映画・テレビ

盗みの味を覚えて―ウィリアム・ワイラー「おしゃれ泥棒」How to Steal a Million(1966年)

【今日の言葉】

過去の一瞬にすぎなかったのだろうか?おそらく、それ以上のものだ。
(マルセル・プルースト「失われた時を求めて」)

【読書日記】

こんばんは。ともです。

今日はウィリアム・ワイラー監督「おしゃれ泥棒」How to Steal a Million(1966年)です。
内容にわたる記述を含みます。未見の方はご注意ください。

■盗人が、おしゃれ?

この映画のタイトルの原語は、”How to Steal a Million”。
「百万を盗む方法」とでも直訳しましょうか。

その日本語タイトルが「おしゃれ泥棒」。
おそらくオードリー・ヘップバーン=「おしゃれ」のイメージからつけられたのではないかと思います。

では、なぜ「おしゃれ『な』泥棒」ではないのでしょうか。
ちょとダサい印象がでますね。キャッツアイみたいなイメージも出てきます。
最近だと、NHK『LIFE』の「カッツアイ」のパロディのイメージの方が強いかもしれません。

しかし、私には、実は日本語タイトルは、この映画の本質をついているのではないか、と思われます。次に見ていきましょう。

■同語反復

最後のシーン近くに、父親が一度は拒否した南米の友人を、今度は親しげに招き入れる場面があります。ここまで映画を観てきた観客は、これから何が行われるのかを容易に知ることが出来ます。

すなわち父が自ら描いたゴッホの贋作(fake)の売買が行われようとするのです。
その直前、一人娘(オードリー・ヘップバーン)と結婚した新郎が、父に贋作稼業から手を引くように約束させます。つまり空約束だったことがわかるのです。

ここでこの映画の教訓が語られているのです。すなわち、
「贋作画家は、贋作を売る」。

すると、その約束のシーンにおいて、探偵である新郎が、自らの稼業をやめない決意を表明したことと二重写しになるのです。すなわち、
「探偵は、秘密を探る」。

そう、この場面は、同語反復のように、登場人物のキャラクターのアイデンティティーが首尾一貫して変わらないことを示す重要なシーンなのです。

そのようにこの映画を観ると、
「運転する女は、車を運転する」
「おしゃれな女は、おしゃれである」
「贋作売買に対して忠告する女は、贋作売買に対して忠告する」
「キスする男女は、キスをする」
というように、キャラクターの自己同一性が、執拗に描かれていることがわかるのです。

■物語の動因

ゴダールのように、映画において物語の比重が軽視されている映画であれば、同語反復的なキャラクターが執拗なまでに自己同一性にこだわってもよいでしょう(「女は女である」)。

しかし、キャラクターが「AはAである」と主張し、こだわった場合、静止画のように物語は動きません。ましてや商業映画の第一人者であるワイラー監督が、アリストテレス以来のキャラクター論を知らないわけがありません。

そこで、登場するのが「泥棒」です。
すなわち、「おしゃれな女は、おしゃれである」ことをやめ、掃除婦に化けることで、自己同一性を捨て、「泥棒」に変化するのです。これがこの映画の動因となります。

いいかえれば、
「おしゃれな女は、おしゃれである」を捨てたとき、
「泥棒は、盗みをする」に主題は変わるのです。
つまり「おしゃれ」と「泥棒」は、両立しないこと、「おしゃれ『な』泥棒」はいないことが、ここで明確になります。

■Stealとは何か

では、その物語の動因となるSteal(盗み)とは何でしょうか。
代表的な刑法の教科書で「窃盗」の定義を確認してみましょう。

「窃盗罪は、他人の占有する他人の財物を占有者の意思に反して取得する罪である」(西田則之「刑法各論」第六版、138頁)。

ここで重要なのは、「意思に反して」、「占有」を侵奪するということです。
つまり、ここでの物語の動因は「占有移転」であることが、明確となります。

では、その「占有」はどのように定義されるでしょうか。
同じく西田刑法で確認してみましょう。

「ここでいう占有とは、財物に対する事実的支配・管理の意味であり(大判大正4・3・18刑録21輯309.頁)、民法における占有概念とは異なる。すなわち、『自己のためにする意思』(民法180条)は必要でなく、他人のための占有も含まれる」(西田則之「刑法各論」第六版、142頁)。

要するに、刑法が想定する「占有」とは、民法の「占有」とは定義が異なり、「事実的支配・管理」のことであるということです。(刑法と民法における占有概念の差異について詳しく知りたい方は、木庭顕『「客殺し」のインヴォルティーノ、ロマニスト風』「現代日本法へのカタバシス」83頁以下をご参照ください。)

■誰が、何を盗まれたのか

では、誰の、どのような、占有が、移転し、侵奪されたのでしょうか。

まず、表向きは裕福な美術品収集家、その実、当代一の贋作画家である「父」が祖父から相続した「チェリーニのヴィーナス像」が、第一の占有物であることが映画の冒頭近くから示されます。

その占有物は、美術館に無償貸与されることが、映画では描かれます。
多数の警察官を伴った美術館の館長が恭しく受け取る場面と、美術館に運ばれる場面がやや長いと思われる時間をかけて描かれるのは、この相続財産であり且つ父の占有物である贋作美術品の「占有移転」こそが、物語の中心となることがここで示されているのです。

しかし、この「占有移転」の危険負担を巡り、保険が掛けられ、保険の発効条件として、美術品の「鑑定」が行われることになってから、物語が大きく動いていきます。

鑑定が行われれば、父親の占有物が贋作であり、ひいてはその信用と資産価値が大きく毀損することが、「父」と「一人娘」の懸念材料として浮かび上がってきたのです。

■おしゃれな女が泥棒に変容するとき

そこで贋作美術品の鑑定を阻止すべく立ち上がるのが「一人娘」です。
彼女は、泥棒であると信じている探偵に贋作美術品の「盗み」を依頼することになります。
探偵は、美術商の依頼で父の美術品の真贋を調べるため父の豪邸に侵入した際に、彼女に発見され、古物銃で腕を撃たれていたのでした。贋作であることの露見を恐れた彼女は、警察ヘ連絡せず、リッツ・ホテルまで彼を送った際、唇を奪われます。

ここで秘密を共有し、ましてや唇を奪われ、心まで奪われた彼女は、父の第二の「占有物」であることがここでわかります。

■非対称的な交換

彼と彼女が共犯として盗みを行うことは、リッツのキスシーンで既に運命付けられていたのです。そして、二人がこの映画の最大の見どころである「いかに盗むのか」という夜の美術館の場面へと続いていきます。

これは傑作なコメディーだと思わせる名場面です。が、ここでは省略して、実際の映画を観て頂きたいと思います。

盗みを成功し第一の占有物は探偵の手に渡りました(占有移転)。
ここから探偵の大勝負(Big Deal)がはじまります。

まず、贋作美術品に惚れ込んだアメリカの大富豪が、探偵に美術品の引き渡しを要求します。大富豪はその前に、彼女と婚約をしていました。既に彼女に惚れ込んでいる探偵は、この婚約を排除しようとします。「2個の者がsame spaceヲoccupyスル訳には行かぬ」(夏目漱石)からです。

そこで彼は、大富豪に贋作美術品を引き渡すことと引き換えに、彼女に接触することを禁じるのです。彼は、取引として、第一の占有(贋作美術品)と第二の占有(一人娘)を「交換」(占有移転)したことになります。ここで、第一の占有を選んだ大富豪は、フィギュアを愛でるオタクの先駆けのように描かれます。

まだ、大勝負(Big Deal)は続きます。彼女のリアルな占有を獲得していない探偵は、第二の占有を有する「父」との取引を行います。ここで何が取引されたのかは、映画では明示的に描かれません。

が、「一人娘」という占有を取得する際に、対価(Consideration)がない取引はありえません。探偵は、「贋作」という秘密、すなわち父の信用と財産の保全、を引き換えに彼女の「占有移転」=結婚を勝ちとったのでした。

■婚姻は、両性の合意のみに基づいて成立する

しかし、親の同意を得たからといって、結婚が成立するわけではありません。
本人の合意がなければ、成立しません。
では、いつ探偵は一人娘の心を奪ったのでしょうか。

ここで「キスする男女は、キスをする」という主題に回帰し、リッツの唐突なキスシーンで、既にキャラクターの運命として結婚が決められていたのだと観客は納得することになります。そして「おしゃれな女は、おしゃれである」、「贋作売買に対して忠告する女は、贋作売買に対して忠告する」、「運転する女は、車を運転する」という主題を映画は反復し、幸福なエンディングを迎えることになるのでした。

では。

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小説という真赤な嘘を嘘として築くために、蓮實重彦「伯爵夫人」は本当以上のもっともらしさで小説と戯れてみせるのだ

【今日の言葉】

だが、もしそれが事態の正しい解釈だとするなら......
(蓮實重彦「陥没地帯」)

【読書日記】

こんにちは。ともです。
今日は文芸誌「新潮」2016年4月号に掲載された―蓮實重彦の「オペラ・オペラシオネル」以来―22年ぶりの新作小説「伯爵夫人」を読みます。
内容にわたる記述を含みます。未読の方はご注意ください。

■あらゆる時代を通じて徹底した希薄な輪郭しか享受しえなかったこの不幸な記号

蓮實重彦はこれまでに2作の小説を発表しています。1作目の「陥没地帯」は、「エピステーメー」1979年7月臨時増刊・終刊号に掲載され、1986年3月に哲学書房から刊行、1995年2月には河出書房新社から文庫本として再刊されています。その小説が与えた影響と非影響については文庫版の武藤康史「解説」に詳しいのでここでは繰り返しません。

2作目の「オペラ・オペラシオネル」は、「文藝」1994年夏季号に掲載され、1994年12月に河出書房新社から単行本が刊行されています。残念ながら、どなたかが書評をしたものを紙の刊行物では見たことがありませんし、国立国会図書館サーチで検索してみてもそれらしきものは見当たりません。

ということは、1979年にデビューした新人小説家たる蓮實重彦は、なんとゆうに30年を超える小説家としてのキャリアのなかで、これまでたった2作しか小説を発表せず世評をもほとんど得ていない「知られざる作家」ということになります。何と贅沢な小説家なのでしょうか。東大総長まで務めて世間的にはその名の通った小説家がこれまでたったの2作しか小説を発表しないということが、この21世紀の日本で許されるものなのでしょうか。

と、思って今回「新潮」に発表された新作小説を読むまでは「既に蓮實重彦は小説家を廃業したのだ」と私はすっかり誤解していました。その誤解を一瞬で吹き飛ばすほど、蓮實重彦の新作小説「伯爵夫人」は狂暴な言葉の運動を見せていたのでした。

■実際、映画が何であり文学が何であるかを知るものなど、誰もいはしない。

蓮實重彦「伯爵夫人」を通俗的に要約してしまえば、1941年12月8日の午後から夕方まで、帝国ホテルの一角で、旧制高校に通う華族の嫡男・二朗と、伯爵夫人と呼ばれる中年女が過ごす、現在と回想の入り混じった「語り」が中心となる官能小説。といったところでしょうか。付け加えれば、至る所に戦前に公開された映画からの引用がなされ、時代背景を示唆する文学的な記号がちりばめられ物語を彩るとともに、スパイ映画の要素もふんだんに盛り込まれ、戦争映画のような場面も登場する一大活劇のような小説、とでも言っておけばひとまず安心できる文脈に収まるかもしれません。

とはいえ、そんな通俗的な要約がこのテクストの前では全く歯が立たないことは明白です。

「1941年12月8日」とひとまずは要約してみたものの、テクストに出てくる「帝國・米英に宣戦を布告す」からの推測であり、「帝國・米英に宣戦を布告す」というタイトルが新聞の一面に載ったのは朝日新聞の1941年12月9日の夕刊で二朗が目をやった夕刊とも符合するのですが、「伯爵夫人」のテクストには「1941年」とも「12月」とも「8日」とも一言も出てこない。テクスト外の事情によって、われわれはそう読んでいるのに過ぎないのです。

「ボヴァリー夫人」に「エンマ・ボヴァリー」という記載はないと断言し、テクストにテクスト外のものを読む者を断罪する蓮實重彦ですから、これはうっかり「戦前の日本が舞台となった」などと口にしてはいけないのです。なぜなら、「1941年12月8日」とはテクストのどこにも記載されておらず、それはテクスト外のものを読む行為だからにほかならず、仮にテクストの現在が「1941年12月8日」であったとしても、なおその日に「真珠湾攻撃」は既に行われており、とても「戦前」と呼ぶことはできないからです。

■誰が、どこから語っているか

映画的な記憶を呼び起こす記号の群れがこの小説にはいくつも出てくるのですが、伯爵夫人の名前の由来である「素顔の伯爵」とは、マンキーウィッツ監督「素足の伯爵夫人」へのオマージュでしょう。

マンキーウィッツ監督「素足の伯爵夫人」では、「ジプシー女でかつての裸足のダンサーは伯爵夫人となるのだが、夫は戦傷による性的不能であり、不貞に走り夫の銃弾に倒れる」という物語が語られます。片や蓮實重彦の「伯爵夫人」は、日本人女でかつての高級娼婦は、結婚していたわけではない「素顔の伯爵」と晩年の数年間を過ごし、周囲から「伯爵夫人」と呼ばれるようになり、戦傷による性的不能となった男のからだを心から愛した、という物語が語られます。結婚と未婚、ジプシー女と高級娼婦、愛情と嫉妬という対立軸を作りながら、性的不能の男をめぐってのヴァリアントを作るこの物語は、「素足の伯爵夫人」をオリジナルとしながら、そのパロディとして「素顔の伯爵」夫人という物語を語っているかのように思われます。

「それにしても、目の前の現実がこうまでぬかりなく活動写真の絵空事を模倣してしまってよいものだろうか。」

しかしながら、仮に「伯爵夫人」の小説的現在が「1941年12月8日」だとしたら、1954年に公開された「素足の伯爵夫人」がオリジナルであろうはずもないのです。では、「素足の伯爵夫人」が逆に「伯爵夫人」の物語をオリジナルとなるのか、といえば事態はそんなに単純ではないと思われるのが正しいでしょう。なぜなら、蓮實重彦「伯爵夫人」は2016年の日本で発表されたフィクションだからです。

また同じことが「男性の好きなスポーツ」(ハワード・ホークス監督 1964年)についても言えるでしょう。

■帝国の陰謀

このようなテクストのオリジナルとヴァリアントの複雑な関係、いいかえればテクストとその上演としての現実の「事態の逆転」を近代の「反復」として描いているテクストがこの小説の著者によって既に書かれています。

それが蓮實重彦「帝国の陰謀」です。

フランス第二帝政期に内務大臣、立法院議長として活躍したド・モルニーの、ナポレオン三世のクーデターに際して出されたテクストと、彼が草した喜歌劇のテクストを分析する蓮實重彦は、「まだ上演されてさえいない作品を、それが描かれるよりも正確に十年前にあらかじめ実演」してしまうような事態が近代以降成立していることを手品のようなあっけなさで描き出しています。

ド・モルニーが「私生児」として生まれ、生涯他人の名前でしか署名していないこと、始原としてのオリジナルな署名を欠いたテクストという主題に加え、第二帝政期の爛熟した文化、ドゥミ・モンドと呼ばれる高級娼婦や情婦という乱れた性風俗にも触れる蓮實重彦は、どこか「伯爵夫人」の世界をその二十五年前に既に描いていたかのようです。

■反復

「反復」としては、この小説は、いくつもの細部の反復が繰り返されていきます。

「ばふり」という擬態語、白目をむく気絶、ルイーズ・ブルックスまがいの短い髪型、修道女のモチーフ、戦場の光景......。

これらの反復は、何がオリジナルで何がヴァリアントなのかを問うことを無効にして、結局はすべてがフィクション、本当以上にもっともらしい「嘘」なのだ、とでも突き放しているかのようです。

最後に、この小説を現時点で的確に批評していると思われる文章を引用して終わりにしたいと思います。

「いわばステロタイプの饗宴である。風景は絵葉書のように薄っぺらだし、人物は心理を剥奪された機械人形のようにぎこちない。女たちはいずれも典型的な娼婦のイメージにおさまり、男たちもまた、性的偏執者の類型そのものだ。想像力は豊かに飛翔するというより、むしろ涸渇し、物語は無理に辻褄を合わせようとする者の言訳のように矛盾と反復に充ち、自分から罠に落ちて、訊ねられたわけでもない秘密を漏らしてしまう。だからその物語は、隠されていたものが徐々に露呈されてゆくのではなく、はじめから露呈されていたものが、そのあからさまな露呈ぶりを重層化してゆく過程をたどることになるだろう。この重層化の過程が、決してひとつの真実の意味にはたどりつくことのないイメージの多声的戯れへと見るものを導きいれ、表面という名の奥行を欠いた迷路の中の、距離と深さを奪われた表層的な彷徨へと駆り立てる。」

(蓮實重彦「映画作家としてのロブ=グリエ」 『シネマの記憶装置』(1979年)収録)

では。

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ゴダールのオデュッセイア―ゴダール「さらば、愛の言葉よ」

【今日の言葉】

スペクタクルと統治の仕方の間には関係があるんだ。
(ゴダール インタビュー「シネマ、それは現実を忘れること」)

【読書日記】

きょうは、ゴダールの新作「さらば、愛の言葉よ」を観てきた感想を少し。

■シンプルな感想

まず、前評判の3D左右別向き場面は、純粋に面白かったです。
画面の「幽体離脱」のような感触で、「あぁ、こうなるのね」と感心しました。

ただ、目の悪い私にはこの3Dは大変疲れました。
焦点が合わない。
わざとぼやけた画面を入れる。
(これは笑うところなのか、と真剣に悩む。)

引用、誰だっけ?
(帰ってきてフローベールだと思い出す)

音楽ぶつぎり健在だな。
もうちょっとちゃんと聴いていたいのに。

などでしょうか。
だいたい1時間くらいなはずなのに、大変上映時間が長いと感じました。

シンプルな感想は以上の通りです。

■考えてみた感想

で、画面を観つつ、また
画面を観終わったのちに、いろいろと考えてみた感想は、

これって、オデュッセイアのパロディかもしれない。

というものです。

■犬、戦争、航海

まず犬。何故犬か?

ホメロス「オデュッセイア」では、アルゴスという老犬が出てきます。「オデュッセイア」では、乞食に扮装したオディッセウスを、人間は誰ひとり認識できなかったのに対して、この老犬アルゴスだけが、乞食の正体を見破ったのです。人間の認識能力の限界を示す「おはなし」として理解することも可能な場面です。

もし「オデュッセイア」だとすると、何故戦争の場面が繰り返し出てくるのかも理解できます。
オデュッセウスは、トロイヤ戦争から、延々航海をして帰ってきたからです。

だとすると、繰り返し登場する遊覧船もオデュッセウスの帰還を示唆しているのではないでしょうか。

■貞操と不倫

しかし、決定的な違いがあります。

オデュッセウスの妻ペネロペは、求婚者たちをずっとだましつつ貞操を守ってきたのに対し、ゴダールのヒロインは人妻で、不倫をしています。

ゴダールのレジュメによると、犬は、不倫のふたりのもとに落ち着くことになります。主人の帰りを待たずに、不倫の二人の側につく犬。

そして、ゴダールによると「かつての夫が全てを台無しにし」と、オデュッセウスが悪者になったかのような書き振りで物語が要約されています。

確かに、オデュッセウスは、求婚者たちに対して矢を射って「台無し」にしてしまいます。
しかしゴダールは、それを、戦争の悪とクロスオーバーするかのように、不倫の側に立ったシナリオを進めていくのです。

■西欧を始原からやり直すこと

ホメロスは、西欧の第一級の古典でした。
その古典をズラすことにより、西欧をはじめからやり直すこと。

そんなホメロスの書き換えをやっているかのように、この映画を観てしまうのはちょっと深読みのしすぎかもしれません。

ただ、ヒトラーへの参照において、それが西欧社会がその中から作り出したものである、という科白がでてくるところを考えると、案外、ゴダールは本気でホメロスの書き換えを考えているのかもしれない、と思えてくるのです。

「シネマ、それは現実の複製ではない、現実の忘却なんだ。しかしこの忘却を記録しておけば、思い出し、現実に到着できるかもしれない。」(ゴダール インタビュー「シネマ、それは現実を忘れること」)

不倫するペネロペと悪役のオデュッセウスから始まる社会というのはどんなものか全く想像がつきませんが、少なくとも、ゴダールの3Dという全く想像のつかなかったものを観てしまったからには、そんなものもあるのかもしれない、とつぶやくしかほかにないのかもしれません。

では。

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誰のものでもない―井口奈己「ニシノユキヒコの恋と冒険」

【今日の言葉】

深海魚に会おうとした揚羽蝶が、海面にへばりついている。
(飯田茂実「一文物語集」)

【読書日記】

こんにちは。ともです。
私が長い間、新作を待ち焦がれていた井口奈己監督の映画「ニシノユキヒコの恋と冒険」を今週ようやく観ましたので、その感想など。上映中ニヤニヤしっぱなしだったイイ映画でしたので、お読みになる方は是非、先に映画をご覧になることをお勧めします。

■ハスミシゲヒコの恋と冒険

と書いてあったとしても、どうしても先に映画評をお読みになりたいという方が、もし、いらっしゃいましたら、文芸誌「群像」2014年3月号に掲載されている蓮實重彦の映画時評「繊細な演出と神の采配とが奇跡のように同調すれば、こんな映画が生まれ落ちる」をお読みになることをお勧めします。そのほうがわくわくしながら映画を見ることができるかもしれないからです。

蓮實重彦の文章は、彼のスクリーンに対する恐るべき動体視力を駆使して、映画の隅々までとらえた的確な分析と、情景が目に浮かぶような詳細な描写を加えていて、映画を観る前に、すでに井口奈己の世界観を緻密に再現しています。それでいて過剰に分析的にならず、適度な「煽り文」になっていますので、読んだ人は「見損なっちゃいけない!」と、うっかり錯覚してしまい、映画館へ足を運びたくなるような時評になっています。

こんなに蓮實重彦が「恥も外聞もなく」ベタ褒め、ベタ惚れした時評を書くのも近年珍しいので、この文章は蓮實重彦の「老いらくの冒険」ではないかと心配してしまうほどです。「映画に愛された稀有な映画監督」に対する蓮實重彦の映画的な愛があふれていますので、ぜひご一読を。

■井口奈己とエリック・ロメールの差異と反復

という私は、2009年2月15日のこのブログの記事で前作「人のセックスを笑うな」について感想を書いています。
http://tomonodokusho.cocolog-nifty.com/blog/2009/02/post-6d63.html
今回まるまる5年ぶりに井口監督の映画を観て感想を書きたいと思ったのですが、ほぼ完璧な紹介は蓮實重彦にやられてしまい、何を言っても二番煎じとなってしまうので、今回は前回の記事同様、芸もなくエリック・ロメール「友だちの恋人」と井口奈己の映画の偏差分析を、懲りもせず反復することになります。

では、なぜエリック・ロメール「友だちの恋人」なのでしょうか。

前作「人のセックスを笑うな」は、いろいろなところで、エリック・ロメール「友だちの恋人」の影響が濃く画面に表れている、というのが前回のブログ記事での私の分析でした。そんなことをなぜ言えるのか、という声が聞こえてきそうですが、5年前の「人セク」関連イベントで井口監督推薦映画の上映があり、案の定、「友だちの恋人」が上映されているのです。井口監督が大好きな映画を、たまたま私も大好きだから、というだけです。

■友達の友達はみな友達だ

エリック・ロメール「友だちの恋人」は、『喜劇とことわざ』というシリーズの一作で、この作品にはモチーフとなる「ことわざ」が配されています。

Les amis de mes amis sont mes amis.

愚直な直訳をすれば、「わたしの友達の友達は、やはり、わたしの友達だ」とでもなるでしょうか。タイトル「友だちの恋人」はこれを文字っています。が、フランス語原文では、より直截的にこの映画の内容を表しています。

L'ami de mon amie

またまた愚直な直訳をすると「わたしの女友達の男友達」となります。フランス語の名詞には男性形と女性形があるため、日本語に直すとかなり露骨な表現にみえますが、音読みでは「らみどぅもなみ」と何かのおまじないのように美しい響きになります。

「ニシノユキヒコの恋と冒険」を観ながら、この「ことわざ」が、ぼんやり頭に浮かんだのは、かつての恋人たちがニシノの葬儀に美しい庭園へ集まった場面です。なにやら激しい戦いを経た退役軍人たちのパーティーのように明るい表情の女性たちはどこか不気味です。かといって秘かな絆で結ばれたかのようななごやかな空気感さえ漂うのは、お互いが「敵」ではないからでしょう。

なぜニシノユキヒコ(竹野内豊)はいつも女性にフラれるのか、という問いが映画の中でも出てきますが、どうやら、このシーンに答えがありそうです。

■誰のものでもない

エリック・ロメール「友だちの恋人」では、二組のカップルが最後には入れ違いになります。最初は、女①=男①/女②=男② だったはずのカップル構成が、最後には、女①=男②/女②=男① となるのです。それでいて喜劇。劇中も観客も大爆笑です。

「ニシノユキヒコの恋と冒険」ではこの構造が大きく変わっています。

まず「男②」がいません。「男①」しかいないのです。すると何が起きるか。女①と女②がまず奪い合いを行います。その結果、「横滑り」が発生するのです。構造的には女①→②→③→④...と男①を中心に円環状にそしてらせん状にカップルが動的に変化をするのです。これは延々と男①という中心が消失するまで続いていく構造になっているのです。

つまり、誰も「男①を所有しない」=「結婚しない」のです。

そしてニシノユキヒコは、構造的に男②を欠くために不安定なモビールのようにくるくると回転しながら、コマのようにいつも円の中央で静止しているのです。その反射的な効果として、

「誰のものでもない」

ということが、不思議な女子たちの連帯(友達の友達は友達)を形作っているのでした。

■シネフィル的な映画の記号たち

このように「ニシノユキヒコの恋と冒険」は、「友だちの恋人」から大きく「差異」の方向へ舵が切られています。とはいえ、三つ子の魂百までという通り、滲み出る「反復」も鮮やかに画面を彩って躍動感を与えています。

マナミ(尾野真千子)がニシノを振るシーン。

愛し合った後に、女性が抜け出しさよならを告げる。というのはエリック・ロメール「友だちの恋人」の白眉のシーンです。また「友だちの恋人」のヒロイン・ブランシュのクセは上着のポケットに手を突っ込んで歩くことでした。マナミがリベルテ(フランス語で自由)という名のマンションの前でポケットに手を差し入れるとき、ロメールへ秘かなリスペクトが捧げられていると思うのは私だけでしょうか。木々の緑を見上げるように撮ったカット。緑の小道で手をつなぎ歩く二人。

さらには、江ノ電、七里ヶ浜という「晩春」の小津安二郎を髣髴とさせる記号がちりばめられています。幽霊のニシノが現れるミナミの自宅をローアングルでとらえるショットも小津へのリスペクトでしょうか。古い日本家屋に血の繋がらない男女が寝泊まりするというのは「東京物語」の笠智衆と原節子をも想起させるのに充分です。

他にもまだまだシネフィル的な記号たちが映画を彩っているのでしょうが、シネフィルではない私にはよくわかりません。是非とも浅田彰がゴダール「映画史」でやったようなインデックスを誰か「ニシノユキヒコの恋と冒険」でやってほしいと思うのは贅沢すぎる望みでしょうか。

それよりも、気が早いかもしれませんが、早く井口奈己の次回作を観てみたい!というのが本音のところですが。

では。

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想像力にゆだねること―高畑勲「かぐや姫の物語」

【今日の言葉】

天の海に 雲の波立ち 月の舟 
星の林に 榜ぎ隠る見ゆ
(柿本人麻呂・万葉集7-1068)

【読書日記】

こんにちは。ともです。
今日は、映画「かぐや姫の物語」を観た感想を少々。
(ネタばれありますのでご注意ください)

■かぐや姫の罪

数年前に、原作の「竹取物語」を読んだときに、三つの感想を持ちました。

一つは、かぐや姫って、子どものころ読んだ絵本とは違って、上から目線の高飛車な物言いをする人なんだなあ。と。

もう一つは、月からの迎えが、かぐや姫の罪の刑期が終了したからであり、かぐや姫の「罪」とはなんだったのだろう。と。

そして、これって、実写映画にしてみたら、とても面白いSFになるのではないか、と漠然と考えたのを覚えています。

今回、高畑勲「かぐや姫の物語」を見たいと思った理由も、「罪」とは何か、という答えを提示しているということと、どこまでSF的描写が入るのだろう、という興味からでした。

■高畑勲「かぐや姫の物語」

で観てみた感想ですが、「大変、原作『竹取物語』に忠実な、映画化だ」と思いました。

まず、あらすじは、ほぼ「竹取物語」を踏襲しております。次に、SF的な要素は極力排除されていました。唯一、最後に月へ向かうかぐや姫が、振り返って、青く丸い地球を見る場面。これはSF的な解釈を必ずしも排除しない高畑勲の姿勢を感じ取りました。

原作に忠実でなかろう、と思われた点は、かぐや姫の言動が、ただの高飛車な不思議ちゃんではなく、ジブリ的なヒロイン像といえば語弊があるのでしょうが、人間的な心を持っていたところでしょうか。これも、「このような解釈も原作からは出てこよう」という意味で、それほど違和感はありませんでした。高畑勲の狙いがまさにここにあったろうと思われます。

■SF的な解釈

で、以上を承知で、勝手に、SF的解釈を施して、映画を読み直してみよう、というのが以下の試みです。あまりにも私の勝手な読み方なので、高畑勲の真意がこうであるなどとは誤解しないようにお願いします。

まず、かぐや姫の登場シーン。光り輝く竹の子がパカっと開いて、中に、かぐや姫が入っています。SF的な解釈を施せば、異星人の流線型の飛翔体の操縦室のキャノピーがパカっと開いたとも取れる場面です。イメージ的には、宇宙戦艦ヤマトでイスカンダルからの使者・サーシャを古代進が発見する場面みたいなものでしょうか。
px1img.getnews.jp/img/archives/2013/04/yamato.jpg

では、何故、竹の子なのでしょうか。

それは、「この時代の人々」からは、「そのようにしか例えようがなかった」からだと思われます。この点については、スピノザによる聖書の奇跡についての説明が参考になると思われます。

スピノザは「神学=政治論」において、預言者とは「神から啓示された事柄について確実な認識を持つことができない」民衆、「単に信仰によってのみ啓示された事柄のみしか」受け入れられない無知で非啓蒙的な民衆のために、神の啓示=すなわち世界の真実を「解釈する者」であると定義しています。その意味で、奇跡とは民衆の理解できる言葉で、世界の真実を伝えるための「譬え」なのだといいます。

また、月の人がかぐや姫を迎えにくる場面も同じです。「この時代の人々」にとってみれば、天からやってくるものといえば、仏様。だから、「阿弥陀来迎図」のようなシーンにここはなっているのです。SF的な解釈を施せば、ルナリアン(月の人)の宇宙船が、光り輝き飛来して、神経兵器を利用し都の軍勢を無力化したうえで、流刑囚たるかぐや姫を勾引していった場面、ととらえることが可能です。イメージ的には映画「未知との遭遇」の宇宙船飛来シーンでしょうね。
http://info.movies.yahoo.co.jp/detail/typh/id22811/pidview003

■では何故?

高畑勲もこのようなSF的解釈を知らないわけではありません。ゆえに、最後の場面で青く丸い地球という「この時代の人々」が決して見ることなく、決して想像することができない場面を描いているからです。そしてこれは、唯一、地球の記憶をなくしたルナリアンたるかぐや姫の視点から見た世界の真実の場面であるということです。

では何故、この最後の場面までは、まるで「まんが日本昔話」のような和風の水彩画のようなアニメーションによってこの映画は描かれているのでしょうか。それは、「この時代の人々」の視点、なかんずく翁(おきな)と媼(おうな)の視点からこの物語は描かれているからなのです。

その点でもやはり「大変、原作『竹取物語』に忠実な、映画化だ」といえます。

高畑勲はこの絵の特徴について「どうかこれをよすがにしてこの後ろにあるホンモノを想像してくださいね」というものであると説明しています。ここでいう「ホンモノ」とは、日本の自然の多様性や美しさ、都のきらびやかさなどであろうと思われます。

が、私の勝手な想像力は、更に飛躍して、この「かぐや姫の物語」の背後にはもう一つのSF設定の裏「かぐや姫の物語」ヴァージョンがあって、そこでは、ガチなハードSF設定で、地球の歌が月世界では禁止されている理由、月世界人たちが地球を流刑地としている理由、月世界人のハイテクノロジー、すなわち月世界人の非生体的記号操作による生存形態と都市形成などがあり、実は「その後のかぐや姫」という続編があるのではないか、などと思ってしまうのです。

■冒頭に掲げた柿本人麻呂の歌を再掲します。

天の海に 雲の波立ち 月の舟 
星の林に 榜ぎ隠る見ゆ
(柿本人麻呂・万葉集7-1068)

これですら、「ルナリアンの宇宙船が煙を立ち上げて昇っていく様を仰ぎみる人麻呂」という映像が浮かんだ私ですので、どうかご容赦ください。あ、最後に。高畑勲「かぐや姫の物語」は傑作ですよ。

では。

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その後の世界―エヴァQとぼくたちの失敗

【今日の言葉】

そもそも、社会の基本的な枠組みに関わるということは、あれやこれやの権威・権力・関心・利害以前の、或いはその外の、それらすべてを制約する、事柄に関わるということを意味する。現実の厳しい対立状況に言葉一つを武器に割って入る、皆が一定方向に流れるときに枠組みをタテにとって敢えて嫌がられることを言う、そのかわりに沈む船から最後に脱出する類の責任感を持つ、というメンタリティーは社会の基本的枠組みに関わる者に固有のものである。
(木庭顕「法学部―批判的紹介の試み」)

【読書日記】

こんにちは。ともです。
今日はエヴァQを観ての覚書です。
ネタバレを含みますので、観てからお読みいただくことをお勧めします。

【以下、ネタバレあり】

■エヴァ破

まずは前作のおさらいです。

2009年7月6日のこのブログで、エヴァ破について書きました。
http://tomonodokusho.cocolog-nifty.com/blog/2009/07/post-e050.html

そのなかで、エヴァ破のテーマは「新しい政治」であろうと僕は読んでいます。
スピノザが「神学=政治論」で明らかにしているように、神と政治は等値可能です。
ミサトのセリフ「この世界が終る」を、「古い政治が終る」と読み替えたわけです。

その後、現実に日本では政権交代が起きました。
エヴァの前作は、日本社会の現実を扱っていたことになります。

そして、その動機を「かけがえのないひとりの女性を守ること」に求めています。
政権を獲った政党のスローガンが、モノから「人へ」と訴え、党首が「命を守りたい」と演説したのを多くの方は覚えているのではないでしょうか。ここで、エヴァと日本社会が妙なシンクロをしていたことをまずは思い出してみましょう。

■エヴァQ

そこで、今回のエヴァQです。

その展開についてはいろいろな議論があるようです。
物語内部のさまざまな符牒から、謎を精緻に読み解こうとしている人もいるようです。
単純に、物語にカタルシスが見られないことから、否定的に評価する向きもあるようです。

確かに、物語としてみると、カタルシスのない、その意味で「出来の悪い」話だということも可能です。

ここでは、前作について僕が読んだことの延長線で、エヴァQを観てみたいと思います。つまり、日本社会との「妙なシンクロ」です。

■ぼくたちの失敗

エヴァQを「日本社会の現実」を扱ったものという観点で見てみるとどうなるでしょうか。

「あれから」、その後、日本の社会は大きく変わってしまいました。
政権党は、その公約の主要な部分を、実現できませんでした。
より悪くなってしまった、という評価も、全否定することは困難です。

また「命を守りたい」という切実な主張とは裏腹に、3・11により多くの尊い命が失われました。そして、福島県沿岸の状況も、未だに本質的な解決策を見いだせてはいないようです。また、ここにきて日本社会に対する国際社会からの風あたりも厳しくなったようです。

さまざまな「インパクト」が日本の社会を襲ったと言い換えることもできるでしょう。

■そこからの景色

これは、エヴァQで、シンジがみた「その後の景色」と非常に似ています。

「そんなつもりはなかったんだ」

日本の社会には、シンジと同じような言い訳をしている人間が、見当たらないでしょうか。
政治、社会、経済、科学技術の分野において、リーダー、エリートとみなされる人間が、そのような言い訳をしている場面を、「あれから」何度も見てきたのではないでしょうか。

エヴァQをみて否定的な評価をしている人は当然です。
せっかく、肯定的な物語へと変化しようとしていたエヴァに期待をして見に行ったところ、逆に、見たくもない出来の悪い物語、すなわち「自分たちの現実」のようなものを突き付けられたのですから。

「助けてなかったんだ」

そう日本の社会、つまり僕たちは、世界を救っていなかったのでした。

■開かれた未来

こうしてみると、エヴァQの最後の場面は、きわめて象徴的です。
あてどもなく歩く3人の後ろ姿。
どこへいくのか、明確な行き場もなく、どちらを見ても荒れた大地。

それでも僕たちは歩いて行かなければいけない。
やり直し(redo)ができることを希望として。

と、あまりにもざっくり観てしまったので、正直、好きとか嫌いの問題よりも、「わかるなあ」というのが感想です。以前、宮崎駿が「庵野くんは、震災以降、どう描いていいのかとても悩んでいるようにみえる」とどこかのインタビューで語っていた通り、今作が、その答えだと思いました。

「その後の世界」

それでも僕たちは歩いて行かなければいけない。
やり直し(redo)ができることを希望として。

では。

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シネマの創生-スコセッシ「ヒューゴの不思議な発明」

【今日の言葉】

それに『はなればなれに』は、『勝手にしやがれ』の続編です。
(ジャン・リュック・ゴダール「ゴダール映画史」)

【読書日記】

こんばんは。ともです。
今日のテーマは、シネマの創生。

■スコセッシ「ヒューゴの不思議な発明」

スコセッシ「ヒューゴの不思議な発明」をファンタジー映画だと思って観に行くと、前半は、確かにディズニーによくあるファンタジー映画の雰囲気を醸し出しているかもしれなくて、そう騙されるかもしれないけれど、後半にになると、「ヒューゴの不思議な発明」の観客は、「映画が生まれた瞬間」に、いやおうなしに立ち会わされることになる。

「きみたちは証人だ、映画が生まれた瞬間の。」

「えっ、いつから、証人台に立っていたんだ!」と、思っても後の祭り。既に、オカネは払っちゃっているじゃないか。さあ、よってらっちゃい、みてらっしゃい!じゃあ、観るしかないね。

いやいや、よくよく考え直してみると、前半と後半を分けることになる場面で、まさに、主人公が、機械にハート型の鍵を差し込んだ時点で、それは、映写室のうまい比喩だということにわれわれは気づかなければならなかったのかもしれない。

いやいやいや、もっと、よくよく考えてみれば、機械仕掛けの時計の裏から、駅の様子をのぞく少年は、映画を撮ることの隠喩、だったことに、われわれは、もっと早く、気づくべきだったのかもしれない。

いやいやいやいや、もっともっと、よくよく耳を澄ましていれば、そもそも、1930年代のパリで、イギリス訛りの英語を日常会話で話すフランス人などいるわけなかったと、われわれは気づくべきだったんじゃないか。なんと、映画に騙されていたことか。

とはいえ、そもそも、映画が人を騙すのは、1895年にリュミエール兄弟の「列車の到着」がグラン・カフェの地下で上映されたときに、手品師のジョルジュ・メリエスが観客としてまぎれこんでしまってから、歴史的には、「既に決まっていた」こと、だったのではないか。だから、メリエス「月世界旅行」は生まれたのじゃなかったか。

■グリフィス「イントレランス」

そうして「騙された観客」に、憤慨させる余裕も与えず、スコセッシは、リュミエール「列車の到着」を観た観客が「眼の前に迫る汽車に驚く」という伝説の場面を再現しては、「本当にやっちゃってるよ」と「騙された観客」を笑わせた後に、汽車に驚いた劇中の観客がバツの悪い思いで爆笑し噴き出してしまう場面まで撮っているのだ。

劇中の観客と、現実の観客が、同時に笑うなど、いかにも映画のいかがわしさを表しているじゃないか。しかも主人公の悪夢の中で、さらに、汽車に轢かれる場面を繰り返し描いて、「騙された観客」を、ドキドキ、ハラハラさせたりもする。

かと思えば、「フィルム・ソシアリスム」という題名の映画を撮ったゴダールに、「慎ましやかなやりかたで労働者を撮っている」とつぶやかせることになる、リュミエール「工場の出口」まで、劇中映画としてすらりと流しているのだから、「騙された観客」に憤慨する暇などあろうはずもない。グリフィス「イントレランス」が流れた暁には、「ああ、もう、好き勝手にやっちゃってるよ」と、「騙された観客」は、あきれて映画を観続けるしかなくなるのだ。

■タビアーニ「グッドモーニング・バビロン!」

「騙された観客」は、かつて、グリフィス「イントレランス」をトリビュートした、もう一つの映画があったことを思い出す。20世紀初頭のミケランジェロ達は、映画のセットを作り、女優を愛し、戦場に死ぬ。いかにも不寛容(イントレランス)な時代に生きた、男女を描いた佳作。「グッドモーニング・バビロン!」。

「ヒューゴの不思議な発明」は、「イントレランス」が公開された後の1930年代の時代を描き、戦争に傷ついた人々も描き出す。

映画と戦争。戦争と平和。平和と映画。そしてまた、映画と戦争。

このループが、20世紀の歴史だったのだと、言いたかったのか、「騙された観客」には確かなことはわからない。ただ、「ヒューゴの不思議な発明」は、20世紀の初頭にうまれた、映画と世界大戦という2つのものの、うまれたその瞬間を、映画の記憶としてとどめようとしていることは、確信できるのだ。

では。

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Contemporary Styleな作曲家-吉松隆・大河ドラマ「平清盛」

【今日の言葉】

遊びをせんとや生まれけん 戯れせんとや生まれけん
遊ぶ子どもの声きけば わが身さえこそゆるがるれ
(後白河法皇編「梁塵秘抄」359歌)

【読書日記】

こんばんは。ともです。
今日はNHK大河ドラマ「平清盛」を観た感想など。

■藤本有紀「平清盛」

このドラマで鳥羽上皇を演じる三上博史は、インタビューの中で、「藤本有紀さんの脚本を読んで、ギリシア悲劇やシェイクスピア作品を想起しました」と感想を語っていますが、私も第一話を見て、古典ローマのウェルギニア伝承を思い浮かべました。

舞子(吹石一恵)が白河上皇(伊藤四郎)の前に捕らえ差し出される。場面は白河院のお白州(裁判所)。まるで、ウェルギニア伝承において、悪代官アッピウスが、平民の娘ウェルギニアを許婚イキリウスから奪おうとした裁判の場面を想起させます。祇園女御(松田聖子)や「舞子をわが妻としとうございます」という平忠盛(中井貴一)の必死の抗弁も虚しく、「命をもってあがなってもらう」と死刑が宣告されます。

社会に見捨てられた「最後の一人を守ること」、いいかえれば、「かけがえのない一人の女性を守ること」という、後のローマ法における占有原理の原基となったこのウェルギニア伝承と、ほぼ同じ形の悲恋物語がここには語られているのです。舞子は平安末期の歌舞遊女である白拍子という設定でした。これも、同じく占有原理が貫く物語である、ローマの喜劇作家プラウトゥス「幽霊屋敷」Mostellariaのヒロインであるピレマティウムが芸妓meretrixであったことを思い起こさせます。

ウェルギニア伝承の後、ローマでは何が起こったか。専制体制が打倒され新しい政治が開始され、法が成立しました。「平清盛」が、平清盛の出生からではなく、後の時代の源頼朝(岡田将生)による鎌倉幕府の成立を予感する場面から始まることは偶然の一致ではないでしょう。平安末期の荒廃した「戦争状態」が、ウェルギニア伝承と同型の動機を持って、平清盛から源頼朝を経て「社会状態」に移行することが、この第一話の冒頭の場面で示唆されているのではないかと思います。

■吉松隆「メモ・フローラ」

と、意外なことにローマ法原理に重ねて観てしまった大河ドラマですが、実はここ数年まったく観ていなかった大河ドラマを、わざわざ第一話からチェックした本当のお目当ては「吉松隆の音楽」でした。既に交響曲を何曲も発表しているクラシックの作曲家ですが、最近では、映画「ヴィヨンの妻」で ―退廃的な太宰治の内面を描写したかのような― 映画音楽も手がけています。

なぜ、吉松隆の大河ドラマの劇伴に注目するかといえば、もしかして彼は、日本の国民的作曲家になるのではないか、というひそかな期待を持っているからです。とはいっても政治制度や法律的擬制としての国民とはそれほど関係がなくて、例えば、「フランスのラムルー管にベートーヴェンを弾かせるとまるでダメなくせに、ラヴェルを弾かせると途端に音楽が生き生きとする」といった意味における国民性です。いわば音楽における「方言」のようなものに近いと言ってよいでしょうか。

日本にも著名な現代作曲家は幾人もいますが、そのような方言をもった作曲家は、彼をおいては他にいないのではないか、と私には思われます。「いわゆる」現代音楽に決然と叛旗をひるがえし(ている点で「通の方」の評価が分かれるみたいですが)、甘いメロディーを奏でる現代の作曲家ならば他にもいるはずです。彼の音楽には、その際立った「方言性」とでもいうべきものがあり、われわれの耳には、心地良く音楽が入ってくるように思われます。ピアノ・コンチェルト「メモ・フローラ」が彼のその特性を最も良く示しているのではないかと思われます。

■Contemporary Style(今様)な作曲家

冒頭に引用した「梁塵秘抄」の歌は、大河ドラマ「平清盛」おいて舞子(吹石一恵)による「今様」の唄として節をつけて歌われています。「梁塵秘抄」を読めばわかるように、「今様」の大半は、白拍子によって歌われた俗謡で(松田聖子の役「祇園女御」は、後に、後白河法皇の今様の師匠「乙前」となるようで、引用した歌との繋がりが示されています)、同時代の「新古今和歌集」のようなハイ・カルチャーではなくもっと下賎なサブ・カルチャーに属するものです。

下賎なサブカルですから、もちろん、「遊びをせんとや生まれけん ~」の歌には、二重の意味が含まれています。「無心に遊ぶ子どものように夢中で生きたい」という大河ドラマ的な模範解答から、「遊女として生まれたからには~」という遊女の憂愁を歌った唄とも解することまでもできるのです。後白河法皇はその意味をわかった上でこの唄を拾遺していると考えたほうが良いでしょう。

吉松隆も、まるで後白河法皇のように、ハイ・カルチャー(クラシック音楽)に属しつつ、サブ・カルチャー(反=現代音楽。TARKUS!)とのあわいに立っているようです。Contemporary Style(今様)な作曲家、とでも呼んでみたいところでしょうか。

では。

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見つけたぞ。何を?-えすとえむ「このたびは」、ジャン=クレ・マルタン「フェルメールとスピノザ」

【今日の言葉】

Elle est retrouvée.
Quoi? - L'Éternité.
C'est la mer allée
Avec le soleil.
(Arthur Rimbaud―L'Eternité)

もう一度探し出したぞ。
何を?永遠を。
それは、太陽と番った
海だ。
(アルチュール・ランボー「永遠」)

【読書日記】

こんばんは。ともです。
今日は最近読んだ印象に残った本をご紹介します。

■えすとえむ「このたびは」

数年前に、ふと手にした大学時代の教科書の後ろ扉に、ランボーの詩「永遠」が書き写してあるのを見つけて、嗚呼あのときはゴダール「気違いピエロ」を観てかぶれていたなあと懐かしいような、こっ恥ずかしいような気持ちになりました。おそらく期末試験の気休め、というよりも現実逃避にランボーの詩などを書き写していたに違いありません。その既視感をマンガで味わうことになろうとは思ってもみませんでした。

えすとえむの「このたびは」を手に取ったのは、当然、話題の「うどんの女」がよかったからです。この短編集はどれもいい話ですが、第三話「K」でランボーの詩の不意打ちをくらいます。死と詩。永遠と愛。若かりし日のランボーを読む男。夢の中の出会い。どれも、ぐっと心を鷲掴みです。「気違いピエロ」を髣髴とさせる海の場面。主人公ユミの名前は「優海」。優海がつぶやく「・・・・・・そんな・・・」は、「気違いピエロ」の主人公が、裏切り者のヒロインをピストルで撃った後、海岸に出て、自分の首に爆弾を巻きつけて火をつける、「こんなバカな死に方が・・・」というセリフと重なる場面です。すごい才能の作家ですね。

■ジャン=クレ・マルタン「フェルメールとスピノザ <永遠>の公式」

えすとえむの「このたびは」を読むすこし前から読み始めたのが、ジャン=クレ・マルタン「フェルメールとスピノザ <永遠>の公式」。フェルメールとスピノザがすれ違う17世紀オランダをスリリングに描き出す哲学的=絵画的エッセイです。

なぜ、フェルメールの描く女性は、永遠のまなざしを持ってわれわれを見つめるのか。
なぜ、フェルメールはいつも光るが差し込む部屋を描くのか。
なぜ、スピノザの永遠は、われわれに生きる力を与えるのか。

もしかしたら、この本を読んだ人には、その答えが見つかるかもしれません。

では。

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「『ローマ法案内』補遺」補遺

【今日の言葉】

めぐりあひて 見しやそれとも わかぬ間に
雲がくれにし 夜半の月かな
(紫式部)

【読書日記】

こんにちは。ともです。

「文學界」最新号に掲載されている朝吹真理子のエッセイがすばらしくて、タイムラインに沿って、眼にふれたもの、耳にきこえるもの、感じたことを淡々と描いているだけなのに、読み終えたときに、「ふわっ」と、思考の全体像が浮かび上がるこういう文章を「真似してみたい!」と思ったのですが、僕にはそんな文才はないので、今日は、引用のみで読書日記です。

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民主主義と悲劇は、ペリクレスとソポクレスのもと、アテネで結婚した
(ジャン・リュック・ゴダール「ゴダール・ソシアリスム」)

秒とは「セシウム133の原子の基底状態の二つの超微細準位の間の遷移に対応する放射の周期の91億9263万1770倍の継続時間である」
(朝吹真理子「Happy New Ears」)

いま現在、世界で最も精確とされ、世界標準時刻を刻むのに用いられているのは、セシウム原子時計。ところがこれは数千万年に1秒くらい狂う
(立花隆「四次元時計」)

原子炉が原子核分裂の過程において高エネルギーを放出する核燃料物質を燃料として使用する装置であり、その稼動により内部に多量の人体に有害な放射性物質を発生させるものであって、原子炉を設置しようとする者が原子炉の設置、運転につき所定の技術的能力を欠くとき、又は原子炉施設の安全性が確保されないときは、当該原子炉施設の従業員やその周辺住民等の生命、身体に重大な危害を及ぼし、周辺の環境を放射能によって汚染するなど、深刻な災害を引き起こすおそれがある
(最高裁判所判決 平成4年10月29日民集46巻7号1174頁)

葦原の 瑞穂の国は 神ながら 
言挙げせぬ国 しかれども 言挙げぞ我がする 
言幸く ま幸くいませと 障みなく 
幸くいまさば 荒磯波 ありても見むと 百重波 
千重波にしき 言挙げす我は 言挙げす我は
(万葉集 巻第十三 相聞)

お金は公共財産だ
(ゴダール・ソシアリスム)

マリス スタンフォードでは正確には何を学んでいたのですか?
レベッカ セミナーの指導です。信用創造と文学の創造について。
(ゴダール・ソシアリスム)

プレコミットメントは、自分の理性に限界のあることを承知している人間(団体)が、非理性的な行いをしないよう、予め自分の行動に枠をはめておくという工夫です。サイレンの歌声に魅惑されないよう自分の身体を船のマストに縛り上げさせて航海を続けたオデュッセウスの例がよく引かれます。政府が自分で通貨の発行量を操作できるようにすると、景気浮揚を目指して通貨発行量を増やし、インフレを招いてしまう危険があるので、金融政策については独立した中央銀行に権限を委ねることにするというのも、(中略)プレコミットメントの一つとして説明することができます
(長谷部恭男「憲法入門」)

ともかく、ナポリはいいとして、アルジェからバルセロナへの航路で、アレクサンドリア、ハイファ、オデッサに寄るの?(ゴダール・ソシアリスム)

子供は国民の一部。意思を持つのは大人と同じ
(ゴダール・ソシアリスム)

もしナシオン(nation)の意味を「国籍保持者の総体としての国民(全国民)」、プープル(peuple)の意味を「社会契約参加者(普通選挙権者)の総体としての国民(人民)」と解すれば、二つの主権原理(ナシオン主義とプープル主義)は、本文に説いた主権主体としての「全国民」と「有権者団」の区別に対応する
(芦部信喜「憲法」)

問題は、憲法上の権利が保障されるのは、自分の意思を自分で決められる個人だけかというものです。未成年の子どもは、こうした能力を充分には持っていないと考えられています
(長谷部恭男「憲法入門」)

法が正しくないときには、正義が法に優る
(ゴダール・ソシアリスム)

たしかに、第二次世界大戦時におけるファシズムの苦い経験を経て、戦後、抵抗権思想が復活し、それを再び人権宣言の中に規定する憲法も現れるようになったが、それは本来の抵抗権をすべてカバーするものではない。抵抗権の本質は、それが非合法的であるところにあり、制度化にはなじまないと解される
(芦部信喜「憲法」)

民主主義と悲劇は、ペリクレスとソポクレスのもと、アテネで結婚した
(ゴダール・ソシアリスム)

アンティゴネ 妹イスメーネー、オイディプスの一族から出た双子の子孫よ
(ゴダール・ソシアリスム)

ゴダール ソポクレスがいなければペリクレスもいなかった
(ジャン=リュック・ゴダール インタビュー)

少なくとも6世紀末にはAthenaiにおいて悲劇は厳密な意味における政治制度の一翼として確立される。(中略)もちろん上演自体が完璧に公共的な性質の事柄である。それは等しく皆の事柄である。したがって完全に共和制財政原理に則って実現される。公共的な性質を一層際立たせるのは必ずコンクールの形式において上演されるということである。複数のパラディクマ再実現化が公開で競うagonという形態は多元性と対抗的要素、およびその年に一つという一義性(皆のもの)、の両方を保障する
(木庭顕「デモクラシーの古典的基礎」)

Sophoklesは442年の”Antigone”においてデモクラシーを根本から支える屈折体に完成された形態を与えるに至る。(中略)専制と自由、政治的決定と神々の正義、実定法と自然法、ポリスと家・親族、といった図式によって簡単に作品を説明できるという錯覚を与えるに十分である
(木庭顕「デモクラシーの古典的基礎」)

君のその解釈は余り見込みがない。何故ならば、君はその先の部分を引き忘れてはいないか。corpus を持ちうるとしても、「まさに政治システムの範型にならってその限りで共同のものを持ちうるにとどまる」(proprium est exemplm rei publicae habere res communes)、とあるのを君は忘れたか。そう、組合自体「政治システムの範型」(exemplm rei publicae)に従っているではないか。corpusを与えるならば、それはもっと危険なことであるから、それを中和するためには「政治システムの範型」はもっと厳密に適用されなければならないだろう。構成員が自由に討議して「手足」を動かしコントロールするのでなければならないだろう。そのことを保障するための様々な機関が置かれなければならないだろう。さて、彼等の組合において「政治システムの範型」は厳密に適用されているだろうか。
(木庭顕「現代日本法へのカタバシス」11『請負・法人』)

企業統治にも、民主主義のシステムと同じように、チェック&バランスの機能が不可欠だ
(マイケル・ウッドフォード「オリンパス外国人元社長の告白」)

これが一面で日本の近代化に固有の「突貫工事」の苦しさである
(木庭顕「夏目漱石『それから』が投げかけ続ける問題」)

では。

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