書籍・雑誌

諸文化の大がかりな連帯に向けて ― 木庭顕『憲法9条へのカタバシス』

【今日の言葉】

わたしたちはいつか最愛の子どもに会いに行く。
(松浦理英子『最愛の子ども』)

【読書日記】

こんばんは。ともです。
今日は、木庭顕『憲法9条へのカタバシス』の雑感をいくつか。

■憲法9条解釈の諸前提

木庭顕『憲法9条へのカタバシス』は、主論文『日本国憲法9条2項前段に関するロマニストの小さな問題提起』を中心に、著者の政治システム論と憲法論をまとめた単行本です。同時期に発売された『法律時報』2018年5月号『憲法の土壌を培養する』における蟻川恒正・樋口陽一との鼎談と併せて読むと、きわめて明快に著者の考える憲法9条論、ひいては、憲法論、政治システム論、社会文化論が理解できると思われます。

かなり乱暴に要約すれば、憲法9条を解釈するためには、諸前提がある。ということになります。文芸・文学による深い人間理解・社会理解を背景に、政治システムを構築し、近代立憲主義を創設し、憲法9条にまで至った、社会的・文化的諸思想・諸動向の意義を、「共時的かつ通時的」に理解する必要性のあることが、本書を読めば、痛いほど切実に感じ取れるはずです。

というわけで、本書は、今後、政治・憲法を論じる際における必読の書となることは間違いありませんので、みなさま早く読みましょうね。

■知の共和国に向けて

とはいえ、誰もが簡単に本書を読めるわけではありません。本書は入門書ではないのです。一見、初学者でもとっつき易そうにみえる『法学再入門:秘密の扉 ぜんべえドンとオハナぼう、番外篇』も、極めてレベルの高いローマ法概念をめぐる議論が展開されています。

特に『国家学会雑誌』が初出である『Hobbes,De civeにおけるmetus概念』はある程度の歴史的・哲学思想的素養がないと理解は困難ですし、刑事法と民事法にある程度通じていないと何を言わんとしているのか、正確な理解は困難です。取り敢えず、人文科学系の知的素養を基に本書を読もうとされる方には、適当な法律学辞典を片手にお読みになることをおすすおおめします(特に表象文化論の方は!)。その先には、(「リアリスト」と呼ばれる全然リアルな認識を持ちえていない国際政治学者等の)卑俗な通説を鮮やかに覆す新鮮なHobbes像がたちあがってくるはずです。

このように、木庭顕の著作には、まるで中谷彰宏が自己啓発本で言い訳をする場合のように、「意識の高いきみたち」に向けてレベルを落とさずに語る、という悪い癖があります。なので、しばしば意識が高いと自己認識する読者のせっかくの意欲を挫くことにもつながるようですが、私は、スルメだと思って、何度も何度も時間をかけて噛み砕くように心掛けています。そのうちに味が出てきますよ。

■漱石論・鴎外論

なぜ憲法9条を論じる本書に、漱石論と鴎外論が入っているかについては、本書『序―日本国憲法9条の政治的弁証に向けて』が詳しいです。

すなわち、「私(註:著者)が苦痛に感ずるもの(註:権力と利益をめぐる集団)を体系的に解体する営みが政治であり、これは文学によって基礎づけられた」(本書2頁)からに他なりません。

その漱石論で、私が注目するのは、本書123頁の註66)における蓮實重彦への言及です。この註は初出『現代日本法へのカタバシス』においてはなく、本書の改定によって初めて言及されたものです。おそらく著者による蓮實重彦への言及自体、これが初めてではないでしょうか。

ここで著者は、ダヌンチオの赤と青に関し、蓮實重彦『夏目漱石論』が「よくpolalityを捉える」と評価しつつも、「そのpolalityを作者がどう使って何を言おうとしているのかは関心外であるようだ」とさりげなく批判しています。いわゆる註でバッサリ切る、というやつです。深読みすれば、著者による表象文化論批判とも読めなくはありません。「どう使って何を言おうとしているのかは」、文学と政治の連帯にとって極めて重要であり、それを「関心外」とは何事か、と。

しばらく前の私であれば、「そうだ、そうだ」と著者に同調していたかもしれません。しかしながら、蓮實重彦自身が、表象文化論という言葉について「この言葉が示す意味内容などどこにも存在しない。存在しないからこそ面白いんじゃないでしょうか?(笑)」(ユリイカ『総特集 蓮實重彦』35頁)と明言している以上、私は「関心外」であることに積極的な意味をこそ見出すべきではないか、と思うのです。

私は、この蓮實重彦のいう「どこにも存在しない」表象文化論とは、「誰のものでもない」公共空間を市民社会の側に築くという、蓮實重彦の倒錯した戦略性を持った「市民社会論」なのではないか、と思われるのです。

このとき、著者の鴎外論におけるフランスのCritiqueの伝統と蓮實重彦の表象文化論が交錯するのではないか。と私は考えます。

蓮實重彦が「憲法など、改憲されようが九条が残されようが、それをことさら意識することなく、「好きなこと」をやるつもりである」(『これからどうする』蓮實重彦「「好きなこと」の大がかりな連帯に向けて」36頁)と高らかに宣言するとき、著者のいう「知的階層」との距離は、それほど遠くないように思われます。

では。

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全公法私法の泉fons omnis publici privatique iuris ― 木庭顕『新版 ローマ法案内』

【今日の言葉】

市民法における定義は総て危険である。
omnis definitio in iure civili periculosa est.
(原田慶吉『ローマ法』)

創造的であるためには、ローマの人々が何を問題としたのかというところに立ち返って考え直す以外にない。
(木庭顕『新版 ローマ法案内』)

【読書日記】

こんばんは。ともです。
今日は、木庭顕『新版 ローマ法案内』を読んだ若干の感想です。

尚、近時木庭先生の著書を使って遊んで参りましたページ単価の数量分析は、個人の楽しみとしては当然行ってみましたが、ここでは行いません。皆さま方でお楽しみください。

■改定方針

このブログをお読みの方ならば周知の通り、『新版 ローマ法案内』(以下、新版)は、2010年12月に初版が出された『ローマ法案内』(以下、旧版)のヴァージョンアップです。『ローマ法案内2.0』などと呼べば、表象文化論的には通りがいいのかもしれませんが、政治学的・法学的センスと知的水準を問われかねませんので、ここでは敢えて、政治・法を学ぶ者の矜持にかけて新版・旧版と呼んでおきます。

まずは新版と旧版の目次を比較すると、その改定方針の意図が透けて見えるはずですが、意外なことに章だては新旧ほぼ同一であり、唯一、旧版の6章(「ローマ法」伝播に関する簡単な注記)が削除され、新版では「補遺」の章に置き換わっています。ここでは、旧版の基本的構造は変更する必要がないという意思が示されているのです。

それもそのはずで、これまた周知の通り「本書はPOSS(筆者注『法存立の歴史的基盤』)の要約版という性格」(新版2頁)を持つことから、十分な分析・検討・研究を経て叙述された『法存立の歴史的基盤』の成果の骨子は変わらない、ということを示しています。

では何が変わったのか。

旧版と比較してかなり縮約された新版「はしがき」にその改定方針が記載されています。
すなわち「叙述を多少簡潔にするというもの」で「あった」と当初の意図が示された後に、逆接の接続詞「しかし」が続き、「結果」的に「基幹の部分の説明」を「全面的に入れ替え」したと吐露されているのです。

この「しかし」と「結果」という二つの単語に込められた、著者と編集者の想像を絶する「割の合わない」苦労を第三者が想像してみても始まらないので、以下、「基幹の部分」の新版の叙述を読んでみた若干の感想を記載します。

■感想その1~「政治」の定義がはっきりわかる!

新版のいちばんの目玉が、「政治」の定義が明快に示されているところではないかと思います。「第1章 歴史的前提」の「1-1 政治」は極めてクリアな説明で、しかも「自由」が社会の「指導的原理」と爽快に断言しています。言われてみれば、当たり前のことなのですが、私自身が「当然の前提は記載しない」「定義は記載しない」という悪しき民事法的思考に染まってしまったのか、新鮮な叙述に写ります。

この裏返しとして、「政治」の対抗的社会原理である「枝分節segmentation」についても明快な定義がなされています。当然のごとくマルセル・モース『贈与論』(新版9頁,註9)にも言及がありますが、ここまで丁寧な叙述がされていれば、「モースもローマ法を援用しているが違いが判らん」などという声はおそらく出てこないのではないかと思われます。

■感想その2~「ウェルギニア伝承」が解説されている!

新旧の比較において索引を比較するのも大変興味深いのですが、目を引くのは、旧版においては一切触れられることのなかった「ウェルギニア伝承Verginia exemplum」が新版には堂々と記載され(新版217頁)、本文においては、約8ページにわたりその内容と意義、占有原理の解説がなされていることです(新版「第2章民事法の原点」「2-3 占有」47頁以下)。

既に、木庭顕『法学再入門 秘密の扉―民事法篇』の読者であれば、「ぜんべいとオハナ」のお話がウェルギニア伝承のパロディであることにお気づきでしょうが、内容とその意義をこれだけ簡潔に記載したところに新版の意義があります。なぜなら、民事法の原点である「占有」概念の「設立先例exemplum iuridicum」がウェルギニア伝承そのものだからです。

歴史学徒ではない私などは、exemplum iuridicumを”判例”などと安易に言い換えてしまいたくなる欲望を抑えきれなくなるのですが、そこは学問的な厳格性を尊ぶ木庭先生のことですから、「本書では以上のような(筆者注:徹底したヴァリアントの偏差の分析)作業を一切省略してよくできた占有概念設立先例があるがごとくに叙述する」(新版49頁,註11)と注意書きすることを忘れません。

その意味で、『法存立の歴史的基盤』ひいては『秘密の扉』『民法の基礎』『公法の基礎』を読むうえで、まさに「案内」となる叙述に徹しているものと評価されます。特に、新版55頁「図1 占有/民事訴訟」の図解は極めて明快です。

■感想その3~bona fidesと所有権の社会構造がわかる!

図1以外にも新版では図表があと2つでてきます。「図2 bona fides」(新版95頁)と「図3 所有権(dominium)の躯体」(新版132頁)です。それぞれ直感的に各々の社会構造段階の違いが理解できるように大変よく工夫されています。

特に所有権の社会構造の図解が有益で、木庭先生の日本国憲法9条2項論を理解するためには、非常に有益な図解になっています。

■最後に

この後も、中高生を対象にした木庭先生の講義録が出版されるようですので、まだまだ楽しみなのですが、そういえば『政治の成立』にはドゥルーズの『差異と反復』への言及があり、最新の国家学会雑誌論考には「反復」の語もみられますので、どこかで木庭先生のドゥルーズ論を読んでみたいなあと思っています。興味を持たれた編集者の皆さまは是非ともご検討をよろしくお願いします。

あ、最後に。新版はコスパが圧倒的でお買い得ですよ。

では。

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小説という真赤な嘘を嘘として築くために、蓮實重彦「伯爵夫人」は本当以上のもっともらしさで小説と戯れてみせるのだ

【今日の言葉】

だが、もしそれが事態の正しい解釈だとするなら......
(蓮實重彦「陥没地帯」)

【読書日記】

こんにちは。ともです。
今日は文芸誌「新潮」2016年4月号に掲載された―蓮實重彦の「オペラ・オペラシオネル」以来―22年ぶりの新作小説「伯爵夫人」を読みます。
内容にわたる記述を含みます。未読の方はご注意ください。

■あらゆる時代を通じて徹底した希薄な輪郭しか享受しえなかったこの不幸な記号

蓮實重彦はこれまでに2作の小説を発表しています。1作目の「陥没地帯」は、「エピステーメー」1979年7月臨時増刊・終刊号に掲載され、1986年3月に哲学書房から刊行、1995年2月には河出書房新社から文庫本として再刊されています。その小説が与えた影響と非影響については文庫版の武藤康史「解説」に詳しいのでここでは繰り返しません。

2作目の「オペラ・オペラシオネル」は、「文藝」1994年夏季号に掲載され、1994年12月に河出書房新社から単行本が刊行されています。残念ながら、どなたかが書評をしたものを紙の刊行物では見たことがありませんし、国立国会図書館サーチで検索してみてもそれらしきものは見当たりません。

ということは、1979年にデビューした新人小説家たる蓮實重彦は、なんとゆうに30年を超える小説家としてのキャリアのなかで、これまでたった2作しか小説を発表せず世評をもほとんど得ていない「知られざる作家」ということになります。何と贅沢な小説家なのでしょうか。東大総長まで務めて世間的にはその名の通った小説家がこれまでたったの2作しか小説を発表しないということが、この21世紀の日本で許されるものなのでしょうか。

と、思って今回「新潮」に発表された新作小説を読むまでは「既に蓮實重彦は小説家を廃業したのだ」と私はすっかり誤解していました。その誤解を一瞬で吹き飛ばすほど、蓮實重彦の新作小説「伯爵夫人」は狂暴な言葉の運動を見せていたのでした。

■実際、映画が何であり文学が何であるかを知るものなど、誰もいはしない。

蓮實重彦「伯爵夫人」を通俗的に要約してしまえば、1941年12月8日の午後から夕方まで、帝国ホテルの一角で、旧制高校に通う華族の嫡男・二朗と、伯爵夫人と呼ばれる中年女が過ごす、現在と回想の入り混じった「語り」が中心となる官能小説。といったところでしょうか。付け加えれば、至る所に戦前に公開された映画からの引用がなされ、時代背景を示唆する文学的な記号がちりばめられ物語を彩るとともに、スパイ映画の要素もふんだんに盛り込まれ、戦争映画のような場面も登場する一大活劇のような小説、とでも言っておけばひとまず安心できる文脈に収まるかもしれません。

とはいえ、そんな通俗的な要約がこのテクストの前では全く歯が立たないことは明白です。

「1941年12月8日」とひとまずは要約してみたものの、テクストに出てくる「帝國・米英に宣戦を布告す」からの推測であり、「帝國・米英に宣戦を布告す」というタイトルが新聞の一面に載ったのは朝日新聞の1941年12月9日の夕刊で二朗が目をやった夕刊とも符合するのですが、「伯爵夫人」のテクストには「1941年」とも「12月」とも「8日」とも一言も出てこない。テクスト外の事情によって、われわれはそう読んでいるのに過ぎないのです。

「ボヴァリー夫人」に「エンマ・ボヴァリー」という記載はないと断言し、テクストにテクスト外のものを読む者を断罪する蓮實重彦ですから、これはうっかり「戦前の日本が舞台となった」などと口にしてはいけないのです。なぜなら、「1941年12月8日」とはテクストのどこにも記載されておらず、それはテクスト外のものを読む行為だからにほかならず、仮にテクストの現在が「1941年12月8日」であったとしても、なおその日に「真珠湾攻撃」は既に行われており、とても「戦前」と呼ぶことはできないからです。

■誰が、どこから語っているか

映画的な記憶を呼び起こす記号の群れがこの小説にはいくつも出てくるのですが、伯爵夫人の名前の由来である「素顔の伯爵」とは、マンキーウィッツ監督「素足の伯爵夫人」へのオマージュでしょう。

マンキーウィッツ監督「素足の伯爵夫人」では、「ジプシー女でかつての裸足のダンサーは伯爵夫人となるのだが、夫は戦傷による性的不能であり、不貞に走り夫の銃弾に倒れる」という物語が語られます。片や蓮實重彦の「伯爵夫人」は、日本人女でかつての高級娼婦は、結婚していたわけではない「素顔の伯爵」と晩年の数年間を過ごし、周囲から「伯爵夫人」と呼ばれるようになり、戦傷による性的不能となった男のからだを心から愛した、という物語が語られます。結婚と未婚、ジプシー女と高級娼婦、愛情と嫉妬という対立軸を作りながら、性的不能の男をめぐってのヴァリアントを作るこの物語は、「素足の伯爵夫人」をオリジナルとしながら、そのパロディとして「素顔の伯爵」夫人という物語を語っているかのように思われます。

「それにしても、目の前の現実がこうまでぬかりなく活動写真の絵空事を模倣してしまってよいものだろうか。」

しかしながら、仮に「伯爵夫人」の小説的現在が「1941年12月8日」だとしたら、1954年に公開された「素足の伯爵夫人」がオリジナルであろうはずもないのです。では、「素足の伯爵夫人」が逆に「伯爵夫人」の物語をオリジナルとなるのか、といえば事態はそんなに単純ではないと思われるのが正しいでしょう。なぜなら、蓮實重彦「伯爵夫人」は2016年の日本で発表されたフィクションだからです。

また同じことが「男性の好きなスポーツ」(ハワード・ホークス監督 1964年)についても言えるでしょう。

■帝国の陰謀

このようなテクストのオリジナルとヴァリアントの複雑な関係、いいかえればテクストとその上演としての現実の「事態の逆転」を近代の「反復」として描いているテクストがこの小説の著者によって既に書かれています。

それが蓮實重彦「帝国の陰謀」です。

フランス第二帝政期に内務大臣、立法院議長として活躍したド・モルニーの、ナポレオン三世のクーデターに際して出されたテクストと、彼が草した喜歌劇のテクストを分析する蓮實重彦は、「まだ上演されてさえいない作品を、それが描かれるよりも正確に十年前にあらかじめ実演」してしまうような事態が近代以降成立していることを手品のようなあっけなさで描き出しています。

ド・モルニーが「私生児」として生まれ、生涯他人の名前でしか署名していないこと、始原としてのオリジナルな署名を欠いたテクストという主題に加え、第二帝政期の爛熟した文化、ドゥミ・モンドと呼ばれる高級娼婦や情婦という乱れた性風俗にも触れる蓮實重彦は、どこか「伯爵夫人」の世界をその二十五年前に既に描いていたかのようです。

■反復

「反復」としては、この小説は、いくつもの細部の反復が繰り返されていきます。

「ばふり」という擬態語、白目をむく気絶、ルイーズ・ブルックスまがいの短い髪型、修道女のモチーフ、戦場の光景......。

これらの反復は、何がオリジナルで何がヴァリアントなのかを問うことを無効にして、結局はすべてがフィクション、本当以上にもっともらしい「嘘」なのだ、とでも突き放しているかのようです。

最後に、この小説を現時点で的確に批評していると思われる文章を引用して終わりにしたいと思います。

「いわばステロタイプの饗宴である。風景は絵葉書のように薄っぺらだし、人物は心理を剥奪された機械人形のようにぎこちない。女たちはいずれも典型的な娼婦のイメージにおさまり、男たちもまた、性的偏執者の類型そのものだ。想像力は豊かに飛翔するというより、むしろ涸渇し、物語は無理に辻褄を合わせようとする者の言訳のように矛盾と反復に充ち、自分から罠に落ちて、訊ねられたわけでもない秘密を漏らしてしまう。だからその物語は、隠されていたものが徐々に露呈されてゆくのではなく、はじめから露呈されていたものが、そのあからさまな露呈ぶりを重層化してゆく過程をたどることになるだろう。この重層化の過程が、決してひとつの真実の意味にはたどりつくことのないイメージの多声的戯れへと見るものを導きいれ、表面という名の奥行を欠いた迷路の中の、距離と深さを奪われた表層的な彷徨へと駆り立てる。」

(蓮實重彦「映画作家としてのロブ=グリエ」 『シネマの記憶装置』(1979年)収録)

では。

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わたしたちはゆっくりと世界を計算しなおす-川上未映子「苺ジャムから苺をひけば」

【今日の言葉】

良心ということに関しては、この一般原則を守らなければなりません。つまり、確実な善と不確かな悪とがある場合、その不確かな悪を恐れて、善を逃してはいけません。
(マキャヴェッリ「マンドラーゴラ」)

【読書日記】

こんにちは。ともです。
今日は、『新潮』2015年9月号に掲載された川上未映子の最新小説「苺ジャムから苺をひけば」を読みます。ネタばれを含んでいますので未読の方はご注意ください。

■数をかぞえること

「わたしは、後悔している。」という一文から始まるこの小説は、一人称の語り手「わたし」が独白するなかで「後悔」という言葉が、最初の三段落の中に四回もでてきます。しかし、最初の三段落の中で「わたし」は後悔だけしているか、というと、そうではありません。「すぎた時間」を「二時間まえ」と数えているのです。しかも一度ならず二度も最初の三段落の中で「二時間まえ」と数えています。

かつて川上未映子の小説を読んだ際、語り手は積極的に「数をかぞえる」ことをしていると読んでみました。
(『かぞえること、計算させること、名指さぬこと―川上未映子「ヘヴン」』http://tomonodokusho.cocolog-nifty.com/blog/2009/07/post-cb7e.html、『かたちなきもの-川上未映子「すべて真夜中の恋人たち」』http://tomonodokusho.cocolog-nifty.com/blog/2011/10/post-18c4.html

ここでも、語り手は「数をかぞえる」ことで、小説を物語っているのです。

二時間、三年、無数、五時間、一部、いっぱい、ぜんぶ、いちばん、毎日、半年、二学期、六年間、三人、一年生、三学期、二億人、十万本、一本、十個、百万人、百個、一千万人、十倍、一億人、二〇〇九年、二〇一〇年、二月、二〇〇八年、十分、二年、二〇〇三年、四月、九日、一女、一度、二百年間、数時間、四時二十分、二階、一時間、3本、ひとつずつ、四歳、半分、2回め、一歩、一秒、九月、十月、数日、一度、一杯、数ヶ月、一生、1.5 ...

ざっと目に付いたものだけでも、これほど数がかぞえられています。かりに、「川上未映子的主体」というものが存在するとしたら、その主体は何よりも「数をかぞえる」ことをする主体なのです。

■計算させること

この川上未映子的主体は、ただ数をかぞえるだけではありません。ちょっと意地悪なのです。語り手は、数をかぞえながら、「読者」に「計算をさせる」のです。みてみましょう。

「今が小学校最後の日々」(8頁)である「わたし」は、現在小学六年生になります。そして「あと半年で卒業する」(9頁)ことからこの小説の現在が、9月か10月であろうことを読者に計算させます。

後に素っ気なく正解を示すところも意地悪です。「そんなふうに暑い九月が終わって」(28頁)と19頁もあとになって地の文に紛れて語り手は正解を発表します。

また、この語り手はなかなかのやり手で、読者に「この小説なのかの現在の年号」まで計算させます。

「わたしたちが一年生のとき」には「日本のうえのほうですごく大きな地震が起きた」(10頁)として2011年3月の東日本大震災のときに「わたし」が小学1年生であったことを示唆しています。で「今」が小学六年生の九月であるとすると、この小説的現在は2015年であることがわかります。

本当にこの語り手が意地悪だと思うのは、10頁において10万の10倍、100倍、1000倍の計算をしておきながら、11頁において「六年前というのはいったい何年なのだ?二〇〇九年?二〇一〇年?」とわざと読者に計算をさせるように仕向けていることです。

しかも、そのあと、2008年2月と5月のウィキペディアに載っている世界の出来事を記述したうえで、六年前があたかも2008年で、東日本大震災と思っていた出来事は、実はフィクション世界の時間軸の中の話なのか、と小説的現在時間を一旦納得しかけていた読者を混乱に陥れるのです。

これについては、またまた素っ気なく「六年間とはとりあえず関係のない二〇〇八年の出来事を一所懸命に読んでいた」(11頁)と正解が発表されることになるのですが(さらに14頁で「わたし」の生年月日が2003年4月9日と判明します)、本当にこの語り手は意地悪だ、と思わされることになります。

■苺ジャムから苺をひけば

ここで、小説のタイトル「苺ジャムから苺をひけば」という意味が問われることになります。

苺=A、ジャム=Xと記号化すれば、

(A+X)-A=X

という計算問題を読者に解かせているかのようなタイトルと解することが出来ます。

しかし、これまで見てきたとおり、一筋縄ではいかない意地悪な川上未映子的主体が、そんな簡単な計算問題を読者に解かせようとしているとは思えません。

では、このタイトルは何を示しているのか。

この小説で「苺ジャム」の出てくる箇所をみてみましょう。

■苺ジャム

「この苺ジャムは、もともとお母さんが作っていたものだ」(18頁)「その苺ジャムはほんとうにおいしい」(19頁)と、「苺ジャム」は「わたし」の亡き母の味を示す重要な記号であることがわかります。

小説後半の母への手紙の中でも「それから苺ジャムもつくっています。すごく、おいしいね」(81頁)と「おいしい」と「わたし」は繰り返し表明しています。

とすると、「苺ジャム」とは亡き母との繋がり、すなわち「わたし」にとって「かけがえのないもの」を示していることになります。「苺」が、「いちご」や「イチゴ」ではなく、漢字が使われている理由は、おそらく「母」が含まれているからだろうと思われます。これは語り手の周到な計算によるものでしょう。

つまり「苺ジャムから苺をひけば」というタイトルは、「苺」すなわち「侵してはいけない価値」を示しているものなのだろうと思われます。単純に足したり引いたりしてはいけないもの。

このように「数をかぞえる」主体は、読者に「計算をさせる」ことを行いながら、「計算してはいけないもの」、すなわちアプリオリな価値の存在を提示しています。

そして、アプリオリな価値とは何か、この小説には多くのものが詰めされているように思われます。
また、今までアプリオリな価値と疑わなかったことについて、「わたし」は友とともに冒険することで、世界の真実に新たに触れることになります。そこから新しくゆっくりとわたしたちは世界を計算しなおすことになるでしょう。

では。

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ローマの窓から平和憲法が見える-木庭顕「法学再入門:秘密の扉-番外篇」

【今日の言葉】

だがそのまえに、呪わしい欲望が、軍勢をとらえるのではないか
壊してはならぬものを、壊すことになりはしないか
(アイスキュロス「アガメムノーン」)

【読書日記】

こんにちは。ともです。
今日は、雑誌『法学教室』2015年8月号に掲載された木庭顕「法学再入門:秘密の扉-番外篇」を読みます。

■番外篇とは何か

木庭先生による「法学再入門:秘密の扉」は、「民事法篇」が2015年3月で終了してしまい、最近は『法学教室』を読むことも無くなっていました。が、なんと8月号に「番外篇」が予告されているではないですか。で、刊行前に「番外篇」とは何かについて、いろいろと妄想してしまいました。

ふと頭をよぎったのは、木庭顕「ローマ法案内」の序における「『ローマ法』は私法であるとは限らない」という一節です。

最近では、ほぼコンセプトを同じくする「公法・刑事法の古典的基礎」http://catalog.he.u-tokyo.ac.jp/g-detail?code=25-6591&year=2015&x=40&y=8という授業もあるようですので、もしかしたらそのテクスト化なのか、とも考えましたが、未だテクスト化するには早すぎますし、もしそうだとしたら「公法・刑事法篇」と銘打っての長期連載となるはずです。

では何か。

と考えたとき、最近木庭先生が公表される文章において、ある一定の懸念を表明していることが気になりました。

■懸念

東京大学出版会の『UP』2014年12月号に掲載された木庭顕「知性の尊厳と政治の存亡」においては、三谷太一郎「人は時代といかに向き合うか」の書評という形をとりつつ、特に註において厳しい現実批判の言葉が並んでました。

いわく「ポップな妄想に駆られ(憲法さえ軍事化=産業化す)る政治セクターは全くチャンスの無い路線を80年ぶりに再現する」と、足許の政治動向が、満州事変以降の軍国主義の路線に回帰しつつあることを示唆する鋭い指摘をしています。

また2015年1月に刊行された木庭顕「笑うケースメソッド 現代日本民法の基礎を問う」では、「日本国憲法や人権理念に対する攻撃のほんとうの動機がむしろ占有破壊ドライヴに存することが多い。ありていにいえば、憲法破壊は修飾部分であり、ほんとうにしたいのはつねに土地上集団の活性化・軍事化である」という指摘もありました。

深い現実政治への懸念をそこからは読み取ることが出来ます。

そこで、足許の安保法案論議です。まさかとは思いましたが、「番外篇」では、ギリシャ・ローマから見た「憲法論」が展開されているのです。そして「集団的自衛権」に関する議論までもが展開されているのです。

■木庭三部作

今回の「番外篇」は、木庭三部作「政治の成立」「デモクラシーの古典的基礎」「法存立の歴史的基盤」の骨子がもれなく網羅されています。というより確固たる理論的視座を構築した木庭先生が、それを縦横に駆使して現実を分析しているというほうが正しいかもしれません。その中で「政治システム」についても「自由な主体間で厳密な議論を交わして決定すると、人々は自発的にそれに従うという原理」と明快な定義が示されています。そしてそれは、不透明な集団を作り上げる社会学的事象を排除することによって成立するものであることが、繰り返し示さています。「政治の成立」の用語を使えば、政治は分節articulationという概念で表現され、社会学的事象は枝分節segmentationという対概念となります。

そして「法」すなわち「占有」は「一番追いつめられた人の立場に一方的に立って事態を見る」こと、「事態を素早く、冷静に分析」することであると簡潔にその意義が示されています。言い換えれば、分節articulationを最も弱い個人に対して成立させることによって、枝分節segmentation集団を排除することになります。

そして「法存立の歴史的基盤」で示された通り、占有が原基となって、その後の公法・刑事法・民法の諸概念が形成されてきたことを前提として議論が進んでいくのです。

■占有原理から憲法9条を読む

この「番外篇」の白眉は、「個別的自衛権」が占有原理であるのに対して、「集団的自衛権」とは、占有侵害の実力行使である横断的実力形成vis armataであると断じている箇所です。

木庭顕「ローマ法案内」では、vis armataに関して、「まだ占有侵害に至らないとしても既に内部軍事化を完了した単位は危険である。中が火の玉になった単位を近傍に持つことは大きな危険を意味する」としvis armataは他への侵害以前に違法と言えると解説しています。

そして「番外篇」においては、「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」の英訳「land,sea,and air forces,as well as other war potential,will never be maintained.」に言及し、「"war potential”の語が印象的だ。いくら防御のためと称しても中を火の玉のようにして軍事体制を作り待ち受けることも禁じられるというのは古典的な法原則だ。内部に文節を擬制しその分節を融解させることも横断的軍事化vis armataと看做す。これは脅威ないし危機の法学的定義である」と集団的自衛権の違法性につきローマ法の観点から断じています。

「占有」の射程が、憲法のうち人権規定まで延びるのは「最後の一人=個人の尊厳」の観点から想定はしていましたが(このブログの記事『ギリシャとローマの交錯点としての憲法96条―木庭顕「デモクラシーの古典的基礎」「法存立の歴史的基盤」から読む』をご参照くださいhttp://tomonodokusho.cocolog-nifty.com/blog/2013/05/96-4b2d.html )、正直、「占有」の射程がそれを飛び越え、憲法の平和主義、憲法9条にまでも及ぶというのは驚きでした。

確かに、日本における最大の実力組織は暴力団と米軍であると指摘し続けてきた木庭先生から見れば、米軍とともに横断的実力形成・軍事化を図る「集団的自衛権の行使」は「占有違反である」ということは至極もっともなことなのだろうと思われます。

木庭先生の鋭い知性は、そのように「集団的自衛権の行使」(番外編の言葉では桃太郎の鬼退治)を進めようとする背景・原因にまで切り込んでいきます。一言で言ってしまえば、彼らは占有原理の観点からは「排除するべき枝分節segmentation集団」だという指摘になります。

■誰のものでもない

そして憲法とは「皆のもの」(占有して皆で取り分けることが出来るもの)ではなく、「誰のものでもない」(誰も占有しえない)と木庭先生がいうとき、私は、res publica共和国という言葉の原義はそう訳すべきであったのかもしれないと考え、改正限界の基礎理論は「誰のものでもない」という公共概念を前提とすべきなんだろうなと気づくことになります。

また自主憲法制定論に対し、ソロンの立法や十二表法までもちだして、そもそも憲法は第三者(外国人)が書いてそれを批准するものだ、という木庭先生の大胆な反論にニヤニヤすることになります。また逆説的に学問と文藝の重要性が浮かび上がる、という仕掛にはドグマティックな法律論では味わえない知的好奇心に胸を躍らせることになります。

まだまだ指摘したいことは多くあるのですが、下手な要約よりは、直接読んで分析して頂いた方が面白いテクストですので、みなさまの感想も是非お聞かせください。

では。

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固有名詞がいっぱい-綿矢りさ「ウォーク・イン・クローゼット」

【今日の言葉】

唇をつけた。オレンジ色の冷たいアイスが彼の唇の熱で溶けてゆく。
(綿矢りさ「ウォーク・イン・クローゼット」)

【読書日記】

こんにちは。ともです。
今日は、群像2015年8月号に掲載された綿矢りさの新作「ウォーク・イン・クローゼット」を読みます。
内容にわたる記載をしますので、未だ読んでいない方はご留意ください。

■綿矢りさの小説の規則

いくつかの綿矢りさの小説を読んできて、この作家は、自分で設定した小説の規則を愚直に守っているように思われます。その規則とは、

①「書き出し」は、最大限の注意を払い、そこに小説の主題を提示する。
②「人称」の選択に注意を払い、「固有名詞」と併せて、効果的に使用する。
③「固有名詞」が露呈するときには、何か重大な事件が起こるか、重大なことが判明する。

というものです。

綿矢りさの新作「ウォーク・イン・クローゼット」においてもこの規則は有効に機能しているというのが、私の読み方の仮説となります。まずは、「書き出し」からこの小説の主題を探ってみましょう。

■書き出し=小説の主題

綿矢りさは、「書き出し」に非常に注意を払って小説を書いています。本人のインタビューでもそのような趣旨の発言をしていますし、いくつか私が読んだ小説の中でも、書き出しにその小説の主題がもれなく提示されていました。というわけで、書き出しを読んで、この小説の主題をみてみましょう。

「時間は有限だ。でも素敵な服は無限にある。年齢に合わせて似合う服は変わる」

というのが、この小説の主題となろうと想定されます。綿矢りさは、小説の冒頭部分に形而上学的なモノローグを挿入するケースが多いのですが、注意しなければならないのは、一般命題を提示しているかのようにみえる文章も、よく見ると、なにやら哲学的含意があるわけではないということです。

まず「時間は有限だ」という命題についてみましょう。

時間の本質は何か、という探求は非常にさまざまな答えがあろうかと思います。哲学的な思索もあるでしょうし、物理学的な回答もあろうと思います。が、ここではそんなことは問われていません。

「時間は有限だ」という命題には、この小説の制約が存在するのです。規則②の「人称選択」からそれは明らかになるのですが、この小説では第二段落から登場する「私」という一人称が語り手として選択されているのです。ということは、「時間は有限だ」という命題には、「私にとって」という明示されてはいないものの、第一段落に遡ってそう補って読まれるべき制約があるということです。

続いて「素敵な服は無限にある」という命題を見てみましょう。客観的に考えれば、地球上の物質は有限であることから、地球上に存在する服も(数えられる人は存在しないにせよ)有限であることがわかります。が、ここで綿矢りさはそんなことを言っているのではないことは明らかです。この小説の「私にとっては」、「素敵な服は無限にある」という主観的な独白がここでは提示されているのです。

同じように「年齢に合わせて似合う服は変わる」というのも客観的な真実が開示されているわけではありません。あくまでこの小説の「私にとっては」、「年齢に合わせて似合う服は変わる」という主観的な見方が提示されているのです。

そんなことあたりまえではないか、という声が聞こえてきそうですが、そのことが後々、この小説に関する重要な解釈につながっていくので、ここはもうしばらくお付き合いいただきたいと思います。

■固有名詞の氾濫

次に規則②の「固有名詞の効果的使用」についてみてみましょう。

綿矢りさのある程度の読者であれば、この小説はいままでと何かが違うな、と読んで感じたはずです。これまで私が読んできた綿矢りさの小説では、そもそも主人公に固有名詞が与えられていなかったり、敢えて場所の固有名詞を明示しなかったり、という固有名詞を極力忌避する姿勢が見られました。だからかえって固有名詞が出てくるときには注意を要したのです。それが規則③の「固有名詞」が露呈するときには、何か重大な事件が起こるか、重大なことが判明する。につながっていました。

ところがこの小説には固有名詞があふれかえっているのです。

場所を示す固有名詞はこれまでになくバラエティ豊かです。

外国ではイギリス、タイ、チベット、カンボジア、インド、フランス、フィンランドなどが出てきます。国内でも新宿、原宿、みなとみらい、渋谷、麻布十番、六本木、代官山、湯河原、伊勢などが出てきますが、物語は主に小説には単語として出てこない「東京」において進行していることがわかります。

ブランド名や商品、商号なども固有名詞で語られるのが非常に新鮮です。

アクエリアス、チケットぴあ、ミッキーマウス、リカちゃん人形、バービー、JR、ヤマト運輸、佐川急便、ラデュレ、トミーヒルフィガー、グランドハイアットという固有名詞が綿矢りさの小説に出てくることは新鮮な驚きです。

とはいえ、これらの固有名詞は田中康夫の小説に出てくる固有名詞とは違って、特段にトレンドを追い求めたエッジの効いたものではありません。敢えて言えば、田舎から出てきて都会で暮らし始めた人が、「ああ、東京にはこういうものもあるよね」と目につく程度の固有名詞とでもいったらよいでしょうか。

また、これらの固有名詞にいちいち反応して、小説内で「何か事件や重大なこと」が起こっているわけではありません。その意味で、この小説「ウォーク・イン・クローゼット」では「固有名詞のインフレーション」が起きており、一つ一つの固有名詞の価値は下げられていることになります。

じゃあ、規則③はどうなるのか、というと、「人称と固有名詞」の関係にここでは注目すべきなのです。

■人称と固有名詞

この小説のヒロイン「私」の固有名詞が判明するのは、小説が若干進行した4頁目、「ユーヤ」との会話の中です。

お互いを「早希」「ユーヤ」と呼び捨てにする二人の関係は、「私がだいぶ前に告白して一度ふられてから、ずっと友達関係」というものです。後で、「もう恋愛対象じゃなくて完全に友達」「私だって年を経て異性と友だちの関係を築けるくらいのスキルは学んだ」とも語られますが、「ユーヤ」が「運命の男性」であろうことはヒロインの固有名詞が判明する場面からして明らかです。

この「私」の名前が判明する場面は、最後の一文に「胸の高鳴り」という言葉が出てくることへの伏線となっているのです。ヒロインの「完全に友達」という言葉よりも、「固有名詞の判明」という小説的事実の方が、物語に忠実だということがわかるのではないでしょうか。

とはいえ、そんなことはこの小説にとってはどうでもいい、重要なことではないと言わんばかりに二人の会話の場面には固有名詞が溢れています。何が起きているかというと、更にもう一つ固有名詞に関して、より重要なことがここでは起こっているのです。

それは、人物の固有名詞、すなわち名前を追っていくことによって判明します。

不思議なことに、ヒロインである「私」には苗字がないのです。同じくヒロインの運命の人である「ユーヤ」にも苗字がないのです。ここでサスペンスが生じることになります。この小説で苗字を持っているのは誰か。

その人こそ、この小説で重大な事件を発生させ、重大なことを明らかにしてくれる犯人であるはずなのです。

■犯人は誰か

あっさりと答えを言ってしまえば、「末次だりあ」と「吉田朝陽」という二人だけが苗字を持っているのです。そして「末次だりあ」は、芸名ではなく本名であることが「私」との幼少時の出会いの場面から明らかにされています。このさりげないような名前の配置の仕方が、綿矢りさの言葉の配置の周到な計算によるものであることは明らかです。

では、「末次だりあ」にどんな事件が起こったか。

苗字を持っている末次だりあは、苗字を持っていない「私」に対して次の告白をします。

「私、妊娠してるんだ。事務所には内緒にしてる」

この一言で、この小説の本当の主人公は、「私」=「早希」ではなく、「私」=「末次だりあ」だと宣言しているのです。苗字の無いキャラクターが主人公だなんて笑わせないで、苗字を持っている「私」=「末次だりあ」が近代的主体としての「私・小説」の主人公として正統なのよ。異性と友だちの関係を築けるくらいのスキル?だなんてお子様じゃないんだから。女は男と恋愛して子どもを生むものよ。とこの一言は、高らかに宣言しているかのようです。

すでに気づいている人もいらっしゃるかもしれませんが、もう一人の苗字をもったキャラクター「吉田朝陽」が「末次だりあ」の「相手の男の人」なのです。そう思って是非ginbackのライブ前後の場面を読み返してみて下さい。末次だりあは、相手の男を「朝陽」と呼び捨てにしているのに対して、吉田朝暘は「だりあさん」とさん付けで呼びながら直後に「あなた」と、距離感が近いのか遠いのかわからない呼び方をして、「おれのライブに来るなんて意外」という科白をはいているのです。捨てた女との突然の面会に狼狽している男の場面、とみるとなにやら納得がいくものです。

「出会った女の子みんな口説く」「ファン食い」とは、末次だりあの直接的な経験を語っているものなのです。だから次には吉田朝陽を「あいつ」呼ばわりまでするのです。

ここでこの小説の主題であった「私にとっては」「年齢に合わせて似合う服は変わる」。にいう「服」とは「マタニティ」であったことが判明するのです。

■蛇足

以上に見てきたとおり、やっぱり綿矢りさは3つの規則に忠実に小説を作っているようです。

で、ここから先は勝手な想像です。前回、結婚して新居に引っ越す女性を描いた小説「履歴の無い女」を発表した後、綿矢りさは結婚を発表しました。ここは、前回私は「結婚の小説を書いたからって、結婚するとか、それは無いだろう」と読みたがえてしまいました。今回も知りませんが、綿矢りさの妊娠発表が近々あると面白いでしょうね。何故なら、この小説にはもう一人「綿矢りさ」という苗字をもった固有名詞の署名があるのですから。

では。

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法のロマニスティック...わはは-木庭顕『[笑うケースメソッド]現代日本民法の基礎を問う』

【今日の言葉】

心を揺さぶられる逸話である。乞食の正体を見破れる人間はいないのに、もの言わぬ動物は瞬時に見破った。
(西村賀子「ホメロス『オデュッセイア』-<戦争>を後にした英雄の歌」)

法律家に頭は要らない。鼻さえあればよい。大事なのは臭いを嗅ぎ取ることです。どうもクサいな、と。
(木庭顕『[笑うケースメソッド]現代日本民法の基礎を問う』)

【読書日記】

こんにちは。ともです。
今日は、木庭顕『[笑うケースメソッド]現代日本民法の基礎を問う』が刊行されたところで、その新刊の位置づけを考えてみたいと思います。

■遊戯の規則

このブログでは以前にも試みたことがあるのですが、簡単なゲームをしてみたいと思います。ゲームのルールは単純です。本の定価をページ数で割って、1ページ当たりの単価を出すというものです。まずは、世間の相場を見渡してみたのちに、木庭教授の著書で試みてみたいと思います。すると、われわれには何が見えるでしょうか。

■世間相場

まず、世間相場を見渡してみるために、私の手許にある最近読んだ本で遊んでみます。最初に、このゲームを考案して文芸批評に導入した蓮實重彦から見てみましょう。
・蓮實重彦「『ボヴァリー夫人』論」6400円/850頁=7.52円
・蓮實重彦「『ボヴァリー夫人』拾遺」2600円/312頁=8.33円
と同じ著者の同時期の作品においても若干の違いがあることがわかります。おそらく筑摩書房に対して羽鳥書店は、より学術出版に近いことから、単価をやや高めに設定したのではないかと推測されます。

では、ほかの文芸作品も見てみましょう。
・六冬和生「地球が寂しいその理由」1800円/377頁=4.77円
・小野正嗣「九年前の祈り」1600円/224頁=7.14円
と、文芸書においてもジャンルによって単価格差があることがわかります。六冬和生はハヤカワSF大賞受賞作家で、小野正嗣は芥川賞受賞作家であることから、大衆文学と純文学には単価格差が存在することが明らかです。ここまで見てくると、文壇の中には、

学術書>批評>純文学>大衆文学

という単価格差のヒエラルキーが存在しているという仮説がとりあえず成立します。

■法学というジャンル

次に、法学というジャンルで見てみましょう。
・木村草太「LIVE解説講義本 木村草太憲法」3000円/323頁=6.09円
・神田秀樹「会社法 第十六版」2500円/388頁=6.44円
という比較的ポピュラーな演習本や教科書では、

純文学>法学の教科書>大衆文学

という関係になりそうです。では、もう少し対象を広げてみましょうか。
・樋口陽一「加藤周一と丸山眞男」1800円/181頁=9.94円
・石川健治編「学問/政治/憲法」3800円/275頁=13.81円
憲法学者である樋口陽一の著書は、「他の分野から法学に目を向けられること」を意図し「読者対象」として書かれた本(同書あとがき)だそうですので、本体価格設定は2000円以下と一見リーズナブルにみえます。が、単価を見ると如実に純文学や文芸学術書・批評を超えている強気な設定です。また、旬な憲法学者たちによって編まれた「学問/政治/憲法」は、その樋口陽一の実質的な傘寿記念論集として企画された本ですので、両者には時期と人脈に通じるものがありますが、憲法学者の傘寿記念論集として学術書としての色彩が濃いことが単価設定にも表れているようです。

これまでの関係を整理すると以下の通りとなります。

法学学術書>法学一般書>文芸学術書>文芸批評>純文学>法学教科書>大衆文学

さて、ここからが本番です。いよいよ楽しくなってきたので、木庭教授の著書で、このゲームを続けてみたいと思います。

■木庭三部作

では、東京大学出版会から出されている木庭教授の「三部作」を見てみましょう。
・木庭顕「政治の成立」10000円/440頁=22.72円
・木庭顕「デモクラシーの古典的基礎」22000円/952頁=23.10円
・木庭顕「法存立の歴史的基盤」28000円/1392頁=20.11円
となります。

なんとこれまで見てきた単価の幅が、13.81円から4.77円の幅でほぼ10円の幅を示していたのに対して、いきなりそこから約10円の幅を上乗せして、木庭教授の著作の単価は突出しています。図示すると以下の通りになります。

木庭三部作>
法学学術書>法学一般書>文芸学術書>文芸批評>純文学>法学教科書>大衆文学

■羽鳥書店の二部作

これに対して羽鳥書店から出版された「二部作」は、「三部作」を踏まえつつも学者向けではない一般の法律家向けに出した書籍となります。どうなるのでしょうか。
・木庭顕「ローマ法案内」5200円/256頁=20.31円
・木庭顕「現代日本法へのカタバシス」7800円/320頁=24.37円
となります。

実は、羽鳥書店の二冊も「一般の法律家向け」とは言いながら、単価設定から見る限りは、三部作と同じく「人を選ぶ」読者層の想定となっているのです。この背景には、三部作と二部作において実質的に同じ編集者が担当していたという理由もあるでしょう。ただし羽鳥書店だから高いという理由では「ない」ことは、すでに示した通り、蓮實重彦が羽鳥書店から出版した「拾遺」とは約3倍近い単価格差があることから証明されるでしょう。以上のゲームの結果からは、

木庭三部作・二部作>
法学学術書>法学一般書>文芸学術書>文芸批評>純文学>法学教科書>大衆文学

という出版界における単価のヒエラルキー構造が存在していることがわかります。

■木庭顕『[笑うケースメソッド]現代日本民法の基礎を問う』

ここでやっと本題の木庭教授の新刊となります。さっそく見てみましょう。

・木庭顕『[笑うケースメソッド]現代日本民法の基礎を問う』3000円/280頁=10.71円

いかがでしょうか。何と!これまでの木庭教授の著書の単価の約半値!なのです。この本の画期性が皆様にも計量的に理解できるのではないでしょうか。この本を企画した編集者はすごいなと思います。最後にこのゲームをまとめると以下の通りとなります。

木庭三部作・二部作>
法学学術書>木庭新作>法学一般書>
文芸学術書>文芸批評>純文学>法学教科書>大衆文学

■感想

計量的に木庭教授の新刊の画期性が判明したところで、内容的な画期性をみてみましょう。まず、H.L.A.ハート「法の概念」から引用します。

ローマ法を印象深く教える仕方は、それがなお実効性を持つかのように語り、個別のルールの妥当性を議論し、それに照らして問題を解決することである。
(ハート「法の概念」)

木庭教授の新刊は、木庭三部作で示した「木庭ローマ法」の学問体系を、最高裁の民事判例を題材に、すなわち実際の事件に当てはめた時に、現行民法の規定・学説・判例の妥当性を議論し、「返す刀で一刀両断にする」ところに画期性があります。上の引用でハートは皮肉としてそのように言っているのですが、それを皮肉ではなく、印象深く「本当のローマ法の制度趣旨」から説く木庭教授の議論には説得力があります。

なぜならば、木庭教授の「返す刀」は、「タメ」が深いからです。記号論や文化人類学の議論、古典学者のホメロス分析、考古学の成果を批判的に総合した「政治の成立」。ギリシャ悲劇の分析から哲学、歴史学、古今東西のデモクラシー論・政治思想史を批判的に読み解く「デモクラシーの古典的基礎」。ドイツ歴史法学、なかんずくサヴィニーを乗り越える占有論を提示し、そこから法的観念体系が占有の派生的形態であることを論証した「法存立の古典的基礎」。これらの長年の思考をベースに、現実を分析する木庭教授の視点は充分に「批判的」です。なので「切れ味」が良いのです。あたかも「ローマ法」を講ずることが法学部の講義そのものであった時代に迷い込んだかのような錯覚に陥りそうです。

新刊の「はしがき」にもある言葉の通り、木庭教授の基本姿勢は「一から疑って考え直す」ことにあります。これは「デカルトから近代の人文学も科学的合理主義も共に始まった」と考える木庭教授の信念なのではないかと思います。

あわせて「はしがき」には、「われわれがどこから来てどこに行くのか」というゴーギャンのタイトルのような言葉も見られます。現代の日本の法が「どこから来たのか」を充分に掘り当てた木庭教授が、「歴史のこの時点」の「こういう見え方」から、われわれが「どこへ行くべきか」にコミットしている書としても、画期的なのではないでしょうか。

また本書を読む人は、現在、法学教室において連載されている「法学再入門―秘密の扉」と併せて読むと、木庭教授の考え方がよりよくわかるのではないかと思います。

個人的には、木庭教授による記号論講義や文化人類学の解説書、ドイツ哲学講義などもあったらいいなと思いますが、無いものねだりでしょうね。

では。

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事件のない犯罪小説-綿矢りさ「履歴の無い女」

【今日の言葉】

「おまえは...中身がないではないか。
 本当に...空っぽな奴だな。」
(曽田正人「テンプリズム」2)

【読書日記】

こんにちは。ともです。
今日の読書は、雑誌「文学界」平成27年1月号に掲載されている、
綿矢りさの最新小説「履歴の無い女」を読んでみたいと思います。

以下、ネタバレが含まれますので、未読の方はお気を付け下さい。

■ケレン味の無い第一印象

綿矢りさ「履歴の無い女」を一読した読者は、すっかり拍子抜けしたのではないでしょうか。これまで、女子学生や独身女子の焦燥感やエキセントリックな言動を、言葉巧みに描きだすことを持ち味としてきた綿矢りさが、本作「履歴の無い女」では、新居に引っ越しの荷物が届く前のとある午後に、最近結婚したばかりの姉と既に家庭を持っているその妹が夕飯を作りながら交流する、という一見、幸せそうな「勝ち組」の物語ともとられる内容の小説を書いているからです。あっさりしすぎていてケレン味がない、というのが私の第一印象でした。

前作「こたつのUFO」に引き続いて、一人称「私」で語られる小説構造は不変です。引き続き綿矢りさが、独自の「私小説」を選択して追求していることがここからは判明します。

ところが、ことはそう簡単ではありません。そこはやっぱり厄介な「私小説」作家である綿矢りさです。本作にもさまざまな仕掛けが施されており、とりわけ本作は、綿矢りさの「犯罪小説」として読める、というのが私のここでのとりあえずの仮説です。以下にテクストに沿ってみていきましょう。

■綿矢りさの「犯罪小説」

綿矢りさは、小説の冒頭に主題を置くことがその特徴です。
本作「履歴の無い女」では、冒頭の一文で「携帯とその履歴」がまずは主題となっています。

そして第二段落の冒頭で「きっと殺人犯罪なんかのアリバイも携帯一つで証明でき」(98頁)とおもむろに「犯罪」という言葉が出てきます。そして、たてつづけに「ミスや邪悪な心が生んだ犯罪」(99頁)、「携帯にもブログにも日記にも経歴にも犯罪歴にも記載されていない瞬間」(99頁)と冒頭部分において三回にわたり「犯罪」という言葉が出てきます。

それを裏付けるかのように、「これ、故意にちょっと焦がしている」(102頁)と敢えて刑法の専門用語である「故意」が「私」の会話文の中で用いられています。ここでは、本作が「犯罪小説」ではなければ、「故意に」ではなく、「わざと」や「好きで」なり別の言葉を選択することも出来たと思われます。しかしながら「犯罪小説」である本作では、わざわざ「故意」という刑法概念が選択され利用されているように思われるのです。その他にも「裁判」「証明」「証拠」(98頁)という刑事訴訟法的な概念がここには表れてきます。

このように本作は、綿矢りさの初の「犯罪小説」であることが、小説の冒頭部分において宣言されているのです。

では、小説の語り手である「私」は、どんな犯罪を犯しているのでしょうか。

■「私」の「犯罪」(その1)

まず候補として挙げられるのは、「私」が「他人の闘病記」や「スキャンダル」(99頁)を「覗き」見(100頁)するという「出歯亀」行為(100頁)があります。

ここで軽犯罪法を覗いてみましょう。

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軽犯罪法 第一条 二十三号 正当な理由がなくて人の住居、浴場、更衣場、便所その他人が通常衣服をつけないでいるような場所をひそかにのぞき見た者
----------

以上の「覗き見」行為の構成要件からは、「公開」されている「ブログ」や「写真週刊誌」(99頁)を見る行為は、「通常衣服をつけないでいるような場所」とはいえませんし、「ひそかに」と規定する軽犯罪法には該当しないようです。これは、現在の日本刑法においてプライバシーを侵害する行為に対する直接的かつ包括的な処罰規定がなく、住居侵入罪等の個別の処罰規定により細切れにプライバシーが保護されていることが背景にあります。

ということで、「私」の「覗き見」は「犯罪」ではないようです。

■「私」の「犯罪」(その2)

つぎに候補として挙げられるのは、「名乗りたい名前を勝手に名乗」る「騙り(かたり)」行為(99頁)です。

「他人ごとのようなふりをして、本も出した」(99頁)というのですから、候補となる犯罪は「私文書偽造罪」でしょう。刑法を見てみましょう。

----------
(私文書偽造等)
第159条 行使の目的で、他人の印章若しくは署名を使用して権利、義務若しくは事実証明に関する文書若しくは図画を偽造し、又は偽造した他人の印章若しくは署名を使用して権利、義務若しくは事実証明に関する文書若しくは図画を偽造した者は、3月以上5年以下の懲役に処する。
2 他人が押印し又は署名した権利、義務又は事実証明に関する文書又は図画を変造した者も、前項と同様とする。
3 前2項に規定するもののほか、権利、義務又は事実証明に関する文書又は図画を偽造し、又は変造した者は、1年以下の懲役又は10万円以下の罰金に処する。
----------

ここで規定されている犯罪の対象は、「権利、義務又は事実証明に関する文書」に限定されています。そして解釈上「通称名の使用」に関しては、受取人との関係で文書作成の責任主体を偽るものでない限り、私文書偽造罪は成立しません。つまりここで記載されるようなペンネームでの本の出版は、犯罪にはなりません。

■自己同一性=アイデンティティーを偽ること

とはいえ、「偽造」の定義を考えてみると、「犯罪」の構成要件には該当しないものの、「偽造」概念一般には該当してくるように見えてきます。

即ち、刑法上「偽造」の本質とは、「文書の名義人と作成者との人格の同一性を偽ること」という定義が用いられるからです(最判昭和59年2月17日・刑集38巻3号336頁)。

「他人ごとのようなふりをして、本も出した」ということは、「人格の同一性を偽る」という、まさに、そのものの行為であり、だから「私」は「罪悪感」(102頁)があると告白することになります。

では、自己同一性というものは一体どうやって証明することが出来るのでしょうか。

■自己同一性の証明

「私は私である」と無垢に世間に向かって叫ぶだけでは、「自己同一性」というものは証明されません。様々な記号が「自己同一性」を証明する資料として付け合わされ、相互に厳密に一致することによって、自己同一性が証明されることになります。

その自己同一性を証明する資料を、綿矢りさは本作において、「履歴」と表現します。付け合せ作業により世間によって「自己同一性」を証明する複数の資料である「履歴」。シニフィアンとシニフィエという言葉を使うことが許されるならば、シニフィアンは「履歴」を指し、シニフィエである「自己同一性」を担保することになるでしょう。

ところが「履歴の無い女」において「私」は、「私の根本部分は履歴がないままなのだ。」と宣言します。

蓮實重彦はこのように言います。

「作家」は、奥深い領域に隠された「私」など持ってはおらず、その存在をあらゆる視線に向けていっせいにおし拡げ、すべてをあますことなく人目に晒すことをうけいれた徹底して表層的な個体にほかならない。(蓮實重彦「私小説を読む」)

綿矢りさも、この蓮實重彦がいう「私小説」の「私」の表層性を、本作でも実践しようとしているかのようです。

■「私」の「犯罪」(その3)

で、いったいこの小説のどこが「犯罪」なのか。

この小説の怖いところは、それが描かれているのに書かれていないことにあるのではないでしょうか。

いくつかの違和感がこの小説にはあります。

なぜ、結婚したばかりの夫が、新居におらず、私と妹の二人で夕飯をとっているのか。
なぜ、私の新居の引っ越しなのに、妹が「イトーヨーカドー」に独りで買い出しに行っているのか。
なぜ、妹の夫と娘の固有名詞は出てくるのに、私と妹、私の夫の固有名詞は出てこないのか。

「私」のセリフ、「なんていうかさ、さっきまで独身だったくせに、結婚した途端、夫の職場の近くに買った家とかに住みだして、スーパーで片頬に手を当てながら“今日のお夕飯どうしようかしら”とか思案しだすわけでしょ。私もそれ、自然にできそうな気がするんだよね。」とまるで他人事のように、結婚生活を語る場面。

想像力を膨らませて考えると、これは、何らかの結婚詐欺事件の前夜の話ではないかと思えてくるのです。

そんな想像力を駆使していると、まるで最後の二人が交わす会話、「大切なものを守りながらも、いろんな景色が見たい」「まあ、いっしょにがんばっていきましょうよ」という言葉が、違った意味に響いてくるものです。

まあ、描かれていないので真相は藪の中なのですが。

では。

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蓮實重彦の「『私小説』を読む」を読まない。

【今日の言葉】

われら市民自身、決議を求められれば判断を下しうることはもちろん、提議された問題を正しく理解することが出来る。理知的な議論を行動の妨げとは考えず、行動に移る前に理知的に把握していないときこそかえって失敗を招く、と考えているからだ。
(トゥキュディデス「戦史」『ペリクレスの国葬演説』)

【読書日記】

こんにちは。ともです。

先日、講談社文芸文庫版の「『私小説』を読む」を購入しました。なぜなら、今まで読んだことがなかったからです。

ところが、今日は、蓮實重彦の「『私小説』を読む」は読みません。なぜなら、ふと魔がさして巻末にある小野正嗣の「解説」である「『私小説』を文字通りに読む」を最初に読み始めたら、それが滅法面白かったためです。従って、このブログ記事のタイトルの通り「『私小説』を読む」の本文は、文字通りに「読みません」。

■〔解説〕小野正嗣「『私小説』を文字通りに読む」

では、小野正嗣の「解説」である「『私小説』を文字通りに読む」のどこにそんなに惹かれてしまったのでしょうか。

あらかじめ答えを述べておけば、その「解説」に提示されているさまざまな記号が、私にとって、まざまざと「遭遇」と「すれ違い」を突き付けてきたからです。

■冒頭の問い

この解説では、冒頭で「どのようにして人は『蓮實重彦』に遭遇するのか。」という極めて特殊な問いが立てられています。これは、この文章の「人」、あたかも「人一般」であるフランス語で云うところの不定代名詞 ”On” であるかのように装われた「人」を、「私」と置き換えて読むことによって、極めて特殊な問いであることがわかります。

なぜなら、「人一般」が、言い換えれば「誰しも」が、蓮實重彦と遭遇するわけでも、蓮實重彦と遭遇しなければいけないわけでもないからです。したがって、この冒頭の問いは「蓮實重彦と遭遇してしまった者」だけが、問いを立て、答えを見出す必要がある極めて特殊な問いであることがわかるのです。

では、解説者である小野正嗣が、いつ、どこで、どのようにして蓮實重彦と遭遇したのか、私の体験も踏まえながら、みてみることにしましょう。

■既知との遭遇

まず、「僕が大学に入ったころ」と時期が特定されます。そして「空気を構成する」「元素」のように「誰もがその名を知っていた」と、あたかも「蓮實重彦」という固有名詞は、「元素記号」であるかのように、そしてまた「田舎出身の凡庸な学生」ですら受験で暗記する用語の一つであるかのように、あたりに遍在する「記号」として、即ち「既知」のものとして、まずは遭遇していたことがわかります。

ふりかえってみれば、かくいう私も、はじめて蓮實重彦という記号に遭遇したのは、受験生時代のとある現代文の問題文の著者の一人としてでした。その時代では、「ポスト構造主義」などという訳のわからない言説とともに「神話的な記号」として「蓮實重彦」という固有名詞は大学に入ったばかりの学生にも流通していた時代なのでした。(ちなみに、未だに「ポスト構造主義」などというものが何なのか、私にはよくわかりません。)

そして、学生掲示板で蓮實重彦の映画論演習の募集要項を仰ぎ見ながら「こりゃ、箸にも棒にもかからないや」とあっさりスルーした記憶も、「選ばれるのは、きわめて優秀な学生だけだと噂されていた」と記述する解説者とともに共感するところかもしれません。(その当時、誰かが噂していた「でね、ハスミ先生の息子さんはどこそこ大学で、映画じゃなくて音楽をやっているみたい」という言葉を聞いた記憶が、一緒に思いだされます。)

■フランス語の余白に

ここで、小野正嗣が「初めて読んだその人の著作」が「フランス語の余白に」という教科書であったという告白は、「現代文の問題文の著者の一人」としてすでに遭遇していた私からしてみれば、俄かには信じがたい自白にも思えるのですが、その「著作」を「単著を一冊」として読み替えれば、確かに私もそうだったのかもしれません。

そして未だにフランス第五共和国憲法の「フランスは、独立して、宗教的に中立な、民主的かつ社会的な共和国である」という一節を、フランス語で発音できるのは、「言葉などは丸暗記して身体に刻み込めばよいのだと言わんばかり」の「一見教育的ではないが、言葉を身体化するという観点からすると実に教育的な教科書」を、「Chantal夫人」の「例文を録音した声」とともに学んだ者だけが振舞える、極めて特殊な身振りである、と言うことができるでしょう。

■その人を目にすること

あくまで記号としてではなく、その固有名詞を持つ存在との直接的な遭遇については、解説者である小野正嗣は、「大学二年の秋」と記述しています。ということは、「フランス語の余白に」を使用した初級フランス語の授業は、蓮實重彦本人その人によるものではなく、他のフランス語教師によるものであったことがわかります。実は私もそうなのです。

ところが、私は既に「大学一年の一学期」に、その固有名詞を持つ存在と遭遇していた事実があります。その過去の事実を証明する証拠として、私の手許には、一冊の教科書、つまり「フランス語の余白に」がまぎれもない物証として残っているのです。

何故、証拠となるのでしょうか。

それは、私がその固有名詞を持つ存在に遭遇した際、厚かましくも、「蓮實先生ですね。サインをください」とおねだりしてしまったからなのです。大学からの帰りだったからでしょうか。とある場所でタバコをふかしていた蓮實重彦に遭遇し、「フランス語の余白に」をおもむろに取り出した私に対して、丁寧にも「お名前は?」と尋ね万年筆を取出し、スラスラと私の名前と蓮實重彦という二つの固有名詞を、中表紙に、すなわち「フランス語の余白に」というタイトルの書かれたページの「余白」にサインする「身体もまた大きな人」を、背の低い私が仰ぎ見ていた記憶が残っています。

■不思議なことに

不思議なことに、その後も数回、その固有名詞を持つ存在を目撃することになります。一度は、Chantal夫人と二人でフランス語の会話を交わしている姿まで目撃しています。なぜなら、どうやらその当時、同じ町に私は住んでいたらしいのです。

不思議なことに、これらの記憶を喚起させてくれた記号の発話主体である小野正嗣という固有名詞には、決定的に私は今の今まで「すれ違って」しまっていたことに気づかされました。「その人は同じキャンパスにいた」のだし、もっと早くに遭遇していても良かったのかもしれません。それが蓮實重彦という固有名詞をめぐって、今ここで遭遇したことの不思議さ。

不思議なことに、私が、著書に作者のサインを頂いたのは、蓮實重彦が最後ではありません。
運よく川上未映子の「すべて真夜中の恋人たち」の発売サイン会の整理券を入手し、同じく、私の名前と川上未映子の二つの固有名詞を表紙に書いてもらったところで、

「実は、本にサインを頂いたのは、蓮實先生から二人目なんですよ」

と話しかけたところ、川上未映子は小首をかしげて、小さく聞き返してきました。

「ハスミン?」

嗚呼!あの20世紀後半における「蓮實重彦」という「神話的な記号」は、21世紀を迎えたいまや、かの芥川賞作家によって、どうやら「ハスミン」という、なんとも可愛らしい愛称に変換されてしまっているのでした。

では。

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私三十歳、私小説始めました-綿矢りさ「こたつのUFO」

【今日の言葉】

おおさえ、おおさえおお、喜びありや、喜びありや
(狂言「三番叟」)

【読書日記】

こんにちは。ともです。
今日の読書は、雑誌「新潮」2014年6月号に掲載された、綿矢りさの最新小説「こたつのUFO」を読んでみます。

以下、ネタバレが含まれますので、未だ読んでない方はご注意ください。

■綿矢りさの「小説の規則」

前回、綿矢りさを読んだ際(このブログの記事/複数性を生きること-綿矢りさ「いなか、の、すとーかー」)綿矢りさは自分の設定した「小説の規則」に、きわめて愚直に従っていると分析しました。
すなわち、
①「書き出し」は、最大限の注意を払い、そこに小説の主題を提示する。
②「人称」の選択に注意を払い、「固有名詞」と併せて、効果的に使用する。
③「固有名詞」が露呈するときには、何か重大な事件が起こるか、重大なことが判明する。

今回も、この「小説の規則」がどこまで最新小説「こたつのUFO」に当てはまるのか、以下にみていきたいと思います。

■書き出し

まず、①の規則:「書き出し」と小説の主題の分析です。

「三十歳になったばかりの私」

が今回の主題です。非常にわかりやすいです。何故ならば、二十代超えというのは何故か女子にとっては生物学でいう津軽海峡を横切る動植物分布の境界線「ブラキストン線」のように越えがたい壁のようで、三十歳はついにそれを突破するというすさまじい葛藤があると男の私にも容易に想定ができるからです。主題の分析は以上です。

■人称の選択と固有名詞

次に、②の規則:「人称」選択と「固有名詞」です。

既に書き出しで明らかな通り、これは「私」という発話主体が物語る一人称小説です。非常にわかりやすいです、といいたいところですが、これがクセモノです。続いて「太宰治」という固有名詞が出てくることで、その厄介さが際立ちます。

何がそんなに「クセモノ」で「厄介」なのか。以下、分析のフレームワークを示したうえで、具体的に小説に沿って読んでみたいと思います。

■私の複数性

まず小説の構造分析です。

この小説は大きく2つのパートに分かれます。この小説の言葉を使えば「言い訳」(315頁から317頁1行目まで)と「おはなし」(317頁3行目から327頁まで)の2つに分割されるのです。

綿矢りさの小説にはしばしば、冒頭の部分で、主人公の独白とも一般的なアフォリズムともとれる形而上学パートが置かれることがあります。大抵は「主人公の独白」と解すれば事足りることが多いのですが、ここでは「太宰治」という固有名詞が介入してきます。

ここで、③の規則:「固有名詞」が露呈するときには、何か重大な事件が起こるか、重大なことが判明する。が発動します。

すなわち、ある程度の綿矢りさの読者であれば、綿矢りさの好きな作家が「太宰治」であるということは周知の事実です。「太宰治」を引用する「私」とは、限りなく「綿矢りさ」に似てくるのです。いままでの「綿矢りさ」の小説で、敢えて「私」の属性が「綿矢りさ」に似るということは、少なくとも小説テクストの次元においては周到に回避されていた事態です。これは「事件」と呼んでも差支えがない「重大なこと」なのです。

ここにおいてもう一つ分析のフレームワークを提示すると、「私」について以下の仮説が成り立つ、ということです。即ち、「私」には二種類が存在しているという仮説です。

一つは、現実の小説の書き手=話者である「私」。これを「私①」とここでは呼んでみたいと思います。もう一つは、フィクションとしての一人称小説の語り手=主人公である「私」。ここでは「私②」と呼んでみることにしましょう。

するとこの小説は、「言い訳」パートで「私①」が発話主体となって、「おはなし」パートでは「私②」が語り手となっている、というもう一つの仮説が成立する可能性が開かれます。

同一の小説内で、同一の「私」という一人称を用いて、複数の「私」(私①と私②)を提示するという、なんともまあ「厄介」なことが行われているように見えるのです。

■言い訳の分析

では、小説に沿って中身を見てみましょう。

「言い訳」パートでは、「私①」と「私②」との関係をめぐる形而上学が展開されていきます。ここでは「私①」の属する世界は「現実」「実」と表現されます。対して「私②」の属する世界は「フィクション」「創作」「想像」「設定」「架空」「虚」と表現されます。「現実と想像」は「体験と想像場面」という二項対立的な構図には素直に収まりません。なぜならば、両方とも「個人の脳内世界」における「真実」だからなのです。

フィクションにはフィクションなりの真実の世界があり、そこにおいて、固有の価値と社会の紐帯が生まれる可能性を形而上学として提示したのが、哲学の王とも呼ばれるスピノザでした。「私①」はほぼこのスピノザのラインに沿って、「私②」の語る小説にも固有の「真実」があると高らかに宣言して、「私②」の「おはなし」パートへ繋がっていきます(「”おはなし”だけが残る」)。

■おはなしの分析

次に「おはなし」のパートを読んでいきましょう。

ここで本当に「厄介」だと思わせるのは、「私②」も限りなく「私①」に似ているように「設定」されていることです。

Wikipediaでみると「綿矢りさ」は、1984年2月1日生まれであることが分かります。「おはなし」は「私②」の「誕生日」の話であり、「雪」の降る「寒風」吹く「京都市」の情景描写が続きます。現在、どうやら「京都市」に住んでいるらしい「私①」にどうも設定が「私②」は近接しています。

「三十歳になったばかりの私が、三十歳になったばかりの女性の話を書けば、間違いなく経験談だと思われると、これまでの経験から分かっている」という「言い訳」の言葉からすると、「だから、敢えて主人公(私②)は現実の私(私①)に近い設定にした」という開き直りにも受け取れる書きぶりです。何が厄介かといえば、「誕生日を迎えたばかりの作家が、誰にも誕生日を祝ってもらえないさびしい女を書いたら、読者の方は『一人きりの誕生日を実際に過ごして、不平たらたらなんだ』と思う」と、先回りして、凡庸な読者の感想まで書き連ねていることです。

■私小説

私小説の定義について、手許にある「日本語大辞典」を引くと、「作者自身を主人公に、身辺の実生活や心境を体験の告白という形で描いた小説。自己凝視の中に真実性を求めようとする。身辺雑記風のものを私小説。観照性の高いものを心境小説とよぶことがある」という定義に当たります。

本当に「厄介」だなあと思うのは、綿矢りさが「私小説」もっといえば「心境小説」をパロディーとして利用して、ついには一人称小説を突き詰めてしまったところでしょうか。上の分析では、「私①」≠「私②」と読んでみましたが、仮に、「私①」=「私②」として「私①」の外部に、更に作者としての「綿矢りさ」という固有名詞があると、より一層先鋭化して読んでしまえば、「言い訳」部分ですら「虚構」とも読めてしまうのです。

これまで、人称の揺らぎ(亜美ちゃんは美人)、固有名詞の徹底した排除(大地のゲーム)などで一人称小説の可能性を追求してきた綿矢りさとしては、「私小説」への逆襲として「私小説」をパロディーにしてしまう、というのは必然だったということでしょうか。

一つ分かったことは、「綿矢りさ」は相当厄介な女だ、ということでしょうか。

では。

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