカタルシスを与えるものであること、を挙げています。

この小説は、「悲劇」ではなく「散文」であるにせよ、アリストテレス的な意味で、掛け値なしにいいストーリーになっています。

「僕」という一人称で語られる小説に対して、「私」という一人称が表題となっていることの意味。その一人称の位置を、最後のヒロインのセリフで転換する鮮やかなカタルシス。そこから、広がるもう一つの「林檎」ヴァージョンの物語。さわやかな青春恋愛譚として読めるばかりでなく、周到に練られた構想がキラリと光る佳作です。

■野崎歓×青山七恵×綿矢りさ「文学と、たかが恋愛されど恋愛」

野崎歓が恋愛文学ベスト20の筆頭に、「アベラールとエロイーズ 愛の往復書簡」を挙げていて、要約、引用も的確なので感心しました。そうか、これが恋愛文学の原型だったのか!

以前、私も、このブログで読んだことがありましたので、同じような感想を、みな持つのだなあ、と思った次第です。

■アントワーヌ・コンパニョン「文学は割に合う」

コンパニョンによって、このテクストで挙げられた人名を列挙してみましょう。

フローベール、ボードレール、ピエール・ブルデュ―、ルイ・ナポレオン、マラルメ、ヴァレリー、ブランショ、ギュスターヴ・ランソン、プルースト、キケロ、モンテーニュ、マックス・ヴェーバー、フランソワ・ベゴドー、ローラン・カンテ、ハムレット、シェイクスピア、ヴェルデュラン夫人、ルグランダン、コタール、ディケンズ、バルザック、チャールズ・テイラー、アラスデア・マッキンタイアー、ポール・リクール、ニコラ・サルコジ、ヘンリー・ジェイムズ、トーマス・マン、ジョン・アップダイク、ウィリアム・スタイロン、アイリス・マードック、ジョン・ベイリー、ドストエフスキー、カフカ、カミュ。

ここでは、時代も国も超えて、作家から政治家まで、実在の人物から文学の登場人物まで、多くの人名が、等しく語られています。このことは、「文学は割に合う」La litterature,ca paye と主張するためには、これだけのネーム・ドロッピング(著名な哲学者や文学者の名前ばかりをやたらと羅列すること)をしなければならないのだ、と主張することでは決してなく、その核心は、

「人間のあらゆる活動の切り札となるのが人文的教養なの」だ、

という部分にあります。

「たかが文学されど文学」とも言い換えたくなるその主張は、単純な人文主義的で古典主義的な伝統への回帰を周到に排除しているだけに、なかなか奥が深くて複雑なものです。

■蓮實重彦「フローベールの『ボヴァリー夫人』-フィクションのテクスト的現実について」

蓮實重彦の前衛性は、どうやら東大総長に就任したことを境に、啓蒙性、明晰性に変化したのではないか、と思っていたのですが、かねてから「一冊の書籍に纏めないことが、蓮実重彦の最後に残された前衛性だ」と公言していた「ボヴァリー夫人」論が、ついに上梓されるというのですから、これは、スキャンダルです。

おそらく、みずから回想するに、「どことも知れぬ不気味な無法地帯」と呼ぶ東大総長の職に、「幽閉」された経験から、回心がおこったのかもしれません。コペルニクスですら、幽閉され地動説を撤回したというのですから、中世の宗教裁判にも似た強力な磁場が、近代日本の知を形成してきた大学の行政職のまわりを包囲している、という事実を示唆しているのかもしれません。

日本の憲法学者は「大学の自治」などを抽象的に講ずるのをやめて、謙虚に、蓮實重彦の回心を読解することに精力を傾けては、いかがでしょうか。もしかしたら、「切り札」としての「大学の自治」が、そこから再構成できるのかもしれません。少なくとも、蓮實重彦は、来栖三郎「法とフィクション」を読んでいるのですから、せめて法学の側からお返ししては?と、全く内容に関係ないところでこのテクストを読んでしまいました。

■清水良典×円城塔×柴崎友香「創作合評」 ~ 綿矢りさ「人生ゲーム」

当代きっての文学的知性3人が、綿矢りさ「人生ゲーム」を合評するというので、楽しみに読んでみたのですが、釈然としない感じが残りました。3人とも読めてはいないのです。

柴崎友香が語るように、「私も綿矢さんの小説を読むと、なぜ今この話をこの書き方で書くんだろう、どういう意味があるんだろう、ということをよく考えてしまうんです。この小説も本当にそうでした」という言葉が、そのことを素直に表していると思います。

これは、私の仮説なのですが、この小説「人生ゲーム」は、大江健三郎賞を受賞した綿矢りさが、大江健三郎に返した文学的返礼なのではないか、と思われます。

まず、「人生ゲーム」という題名。すぐに、大江健三郎には、「同時代ゲーム」という題名を持つ小説があることが想起されます。意味ありげに、「同時代」という共時性(シンクロニシティ)を示す記号が、「人生」という通時性(ディアクロニシティ)を表す記号に置き換えられています。丁度、右90度にひねって、直角に交わるように、題名の指示語を置換しているのです。

そして、「兄」という書き出し。これまで何度か綿矢りさのテクストを読み込んできた教訓は、「書き出し」に最大限の注意を払わなければならない、ということでした。そこから予測するに、大江健三郎「同時代ゲーム」には、「兄」に関係する「書き出し」があることが想像されます。では、それを確かめるために、大江健三郎「同時代ゲーム」の「書き出し」、第1章「第一の手紙 メキシコから、時のはじまりにむかって」の冒頭を読んでみましょう。

「妹よ、僕がものごころついてから、自分の生涯のうちいつかはそれを書きはじめるのだと、つねに考えてきた仕事。(中略)それを僕はいま、きみあての手紙として書こうとする。」

ほら、やっぱり!

「兄」を180度ひねると「弟」になってしまうところ、90度ひねって「妹」なのでした。

こう読んでみると、文学的「兄」=大江健三郎に対して、文学的「妹」=綿矢りさが、「兄きの手紙に返事を出したよ」といっているかのようです。返事の中身は、私の文学的半生を、「聞いていただいて、ありがとうございます。長くつまらない思い出話をして」というものでは、ないでしょうか。確か受賞後に二人は対談してましたよね。

では。

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ここにコモン・ローの驚異についての書が始まる―木庭顕「ローマ法案内」再読

【今日の言葉】

この世界のさまざまな地域のまぎれもない真実を知りたいとお望みなら、どうかこの書物を取り上げて朗読をお命じになっていただきたい。
(マルコ・ポーロ「東方見聞録」)

【読書日記】

こんにちは。ともです。
最近、初めてアメリカ法をかじる機会があり、今日の読書のテーマは、木庭顕「ローマ法案内」を透かしてみたコモン・ローの読み方です。

■誤解の源泉

木庭教授は「ローマ法案内」の「序」において、「『ローマ法』にアプローチするときに障害となりうる若干の思い込みを予めぬぐっておく」として、ローマ法に対するいくつかの誤解を解いています。

そのひとつとして、「大陸法つまりcivil lawを『ローマ=教会法』的伝統と言うこと」に対して充分な注意喚起をすると共に、「エクイティーを中核とするイングランド法やアメリカ法ほど『ローマ法』に近いものも無い」という謎めいた断言をしています。大陸法の基盤をつくったサヴィニーを常に参照基準とする木庭教授が、コモン・ローに対して活き活きとした共感を綴っているのは、何故でしょうか。

まずは、代表的な英米法の入門書である田中英夫「英米法総論 上」から読んでみましょうか。

■田中英夫「英米法総論 上」

田中英夫は、「第1章 概観」の「§113 イギリス法の独自性」の中で、「大陸法が程度の差こそあれローマ法の影響を強く受けたのに対し、イギリス法は、数次にわたって(それぞれの時期における)ローマ法の影響を受けはしたものの、基本的にはゲルマン法に由来する伝統的な法体制を維持してきた」と述べています。誤解の源泉は、どうやらここら辺にあるようです。

この誤解の源泉は、次のように受け継がれていきます。丸山英次「入門 アメリカ法」を見てみましょう。「英米法(系)と大陸法(系)という区分をするとき、両者の間のもっとも基本的な違いは、ローマ法の影響の大小ということである。すなわち、大陸法はローマ法の影響を強く受けているのに対して、英米法に対するローマ法の影響ははるかに弱い。」「ローマ法を基礎とする法典編纂の有無が、大陸法においては第一次的法源が制定法である(制定法主義)のに対して、英米法においては判例法である(判例法主義)という違いをもたらしたともいえるのである。」

その先に行くと、樋口範夫「はじめてのアメリカ法」における次のような記述となります。「ヨーロッパ大陸の国々の法は、元々、ローマ帝国の法を継受したと考えられている点で共通性を持ちます。それに対し、イギリス法はローマ法と無関係に発展したとされるのです。」

いかがでしょうか。

「数次にわたって(それぞれの時期における)ローマ法の影響を受けはした」という田中英夫の慎重な配慮を伴う記述が、次に「ローマ法の影響ははるかに弱い」となり、最後には、「ローマ法と無関係」となっていく様子がわかるのではないでしょうか。これが、もし日本における英米法学の発展の実態を表しているのだとしたら残念なことですが、おそらくそれ以上に「ローマ法学が死滅しつつある」(木庭顕「ローマ法案内」はしがき)ことを鏡のように反射した記述の推移なのかもしれません。また、3つの記述は、それぞれ想定している読者層が違うといってしまえば、それまでです。あえて樋口範夫を擁護すれば、「~ とされる」に注目して、その本意が「一般的にはそう言われているが、学術的には厳密には違う」という意味で、学問的良心を残した記述だと解釈すれば、ぎりぎりのところセーフでしょうか。

■註をよく読む

とはいえ木庭教授がその対象として、誤解を解こうとしているのは、明らかに最後の記述のような通俗的な「理解」であろうことがわかります。

なぜならば、引用した木庭教授の文章の直後に続く「註」においては、「日本の優れた英米法研究者(例えば田中英夫)からも聞かれた言葉であるが、W.W.Buckland, A.D.McNair ”Roman Law and Common Law. A Comparison in Outline” 1936,2ed.,1952 という 名著がこの視角から生まれた。」として、田中英夫が、ローマ法とコモン・ローの類似を既に指摘していたことを、示唆しているからです。

ここまで読んできて、漸く、木庭顕「法存立の歴史的基盤」の一節、「政治やデモクラシーの面で先頭を切るイングランドでもまた、そもそも「占有の再発見」も「人文主義法学」も(密やかな影響を除くと)受け取らなかったにせよ、法ないし法学の相対的孤立は(ここではことのほか積極的な意味を有したとはいえ)明白であった。」という箇所(52頁)に、注意深く書き込まれた、ローマ法がイングランド法に与えた「密やかな影響」や、却って大陸法との断絶が「積極的な意味」をもっていたという叙述の真意が理解されるのです。

以下では、「お粗末な比較」ながら、アメリカ法をかじってみて私が感じたところを、いくつか挙げてみたいと思います。

■ラテン語

まず、アメリカの法律文書を読むと最初に気づくのは、ローマ法の「密やかな影響」として、至る所にラテン語が使われていることです。特に、ここぞという殺し文句に、イタリック体でラテン語が登場する傾向があるようです。

例えば、判例を引用する際に事件名の前に現れることのある「In re」。語源を記載していることで有益な「カレッジクラウン英和辞典」によれば、「に関して(concerning).[L.]」とラテン語の語源略符である[L.]が付されています。

同じく、対人管轄権を表す「in personam jurisdiction」は、「《法律》(訴訟で)対人の(opp. in rem). [L. against the person]」。対物管轄権を表す「in rem jurisdiction」は、「《法律》(訴訟で)対物の(opp. in personam). [L. against the thing]」と、裁判管轄権の基本概念からして、わざわざご丁寧に対義語でラテン語が使われています。

そもそも「法廷」を示す言葉として「forum」[L. forum]というラテン語が使われることもあります。木庭教授の著書において、「公共空間」「公共広場」「forum」が、重要な基本概念であることを理解している者にとっては、垂涎ものの生きたアメリカ法概念ではないでしょうか。

田中英夫編「英米法辞典」には、そういったラテン語由来の英米法概念がことごとく収録されておりますので、大変に役立ちます。田中英夫であったならば、間違っても英米法が「ローマ法と無関係」などと、誤解を生むような表現は使わなかったであろうと想像されます。

ちなみに「イギリスの制定法集であるHalsbury’s Statutes of England and Walesの索引巻にある制定法の年代順一覧表を見ると、その冒頭に13世紀に制定された数個の法律が現行の効力を持つものとして挙げられており、その中にマグナ・カルタ(1297年)も見出すことができる」(丸山英次「入門 アメリカ法」)との由。そういえば、最古の現行制定法マグナ・カルタ Magna Carta もラテン語[L. Great Charter]ですね。

■当事者対抗主義

日本でも「当事者主義」という言葉は良く使われますが、アメリカ法の解説では、より当事者主導である、ことを表すためか、「当事者『対抗』主義」という訳語が使われることもあります。そのニュアンスを伝えるものとして、丸山英次「入門 アメリカ法」から再度引用して見ます。

「アメリカにおいて、自国の民事訴訟手続きの特徴として第一に挙げられるものはその対審的性格(adversarial character)である。そこでは、訴訟は、敵対する当事者(ないし当事者を代理する弁護士)の勝訴を目指しての競争と捉えられる。訴訟は当事者の要求(申立て)に裁判所が応えるという形で進行するため、訴訟の進行の主たる責任は当事者が担うことになる(当事者進行主義―party-prosecution)。主張立証活動も当事者の責任でなされ、提起されない争点、主張されない異議、指摘されない論点は、(例外はあるが)当事者によって放棄されたものと扱われ、無視される(party-presentarion―大雑把に言っていわゆる弁論主義に対応する)。」

この文章で注目すべきは「大雑把に言って」です。要は、大陸法的な訴訟進行と、コモン・ロー的な訴訟進行は、まったく異なるものであり、「大雑把」な比較しか本質的には許されないことを著者はいわんとしているように思われます。

これに響いてくるのは木庭顕「ローマ法案内」の次の箇所です。

「in jureの終局判断はプラエトルの職権的判断の布告ということになる。彼の元では陪審は存在しない。ただし当事者の申し立て(主張)によらなければ一切手続は動かない。その限度でしか判断が与えられない。職権判断を求めるのではあるが、処分主義を含む当事者主義は貫かれた」(64頁)。

「本案手続」に関する諸原則の「基本は、当事者が口頭で弁じ立てて争うということであり」「裁判の中核的要素である。さらに、両当事者が弁論したところ以外から陪審は判断材料を採ってはならない。」「他方、論拠としては何を言おうと自由であり、何か特定の証拠や証人によらなければならないということはない。それよりも弁論自体の方が重視される。」「何を言おうと、何を提出しようと、構わない。」「つまり法定証拠主義の部分が全く無い。」「必要な論拠を当事者が提出しない以上どうしようもないというのは、ローマでもそうである」(66頁)。「今日およそ当事者主義と呼ばれる原則に属し、その中の特定の一つ処分権主義である」「かくして、訴訟が当事者のイニシアティヴに懸かるのは既に述べたとおりである」(67頁)。

このように当事者主義が、訴訟進行上の原則であるだけではなく、そのことが実体法上の権利の有無にかかわる(「大雑把」に言って、処分権主義)という点において、アメリカ法とローマ法は、類似性があるのではないか、と思われます。これは、「権利」を実体的かつ演繹的に思考する大陸法的な思考とは、大きく異なるように思われます。

■演繹法と帰納法

このアメリカ法とローマ法の思考の近親性。対するに大陸法の演繹的性格の淵源を探るため、ドゥルーズ・ガタリ「哲学とは何か」を読んでみましょう。

ドゥルーズは「哲学地理学」という呼び名で、哲学概念には「或る歴史とさらには或る地理」があるといいます。そしてギリシャ哲学(ひいてはローマ)の特徴を次のように要約します。

「哲学は、ひとつのギリシア的なものに見えるのだし、都市国家(ポリス)がもたらしたものと一致するのである。すなわち、都市国家は、友からなる社会つまり対等な者からなる社会を形成し、そればかりでなく、都市国家どうしで、またそれぞれの都市国家の中で対抗関係を促進し、たとえば恋愛、競技、裁判、執政官の職務、政治、そして思考にいたるまでの、すべての領域において権利要求者たちを対立させたということである。」

そしてアメリカ哲学とイギリス哲学について、このように述べます。

「なるほど、フランスではかくも理解されていないプラグマティズムという哲学的企てが、アメリカにおいては、民主主義革命および新たな兄弟社会と関連しているとしても、その辺の事情は、十七世紀のフランス哲学黄金時代、十八世紀のイギリス、十九世紀のドイツの場合と同様ではない。しかし、同様ではないということは、人間たちの歴史と哲学の歴史は同じリズムをもっていないということを意味しているにすぎない」

「イギリス人はまさしく、内在平面を、移動可能なしかも動いている土地、根源的経験の野、群島状の世界として扱うあの遊牧民(ノマド)であり、そのような世界の中で、島から島へと、また海の上に、自分らのテントを張るだけで満足しているからである。バラバラになって、フラクタル化し、宇宙全体に広がった古きギリシア的大地の上で、イギリス人は遊牧するのだ。イギリス人は、フランス人やドイツ人のように概念をもっていると言うことはもってのほかである。イギリス人は概念を(ある経験から)獲得するのであり、獲得したものしか信じない。」

そしてこう結論付けます。

「黙約の概念を構成している慣習=持ち前(アビチュード)は、どのようなものであろうか。それはプラグマティズムの問である。イギリス法は慣習法あるいは黙約による法であり、他方フランス法は契約法(演繹体系)であり、ドイツ法は制度法(組織的全体)である。哲学が法治国家のうえでおのれを再領土化するとき、哲学者は哲学教授へと生成するのだが、ただしそうした事態は、ドイツでは制度と地盤固めによって成立し、フランスでは契約によって成立し、イギリスでは黙約によって成立するのである。」

哲学と法が地理的に連帯していることが、ここでドゥルーズのいわんとすることのように私には思われます。

■占有原理

最後に、アメリカ法の「lien」という概念をとりあげてみたいと思います。この「lien」という概念は、極めて日本法概念に翻訳しがたいものの一つで、留置権、先取特権などの訳語があてられることもあるものの、他方、翻訳不可能であることを良心的に示す試みか、「リーエン」とそのままカタカナで記載される例もしばしば見かけられます。

再び「カレッジクラウン英和辞典」を覗くと、「《法律》留置権、先取特権(債権者が債務者の財産に対して有する権利). [F.<L. ligamen ,tie]」とラテン語由来のフランス語概念であることが示されています。フランス語でlien とは「絆」のことです。

ここでふと思い当たるのは、木庭顕の質権に関する議論です。

「個別の市民的占有に質権設定をみとめるとしてもなお、質権者はその市民的占有を売却して得られた収益について優先弁済受領権を保持するにすぎない」「質権者に対して占有防御を認めるのであるが、質権者に市民的占有を認めるのでなく、所有権基体の崩壊、とりわけ(他の)債権者達自身による侵食、から防御する権能を与えるものである。いわば管理占有の付与である。」(「ローマ法案内」184-185頁)

そして占有に関する議論において、

「xという資源に対して持つ関係は形の問題であり、それの(abxかbaxかの)単純なパタン認知である」(「ローマ法案内」59頁)

と書くとき、それが、「a」または「b」のどちらが、「x」と近い「絆」をもつか、すなわち「lien」をもつか、という問題だったのだと、ハタと気づくことになるのです。

またそれは、「先取特権は領域に原生的な小信用が展開するときに不可避の形態である」(「『ローマ法案内』補遺」194頁)という指摘にもつながる、長い射程を持った議論のはじまりでもあるのです。

では。

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Contemporary Styleな作曲家-吉松隆・大河ドラマ「平清盛」

【今日の言葉】

遊びをせんとや生まれけん 戯れせんとや生まれけん
遊ぶ子どもの声きけば わが身さえこそゆるがるれ
(後白河法皇編「梁塵秘抄」359歌)

【読書日記】

こんばんは。ともです。
今日はNHK大河ドラマ「平清盛」を観た感想など。

■藤本有紀「平清盛」

このドラマで鳥羽上皇を演じる三上博史は、インタビューの中で、「藤本有紀さんの脚本を読んで、ギリシア悲劇やシェイクスピア作品を想起しました」と感想を語っていますが、私も第一話を見て、古典ローマのウェルギニア伝承を思い浮かべました。

舞子(吹石一恵)が白河上皇(伊藤四郎)の前に捕らえ差し出される。場面は白河院のお白州(裁判所)。まるで、ウェルギニア伝承において、悪代官アッピウスが、平民の娘ウェルギニアを許婚イキリウスから奪おうとした裁判の場面を想起させます。祇園女御(松田聖子)や「舞子をわが妻としとうございます」という平忠盛(中井貴一)の必死の抗弁も虚しく、「命をもってあがなってもらう」と死刑が宣告されます。

社会に見捨てられた「最後の一人を守ること」、いいかえれば、「かけがえのない一人の女性を守ること」という、後のローマ法における占有原理の原基となったこのウェルギニア伝承と、ほぼ同じ形の悲恋物語がここには語られているのです。舞子は平安末期の歌舞遊女である白拍子という設定でした。これも、同じく占有原理が貫く物語である、ローマの喜劇作家プラウトゥス「幽霊屋敷」Mostellariaのヒロインであるピレマティウムが芸妓meretrixであったことを思い起こさせます。

ウェルギニア伝承の後、ローマでは何が起こったか。専制体制が打倒され新しい政治が開始され、法が成立しました。「平清盛」が、平清盛の出生からではなく、後の時代の源頼朝(岡田将生)による鎌倉幕府の成立を予感する場面から始まることは偶然の一致ではないでしょう。平安末期の荒廃した「戦争状態」が、ウェルギニア伝承と同型の動機を持って、平清盛から源頼朝を経て「社会状態」に移行することが、この第一話の冒頭の場面で示唆されているのではないかと思います。

■吉松隆「メモ・フローラ」

と、意外なことにローマ法原理に重ねて観てしまった大河ドラマですが、実はここ数年まったく観ていなかった大河ドラマを、わざわざ第一話からチェックした本当のお目当ては「吉松隆の音楽」でした。既に交響曲を何曲も発表しているクラシックの作曲家ですが、最近では、映画「ヴィヨンの妻」で ―退廃的な太宰治の内面を描写したかのような― 映画音楽も手がけています。

なぜ、吉松隆の大河ドラマの劇伴に注目するかといえば、もしかして彼は、日本の国民的作曲家になるのではないか、というひそかな期待を持っているからです。とはいっても政治制度や法律的擬制としての国民とはそれほど関係がなくて、例えば、「フランスのラムルー管にベートーヴェンを弾かせるとまるでダメなくせに、ラヴェルを弾かせると途端に音楽が生き生きとする」といった意味における国民性です。いわば音楽における「方言」のようなものに近いと言ってよいでしょうか。

日本にも著名な現代作曲家は幾人もいますが、そのような方言をもった作曲家は、彼をおいては他にいないのではないか、と私には思われます。「いわゆる」現代音楽に決然と叛旗をひるがえし(ている点で「通の方」の評価が分かれるみたいですが)、甘いメロディーを奏でる現代の作曲家ならば他にもいるはずです。彼の音楽には、その際立った「方言性」とでもいうべきものがあり、われわれの耳には、心地良く音楽が入ってくるように思われます。ピアノ・コンチェルト「メモ・フローラ」が彼のその特性を最も良く示しているのではないかと思われます。

■Contemporary Style(今様)な作曲家

冒頭に引用した「梁塵秘抄」の歌は、大河ドラマ「平清盛」おいて舞子(吹石一恵)による「今様」の唄として節をつけて歌われています。「梁塵秘抄」を読めばわかるように、「今様」の大半は、白拍子によって歌われた俗謡で(松田聖子の役「祇園女御」は、後に、後白河法皇の今様の師匠「乙前」となるようで、引用した歌との繋がりが示されています)、同時代の「新古今和歌集」のようなハイ・カルチャーではなくもっと下賎なサブ・カルチャーに属するものです。

下賎なサブカルですから、もちろん、「遊びをせんとや生まれけん ~」の歌には、二重の意味が含まれています。「無心に遊ぶ子どものように夢中で生きたい」という大河ドラマ的な模範解答から、「遊女として生まれたからには~」という遊女の憂愁を歌った唄とも解することまでもできるのです。後白河法皇はその意味をわかった上でこの唄を拾遺していると考えたほうが良いでしょう。

吉松隆も、まるで後白河法皇のように、ハイ・カルチャー(クラシック音楽)に属しつつ、サブ・カルチャー(反=現代音楽。TARKUS!)とのあわいに立っているようです。Contemporary Style(今様)な作曲家、とでも呼んでみたいところでしょうか。

では。

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「『ローマ法案内』補遺」補遺

【今日の言葉】

めぐりあひて 見しやそれとも わかぬ間に
雲がくれにし 夜半の月かな
(紫式部)

【読書日記】

こんにちは。ともです。

「文學界」最新号に掲載されている朝吹真理子のエッセイがすばらしくて、タイムラインに沿って、眼にふれたもの、耳にきこえるもの、感じたことを淡々と描いているだけなのに、読み終えたときに、「ふわっ」と、思考の全体像が浮かび上がるこういう文章を「真似してみたい!」と思ったのですが、僕にはそんな文才はないので、今日は、引用のみで読書日記です。

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民主主義と悲劇は、ペリクレスとソポクレスのもと、アテネで結婚した
(ジャン・リュック・ゴダール「ゴダール・ソシアリスム」)

秒とは「セシウム133の原子の基底状態の二つの超微細準位の間の遷移に対応する放射の周期の91億9263万1770倍の継続時間である」
(朝吹真理子「Happy New Ears」)

いま現在、世界で最も精確とされ、世界標準時刻を刻むのに用いられているのは、セシウム原子時計。ところがこれは数千万年に1秒くらい狂う
(立花隆「四次元時計」)

原子炉が原子核分裂の過程において高エネルギーを放出する核燃料物質を燃料として使用する装置であり、その稼動により内部に多量の人体に有害な放射性物質を発生させるものであって、原子炉を設置しようとする者が原子炉の設置、運転につき所定の技術的能力を欠くとき、又は原子炉施設の安全性が確保されないときは、当該原子炉施設の従業員やその周辺住民等の生命、身体に重大な危害を及ぼし、周辺の環境を放射能によって汚染するなど、深刻な災害を引き起こすおそれがある
(最高裁判所判決 平成4年10月29日民集46巻7号1174頁)

葦原の 瑞穂の国は 神ながら 
言挙げせぬ国 しかれども 言挙げぞ我がする 
言幸く ま幸くいませと 障みなく 
幸くいまさば 荒磯波 ありても見むと 百重波 
千重波にしき 言挙げす我は 言挙げす我は
(万葉集 巻第十三 相聞)

お金は公共財産だ
(ゴダール・ソシアリスム)

マリス スタンフォードでは正確には何を学んでいたのですか?
レベッカ セミナーの指導です。信用創造と文学の創造について。
(ゴダール・ソシアリスム)

プレコミットメントは、自分の理性に限界のあることを承知している人間(団体)が、非理性的な行いをしないよう、予め自分の行動に枠をはめておくという工夫です。サイレンの歌声に魅惑されないよう自分の身体を船のマストに縛り上げさせて航海を続けたオデュッセウスの例がよく引かれます。政府が自分で通貨の発行量を操作できるようにすると、景気浮揚を目指して通貨発行量を増やし、インフレを招いてしまう危険があるので、金融政策については独立した中央銀行に権限を委ねることにするというのも、(中略)プレコミットメントの一つとして説明することができます
(長谷部恭男「憲法入門」)

ともかく、ナポリはいいとして、アルジェからバルセロナへの航路で、アレクサンドリア、ハイファ、オデッサに寄るの?(ゴダール・ソシアリスム)

子供は国民の一部。意思を持つのは大人と同じ
(ゴダール・ソシアリスム)

もしナシオン(nation)の意味を「国籍保持者の総体としての国民(全国民)」、プープル(peuple)の意味を「社会契約参加者(普通選挙権者)の総体としての国民(人民)」と解すれば、二つの主権原理(ナシオン主義とプープル主義)は、本文に説いた主権主体としての「全国民」と「有権者団」の区別に対応する
(芦部信喜「憲法」)

問題は、憲法上の権利が保障されるのは、自分の意思を自分で決められる個人だけかというものです。未成年の子どもは、こうした能力を充分には持っていないと考えられています
(長谷部恭男「憲法入門」)

法が正しくないときには、正義が法に優る
(ゴダール・ソシアリスム)

たしかに、第二次世界大戦時におけるファシズムの苦い経験を経て、戦後、抵抗権思想が復活し、それを再び人権宣言の中に規定する憲法も現れるようになったが、それは本来の抵抗権をすべてカバーするものではない。抵抗権の本質は、それが非合法的であるところにあり、制度化にはなじまないと解される
(芦部信喜「憲法」)

民主主義と悲劇は、ペリクレスとソポクレスのもと、アテネで結婚した
(ゴダール・ソシアリスム)

アンティゴネ 妹イスメーネー、オイディプスの一族から出た双子の子孫よ
(ゴダール・ソシアリスム)

ゴダール ソポクレスがいなければペリクレスもいなかった
(ジャン=リュック・ゴダール インタビュー)

少なくとも6世紀末にはAthenaiにおいて悲劇は厳密な意味における政治制度の一翼として確立される。(中略)もちろん上演自体が完璧に公共的な性質の事柄である。それは等しく皆の事柄である。したがって完全に共和制財政原理に則って実現される。公共的な性質を一層際立たせるのは必ずコンクールの形式において上演されるということである。複数のパラディクマ再実現化が公開で競うagonという形態は多元性と対抗的要素、およびその年に一つという一義性(皆のもの)、の両方を保障する
(木庭顕「デモクラシーの古典的基礎」)

Sophoklesは442年の”Antigone”においてデモクラシーを根本から支える屈折体に完成された形態を与えるに至る。(中略)専制と自由、政治的決定と神々の正義、実定法と自然法、ポリスと家・親族、といった図式によって簡単に作品を説明できるという錯覚を与えるに十分である
(木庭顕「デモクラシーの古典的基礎」)

君のその解釈は余り見込みがない。何故ならば、君はその先の部分を引き忘れてはいないか。corpus を持ちうるとしても、「まさに政治システムの範型にならってその限りで共同のものを持ちうるにとどまる」(proprium est exemplm rei publicae habere res communes)、とあるのを君は忘れたか。そう、組合自体「政治システムの範型」(exemplm rei publicae)に従っているではないか。corpusを与えるならば、それはもっと危険なことであるから、それを中和するためには「政治システムの範型」はもっと厳密に適用されなければならないだろう。構成員が自由に討議して「手足」を動かしコントロールするのでなければならないだろう。そのことを保障するための様々な機関が置かれなければならないだろう。さて、彼等の組合において「政治システムの範型」は厳密に適用されているだろうか。
(木庭顕「現代日本法へのカタバシス」11『請負・法人』)

企業統治にも、民主主義のシステムと同じように、チェック&バランスの機能が不可欠だ
(マイケル・ウッドフォード「オリンパス外国人元社長の告白」)

これが一面で日本の近代化に固有の「突貫工事」の苦しさである
(木庭顕「夏目漱石『それから』が投げかけ続ける問題」)

では。

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