文化・芸術

諸文化の大がかりな連帯に向けて ― 木庭顕『憲法9条へのカタバシス』

【今日の言葉】

わたしたちはいつか最愛の子どもに会いに行く。
(松浦理英子『最愛の子ども』)

【読書日記】

こんばんは。ともです。
今日は、木庭顕『憲法9条へのカタバシス』の雑感をいくつか。

■憲法9条解釈の諸前提

木庭顕『憲法9条へのカタバシス』は、主論文『日本国憲法9条2項前段に関するロマニストの小さな問題提起』を中心に、著者の政治システム論と憲法論をまとめた単行本です。同時期に発売された『法律時報』2018年5月号『憲法の土壌を培養する』における蟻川恒正・樋口陽一との鼎談と併せて読むと、きわめて明快に著者の考える憲法9条論、ひいては、憲法論、政治システム論、社会文化論が理解できると思われます。

かなり乱暴に要約すれば、憲法9条を解釈するためには、諸前提がある。ということになります。文芸・文学による深い人間理解・社会理解を背景に、政治システムを構築し、近代立憲主義を創設し、憲法9条にまで至った、社会的・文化的諸思想・諸動向の意義を、「共時的かつ通時的」に理解する必要性のあることが、本書を読めば、痛いほど切実に感じ取れるはずです。

というわけで、本書は、今後、政治・憲法を論じる際における必読の書となることは間違いありませんので、みなさま早く読みましょうね。

■知の共和国に向けて

とはいえ、誰もが簡単に本書を読めるわけではありません。本書は入門書ではないのです。一見、初学者でもとっつき易そうにみえる『法学再入門:秘密の扉 ぜんべえドンとオハナぼう、番外篇』も、極めてレベルの高いローマ法概念をめぐる議論が展開されています。

特に『国家学会雑誌』が初出である『Hobbes,De civeにおけるmetus概念』はある程度の歴史的・哲学思想的素養がないと理解は困難ですし、刑事法と民事法にある程度通じていないと何を言わんとしているのか、正確な理解は困難です。取り敢えず、人文科学系の知的素養を基に本書を読もうとされる方には、適当な法律学辞典を片手にお読みになることをおすすおおめします(特に表象文化論の方は!)。その先には、(「リアリスト」と呼ばれる全然リアルな認識を持ちえていない国際政治学者等の)卑俗な通説を鮮やかに覆す新鮮なHobbes像がたちあがってくるはずです。

このように、木庭顕の著作には、まるで中谷彰宏が自己啓発本で言い訳をする場合のように、「意識の高いきみたち」に向けてレベルを落とさずに語る、という悪い癖があります。なので、しばしば意識が高いと自己認識する読者のせっかくの意欲を挫くことにもつながるようですが、私は、スルメだと思って、何度も何度も時間をかけて噛み砕くように心掛けています。そのうちに味が出てきますよ。

■漱石論・鴎外論

なぜ憲法9条を論じる本書に、漱石論と鴎外論が入っているかについては、本書『序―日本国憲法9条の政治的弁証に向けて』が詳しいです。

すなわち、「私(註:著者)が苦痛に感ずるもの(註:権力と利益をめぐる集団)を体系的に解体する営みが政治であり、これは文学によって基礎づけられた」(本書2頁)からに他なりません。

その漱石論で、私が注目するのは、本書123頁の註66)における蓮實重彦への言及です。この註は初出『現代日本法へのカタバシス』においてはなく、本書の改定によって初めて言及されたものです。おそらく著者による蓮實重彦への言及自体、これが初めてではないでしょうか。

ここで著者は、ダヌンチオの赤と青に関し、蓮實重彦『夏目漱石論』が「よくpolalityを捉える」と評価しつつも、「そのpolalityを作者がどう使って何を言おうとしているのかは関心外であるようだ」とさりげなく批判しています。いわゆる註でバッサリ切る、というやつです。深読みすれば、著者による表象文化論批判とも読めなくはありません。「どう使って何を言おうとしているのかは」、文学と政治の連帯にとって極めて重要であり、それを「関心外」とは何事か、と。

しばらく前の私であれば、「そうだ、そうだ」と著者に同調していたかもしれません。しかしながら、蓮實重彦自身が、表象文化論という言葉について「この言葉が示す意味内容などどこにも存在しない。存在しないからこそ面白いんじゃないでしょうか?(笑)」(ユリイカ『総特集 蓮實重彦』35頁)と明言している以上、私は「関心外」であることに積極的な意味をこそ見出すべきではないか、と思うのです。

私は、この蓮實重彦のいう「どこにも存在しない」表象文化論とは、「誰のものでもない」公共空間を市民社会の側に築くという、蓮實重彦の倒錯した戦略性を持った「市民社会論」なのではないか、と思われるのです。

このとき、著者の鴎外論におけるフランスのCritiqueの伝統と蓮實重彦の表象文化論が交錯するのではないか。と私は考えます。

蓮實重彦が「憲法など、改憲されようが九条が残されようが、それをことさら意識することなく、「好きなこと」をやるつもりである」(『これからどうする』蓮實重彦「「好きなこと」の大がかりな連帯に向けて」36頁)と高らかに宣言するとき、著者のいう「知的階層」との距離は、それほど遠くないように思われます。

では。

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全公法私法の泉fons omnis publici privatique iuris ― 木庭顕『新版 ローマ法案内』

【今日の言葉】

市民法における定義は総て危険である。
omnis definitio in iure civili periculosa est.
(原田慶吉『ローマ法』)

創造的であるためには、ローマの人々が何を問題としたのかというところに立ち返って考え直す以外にない。
(木庭顕『新版 ローマ法案内』)

【読書日記】

こんばんは。ともです。
今日は、木庭顕『新版 ローマ法案内』を読んだ若干の感想です。

尚、近時木庭先生の著書を使って遊んで参りましたページ単価の数量分析は、個人の楽しみとしては当然行ってみましたが、ここでは行いません。皆さま方でお楽しみください。

■改定方針

このブログをお読みの方ならば周知の通り、『新版 ローマ法案内』(以下、新版)は、2010年12月に初版が出された『ローマ法案内』(以下、旧版)のヴァージョンアップです。『ローマ法案内2.0』などと呼べば、表象文化論的には通りがいいのかもしれませんが、政治学的・法学的センスと知的水準を問われかねませんので、ここでは敢えて、政治・法を学ぶ者の矜持にかけて新版・旧版と呼んでおきます。

まずは新版と旧版の目次を比較すると、その改定方針の意図が透けて見えるはずですが、意外なことに章だては新旧ほぼ同一であり、唯一、旧版の6章(「ローマ法」伝播に関する簡単な注記)が削除され、新版では「補遺」の章に置き換わっています。ここでは、旧版の基本的構造は変更する必要がないという意思が示されているのです。

それもそのはずで、これまた周知の通り「本書はPOSS(筆者注『法存立の歴史的基盤』)の要約版という性格」(新版2頁)を持つことから、十分な分析・検討・研究を経て叙述された『法存立の歴史的基盤』の成果の骨子は変わらない、ということを示しています。

では何が変わったのか。

旧版と比較してかなり縮約された新版「はしがき」にその改定方針が記載されています。
すなわち「叙述を多少簡潔にするというもの」で「あった」と当初の意図が示された後に、逆接の接続詞「しかし」が続き、「結果」的に「基幹の部分の説明」を「全面的に入れ替え」したと吐露されているのです。

この「しかし」と「結果」という二つの単語に込められた、著者と編集者の想像を絶する「割の合わない」苦労を第三者が想像してみても始まらないので、以下、「基幹の部分」の新版の叙述を読んでみた若干の感想を記載します。

■感想その1~「政治」の定義がはっきりわかる!

新版のいちばんの目玉が、「政治」の定義が明快に示されているところではないかと思います。「第1章 歴史的前提」の「1-1 政治」は極めてクリアな説明で、しかも「自由」が社会の「指導的原理」と爽快に断言しています。言われてみれば、当たり前のことなのですが、私自身が「当然の前提は記載しない」「定義は記載しない」という悪しき民事法的思考に染まってしまったのか、新鮮な叙述に写ります。

この裏返しとして、「政治」の対抗的社会原理である「枝分節segmentation」についても明快な定義がなされています。当然のごとくマルセル・モース『贈与論』(新版9頁,註9)にも言及がありますが、ここまで丁寧な叙述がされていれば、「モースもローマ法を援用しているが違いが判らん」などという声はおそらく出てこないのではないかと思われます。

■感想その2~「ウェルギニア伝承」が解説されている!

新旧の比較において索引を比較するのも大変興味深いのですが、目を引くのは、旧版においては一切触れられることのなかった「ウェルギニア伝承Verginia exemplum」が新版には堂々と記載され(新版217頁)、本文においては、約8ページにわたりその内容と意義、占有原理の解説がなされていることです(新版「第2章民事法の原点」「2-3 占有」47頁以下)。

既に、木庭顕『法学再入門 秘密の扉―民事法篇』の読者であれば、「ぜんべいとオハナ」のお話がウェルギニア伝承のパロディであることにお気づきでしょうが、内容とその意義をこれだけ簡潔に記載したところに新版の意義があります。なぜなら、民事法の原点である「占有」概念の「設立先例exemplum iuridicum」がウェルギニア伝承そのものだからです。

歴史学徒ではない私などは、exemplum iuridicumを”判例”などと安易に言い換えてしまいたくなる欲望を抑えきれなくなるのですが、そこは学問的な厳格性を尊ぶ木庭先生のことですから、「本書では以上のような(筆者注:徹底したヴァリアントの偏差の分析)作業を一切省略してよくできた占有概念設立先例があるがごとくに叙述する」(新版49頁,註11)と注意書きすることを忘れません。

その意味で、『法存立の歴史的基盤』ひいては『秘密の扉』『民法の基礎』『公法の基礎』を読むうえで、まさに「案内」となる叙述に徹しているものと評価されます。特に、新版55頁「図1 占有/民事訴訟」の図解は極めて明快です。

■感想その3~bona fidesと所有権の社会構造がわかる!

図1以外にも新版では図表があと2つでてきます。「図2 bona fides」(新版95頁)と「図3 所有権(dominium)の躯体」(新版132頁)です。それぞれ直感的に各々の社会構造段階の違いが理解できるように大変よく工夫されています。

特に所有権の社会構造の図解が有益で、木庭先生の日本国憲法9条2項論を理解するためには、非常に有益な図解になっています。

■最後に

この後も、中高生を対象にした木庭先生の講義録が出版されるようですので、まだまだ楽しみなのですが、そういえば『政治の成立』にはドゥルーズの『差異と反復』への言及があり、最新の国家学会雑誌論考には「反復」の語もみられますので、どこかで木庭先生のドゥルーズ論を読んでみたいなあと思っています。興味を持たれた編集者の皆さまは是非ともご検討をよろしくお願いします。

あ、最後に。新版はコスパが圧倒的でお買い得ですよ。

では。

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小説という真赤な嘘を嘘として築くために、蓮實重彦「伯爵夫人」は本当以上のもっともらしさで小説と戯れてみせるのだ

【今日の言葉】

だが、もしそれが事態の正しい解釈だとするなら......
(蓮實重彦「陥没地帯」)

【読書日記】

こんにちは。ともです。
今日は文芸誌「新潮」2016年4月号に掲載された―蓮實重彦の「オペラ・オペラシオネル」以来―22年ぶりの新作小説「伯爵夫人」を読みます。
内容にわたる記述を含みます。未読の方はご注意ください。

■あらゆる時代を通じて徹底した希薄な輪郭しか享受しえなかったこの不幸な記号

蓮實重彦はこれまでに2作の小説を発表しています。1作目の「陥没地帯」は、「エピステーメー」1979年7月臨時増刊・終刊号に掲載され、1986年3月に哲学書房から刊行、1995年2月には河出書房新社から文庫本として再刊されています。その小説が与えた影響と非影響については文庫版の武藤康史「解説」に詳しいのでここでは繰り返しません。

2作目の「オペラ・オペラシオネル」は、「文藝」1994年夏季号に掲載され、1994年12月に河出書房新社から単行本が刊行されています。残念ながら、どなたかが書評をしたものを紙の刊行物では見たことがありませんし、国立国会図書館サーチで検索してみてもそれらしきものは見当たりません。

ということは、1979年にデビューした新人小説家たる蓮實重彦は、なんとゆうに30年を超える小説家としてのキャリアのなかで、これまでたった2作しか小説を発表せず世評をもほとんど得ていない「知られざる作家」ということになります。何と贅沢な小説家なのでしょうか。東大総長まで務めて世間的にはその名の通った小説家がこれまでたったの2作しか小説を発表しないということが、この21世紀の日本で許されるものなのでしょうか。

と、思って今回「新潮」に発表された新作小説を読むまでは「既に蓮實重彦は小説家を廃業したのだ」と私はすっかり誤解していました。その誤解を一瞬で吹き飛ばすほど、蓮實重彦の新作小説「伯爵夫人」は狂暴な言葉の運動を見せていたのでした。

■実際、映画が何であり文学が何であるかを知るものなど、誰もいはしない。

蓮實重彦「伯爵夫人」を通俗的に要約してしまえば、1941年12月8日の午後から夕方まで、帝国ホテルの一角で、旧制高校に通う華族の嫡男・二朗と、伯爵夫人と呼ばれる中年女が過ごす、現在と回想の入り混じった「語り」が中心となる官能小説。といったところでしょうか。付け加えれば、至る所に戦前に公開された映画からの引用がなされ、時代背景を示唆する文学的な記号がちりばめられ物語を彩るとともに、スパイ映画の要素もふんだんに盛り込まれ、戦争映画のような場面も登場する一大活劇のような小説、とでも言っておけばひとまず安心できる文脈に収まるかもしれません。

とはいえ、そんな通俗的な要約がこのテクストの前では全く歯が立たないことは明白です。

「1941年12月8日」とひとまずは要約してみたものの、テクストに出てくる「帝國・米英に宣戦を布告す」からの推測であり、「帝國・米英に宣戦を布告す」というタイトルが新聞の一面に載ったのは朝日新聞の1941年12月9日の夕刊で二朗が目をやった夕刊とも符合するのですが、「伯爵夫人」のテクストには「1941年」とも「12月」とも「8日」とも一言も出てこない。テクスト外の事情によって、われわれはそう読んでいるのに過ぎないのです。

「ボヴァリー夫人」に「エンマ・ボヴァリー」という記載はないと断言し、テクストにテクスト外のものを読む者を断罪する蓮實重彦ですから、これはうっかり「戦前の日本が舞台となった」などと口にしてはいけないのです。なぜなら、「1941年12月8日」とはテクストのどこにも記載されておらず、それはテクスト外のものを読む行為だからにほかならず、仮にテクストの現在が「1941年12月8日」であったとしても、なおその日に「真珠湾攻撃」は既に行われており、とても「戦前」と呼ぶことはできないからです。

■誰が、どこから語っているか

映画的な記憶を呼び起こす記号の群れがこの小説にはいくつも出てくるのですが、伯爵夫人の名前の由来である「素顔の伯爵」とは、マンキーウィッツ監督「素足の伯爵夫人」へのオマージュでしょう。

マンキーウィッツ監督「素足の伯爵夫人」では、「ジプシー女でかつての裸足のダンサーは伯爵夫人となるのだが、夫は戦傷による性的不能であり、不貞に走り夫の銃弾に倒れる」という物語が語られます。片や蓮實重彦の「伯爵夫人」は、日本人女でかつての高級娼婦は、結婚していたわけではない「素顔の伯爵」と晩年の数年間を過ごし、周囲から「伯爵夫人」と呼ばれるようになり、戦傷による性的不能となった男のからだを心から愛した、という物語が語られます。結婚と未婚、ジプシー女と高級娼婦、愛情と嫉妬という対立軸を作りながら、性的不能の男をめぐってのヴァリアントを作るこの物語は、「素足の伯爵夫人」をオリジナルとしながら、そのパロディとして「素顔の伯爵」夫人という物語を語っているかのように思われます。

「それにしても、目の前の現実がこうまでぬかりなく活動写真の絵空事を模倣してしまってよいものだろうか。」

しかしながら、仮に「伯爵夫人」の小説的現在が「1941年12月8日」だとしたら、1954年に公開された「素足の伯爵夫人」がオリジナルであろうはずもないのです。では、「素足の伯爵夫人」が逆に「伯爵夫人」の物語をオリジナルとなるのか、といえば事態はそんなに単純ではないと思われるのが正しいでしょう。なぜなら、蓮實重彦「伯爵夫人」は2016年の日本で発表されたフィクションだからです。

また同じことが「男性の好きなスポーツ」(ハワード・ホークス監督 1964年)についても言えるでしょう。

■帝国の陰謀

このようなテクストのオリジナルとヴァリアントの複雑な関係、いいかえればテクストとその上演としての現実の「事態の逆転」を近代の「反復」として描いているテクストがこの小説の著者によって既に書かれています。

それが蓮實重彦「帝国の陰謀」です。

フランス第二帝政期に内務大臣、立法院議長として活躍したド・モルニーの、ナポレオン三世のクーデターに際して出されたテクストと、彼が草した喜歌劇のテクストを分析する蓮實重彦は、「まだ上演されてさえいない作品を、それが描かれるよりも正確に十年前にあらかじめ実演」してしまうような事態が近代以降成立していることを手品のようなあっけなさで描き出しています。

ド・モルニーが「私生児」として生まれ、生涯他人の名前でしか署名していないこと、始原としてのオリジナルな署名を欠いたテクストという主題に加え、第二帝政期の爛熟した文化、ドゥミ・モンドと呼ばれる高級娼婦や情婦という乱れた性風俗にも触れる蓮實重彦は、どこか「伯爵夫人」の世界をその二十五年前に既に描いていたかのようです。

■反復

「反復」としては、この小説は、いくつもの細部の反復が繰り返されていきます。

「ばふり」という擬態語、白目をむく気絶、ルイーズ・ブルックスまがいの短い髪型、修道女のモチーフ、戦場の光景......。

これらの反復は、何がオリジナルで何がヴァリアントなのかを問うことを無効にして、結局はすべてがフィクション、本当以上にもっともらしい「嘘」なのだ、とでも突き放しているかのようです。

最後に、この小説を現時点で的確に批評していると思われる文章を引用して終わりにしたいと思います。

「いわばステロタイプの饗宴である。風景は絵葉書のように薄っぺらだし、人物は心理を剥奪された機械人形のようにぎこちない。女たちはいずれも典型的な娼婦のイメージにおさまり、男たちもまた、性的偏執者の類型そのものだ。想像力は豊かに飛翔するというより、むしろ涸渇し、物語は無理に辻褄を合わせようとする者の言訳のように矛盾と反復に充ち、自分から罠に落ちて、訊ねられたわけでもない秘密を漏らしてしまう。だからその物語は、隠されていたものが徐々に露呈されてゆくのではなく、はじめから露呈されていたものが、そのあからさまな露呈ぶりを重層化してゆく過程をたどることになるだろう。この重層化の過程が、決してひとつの真実の意味にはたどりつくことのないイメージの多声的戯れへと見るものを導きいれ、表面という名の奥行を欠いた迷路の中の、距離と深さを奪われた表層的な彷徨へと駆り立てる。」

(蓮實重彦「映画作家としてのロブ=グリエ」 『シネマの記憶装置』(1979年)収録)

では。

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わたしたちはゆっくりと世界を計算しなおす-川上未映子「苺ジャムから苺をひけば」

【今日の言葉】

良心ということに関しては、この一般原則を守らなければなりません。つまり、確実な善と不確かな悪とがある場合、その不確かな悪を恐れて、善を逃してはいけません。
(マキャヴェッリ「マンドラーゴラ」)

【読書日記】

こんにちは。ともです。
今日は、『新潮』2015年9月号に掲載された川上未映子の最新小説「苺ジャムから苺をひけば」を読みます。ネタばれを含んでいますので未読の方はご注意ください。

■数をかぞえること

「わたしは、後悔している。」という一文から始まるこの小説は、一人称の語り手「わたし」が独白するなかで「後悔」という言葉が、最初の三段落の中に四回もでてきます。しかし、最初の三段落の中で「わたし」は後悔だけしているか、というと、そうではありません。「すぎた時間」を「二時間まえ」と数えているのです。しかも一度ならず二度も最初の三段落の中で「二時間まえ」と数えています。

かつて川上未映子の小説を読んだ際、語り手は積極的に「数をかぞえる」ことをしていると読んでみました。
(『かぞえること、計算させること、名指さぬこと―川上未映子「ヘヴン」』http://tomonodokusho.cocolog-nifty.com/blog/2009/07/post-cb7e.html、『かたちなきもの-川上未映子「すべて真夜中の恋人たち」』http://tomonodokusho.cocolog-nifty.com/blog/2011/10/post-18c4.html

ここでも、語り手は「数をかぞえる」ことで、小説を物語っているのです。

二時間、三年、無数、五時間、一部、いっぱい、ぜんぶ、いちばん、毎日、半年、二学期、六年間、三人、一年生、三学期、二億人、十万本、一本、十個、百万人、百個、一千万人、十倍、一億人、二〇〇九年、二〇一〇年、二月、二〇〇八年、十分、二年、二〇〇三年、四月、九日、一女、一度、二百年間、数時間、四時二十分、二階、一時間、3本、ひとつずつ、四歳、半分、2回め、一歩、一秒、九月、十月、数日、一度、一杯、数ヶ月、一生、1.5 ...

ざっと目に付いたものだけでも、これほど数がかぞえられています。かりに、「川上未映子的主体」というものが存在するとしたら、その主体は何よりも「数をかぞえる」ことをする主体なのです。

■計算させること

この川上未映子的主体は、ただ数をかぞえるだけではありません。ちょっと意地悪なのです。語り手は、数をかぞえながら、「読者」に「計算をさせる」のです。みてみましょう。

「今が小学校最後の日々」(8頁)である「わたし」は、現在小学六年生になります。そして「あと半年で卒業する」(9頁)ことからこの小説の現在が、9月か10月であろうことを読者に計算させます。

後に素っ気なく正解を示すところも意地悪です。「そんなふうに暑い九月が終わって」(28頁)と19頁もあとになって地の文に紛れて語り手は正解を発表します。

また、この語り手はなかなかのやり手で、読者に「この小説なのかの現在の年号」まで計算させます。

「わたしたちが一年生のとき」には「日本のうえのほうですごく大きな地震が起きた」(10頁)として2011年3月の東日本大震災のときに「わたし」が小学1年生であったことを示唆しています。で「今」が小学六年生の九月であるとすると、この小説的現在は2015年であることがわかります。

本当にこの語り手が意地悪だと思うのは、10頁において10万の10倍、100倍、1000倍の計算をしておきながら、11頁において「六年前というのはいったい何年なのだ?二〇〇九年?二〇一〇年?」とわざと読者に計算をさせるように仕向けていることです。

しかも、そのあと、2008年2月と5月のウィキペディアに載っている世界の出来事を記述したうえで、六年前があたかも2008年で、東日本大震災と思っていた出来事は、実はフィクション世界の時間軸の中の話なのか、と小説的現在時間を一旦納得しかけていた読者を混乱に陥れるのです。

これについては、またまた素っ気なく「六年間とはとりあえず関係のない二〇〇八年の出来事を一所懸命に読んでいた」(11頁)と正解が発表されることになるのですが(さらに14頁で「わたし」の生年月日が2003年4月9日と判明します)、本当にこの語り手は意地悪だ、と思わされることになります。

■苺ジャムから苺をひけば

ここで、小説のタイトル「苺ジャムから苺をひけば」という意味が問われることになります。

苺=A、ジャム=Xと記号化すれば、

(A+X)-A=X

という計算問題を読者に解かせているかのようなタイトルと解することが出来ます。

しかし、これまで見てきたとおり、一筋縄ではいかない意地悪な川上未映子的主体が、そんな簡単な計算問題を読者に解かせようとしているとは思えません。

では、このタイトルは何を示しているのか。

この小説で「苺ジャム」の出てくる箇所をみてみましょう。

■苺ジャム

「この苺ジャムは、もともとお母さんが作っていたものだ」(18頁)「その苺ジャムはほんとうにおいしい」(19頁)と、「苺ジャム」は「わたし」の亡き母の味を示す重要な記号であることがわかります。

小説後半の母への手紙の中でも「それから苺ジャムもつくっています。すごく、おいしいね」(81頁)と「おいしい」と「わたし」は繰り返し表明しています。

とすると、「苺ジャム」とは亡き母との繋がり、すなわち「わたし」にとって「かけがえのないもの」を示していることになります。「苺」が、「いちご」や「イチゴ」ではなく、漢字が使われている理由は、おそらく「母」が含まれているからだろうと思われます。これは語り手の周到な計算によるものでしょう。

つまり「苺ジャムから苺をひけば」というタイトルは、「苺」すなわち「侵してはいけない価値」を示しているものなのだろうと思われます。単純に足したり引いたりしてはいけないもの。

このように「数をかぞえる」主体は、読者に「計算をさせる」ことを行いながら、「計算してはいけないもの」、すなわちアプリオリな価値の存在を提示しています。

そして、アプリオリな価値とは何か、この小説には多くのものが詰めされているように思われます。
また、今までアプリオリな価値と疑わなかったことについて、「わたし」は友とともに冒険することで、世界の真実に新たに触れることになります。そこから新しくゆっくりとわたしたちは世界を計算しなおすことになるでしょう。

では。

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固有名詞がいっぱい-綿矢りさ「ウォーク・イン・クローゼット」

【今日の言葉】

唇をつけた。オレンジ色の冷たいアイスが彼の唇の熱で溶けてゆく。
(綿矢りさ「ウォーク・イン・クローゼット」)

【読書日記】

こんにちは。ともです。
今日は、群像2015年8月号に掲載された綿矢りさの新作「ウォーク・イン・クローゼット」を読みます。
内容にわたる記載をしますので、未だ読んでいない方はご留意ください。

■綿矢りさの小説の規則

いくつかの綿矢りさの小説を読んできて、この作家は、自分で設定した小説の規則を愚直に守っているように思われます。その規則とは、

①「書き出し」は、最大限の注意を払い、そこに小説の主題を提示する。
②「人称」の選択に注意を払い、「固有名詞」と併せて、効果的に使用する。
③「固有名詞」が露呈するときには、何か重大な事件が起こるか、重大なことが判明する。

というものです。

綿矢りさの新作「ウォーク・イン・クローゼット」においてもこの規則は有効に機能しているというのが、私の読み方の仮説となります。まずは、「書き出し」からこの小説の主題を探ってみましょう。

■書き出し=小説の主題

綿矢りさは、「書き出し」に非常に注意を払って小説を書いています。本人のインタビューでもそのような趣旨の発言をしていますし、いくつか私が読んだ小説の中でも、書き出しにその小説の主題がもれなく提示されていました。というわけで、書き出しを読んで、この小説の主題をみてみましょう。

「時間は有限だ。でも素敵な服は無限にある。年齢に合わせて似合う服は変わる」

というのが、この小説の主題となろうと想定されます。綿矢りさは、小説の冒頭部分に形而上学的なモノローグを挿入するケースが多いのですが、注意しなければならないのは、一般命題を提示しているかのようにみえる文章も、よく見ると、なにやら哲学的含意があるわけではないということです。

まず「時間は有限だ」という命題についてみましょう。

時間の本質は何か、という探求は非常にさまざまな答えがあろうかと思います。哲学的な思索もあるでしょうし、物理学的な回答もあろうと思います。が、ここではそんなことは問われていません。

「時間は有限だ」という命題には、この小説の制約が存在するのです。規則②の「人称選択」からそれは明らかになるのですが、この小説では第二段落から登場する「私」という一人称が語り手として選択されているのです。ということは、「時間は有限だ」という命題には、「私にとって」という明示されてはいないものの、第一段落に遡ってそう補って読まれるべき制約があるということです。

続いて「素敵な服は無限にある」という命題を見てみましょう。客観的に考えれば、地球上の物質は有限であることから、地球上に存在する服も(数えられる人は存在しないにせよ)有限であることがわかります。が、ここで綿矢りさはそんなことを言っているのではないことは明らかです。この小説の「私にとっては」、「素敵な服は無限にある」という主観的な独白がここでは提示されているのです。

同じように「年齢に合わせて似合う服は変わる」というのも客観的な真実が開示されているわけではありません。あくまでこの小説の「私にとっては」、「年齢に合わせて似合う服は変わる」という主観的な見方が提示されているのです。

そんなことあたりまえではないか、という声が聞こえてきそうですが、そのことが後々、この小説に関する重要な解釈につながっていくので、ここはもうしばらくお付き合いいただきたいと思います。

■固有名詞の氾濫

次に規則②の「固有名詞の効果的使用」についてみてみましょう。

綿矢りさのある程度の読者であれば、この小説はいままでと何かが違うな、と読んで感じたはずです。これまで私が読んできた綿矢りさの小説では、そもそも主人公に固有名詞が与えられていなかったり、敢えて場所の固有名詞を明示しなかったり、という固有名詞を極力忌避する姿勢が見られました。だからかえって固有名詞が出てくるときには注意を要したのです。それが規則③の「固有名詞」が露呈するときには、何か重大な事件が起こるか、重大なことが判明する。につながっていました。

ところがこの小説には固有名詞があふれかえっているのです。

場所を示す固有名詞はこれまでになくバラエティ豊かです。

外国ではイギリス、タイ、チベット、カンボジア、インド、フランス、フィンランドなどが出てきます。国内でも新宿、原宿、みなとみらい、渋谷、麻布十番、六本木、代官山、湯河原、伊勢などが出てきますが、物語は主に小説には単語として出てこない「東京」において進行していることがわかります。

ブランド名や商品、商号なども固有名詞で語られるのが非常に新鮮です。

アクエリアス、チケットぴあ、ミッキーマウス、リカちゃん人形、バービー、JR、ヤマト運輸、佐川急便、ラデュレ、トミーヒルフィガー、グランドハイアットという固有名詞が綿矢りさの小説に出てくることは新鮮な驚きです。

とはいえ、これらの固有名詞は田中康夫の小説に出てくる固有名詞とは違って、特段にトレンドを追い求めたエッジの効いたものではありません。敢えて言えば、田舎から出てきて都会で暮らし始めた人が、「ああ、東京にはこういうものもあるよね」と目につく程度の固有名詞とでもいったらよいでしょうか。

また、これらの固有名詞にいちいち反応して、小説内で「何か事件や重大なこと」が起こっているわけではありません。その意味で、この小説「ウォーク・イン・クローゼット」では「固有名詞のインフレーション」が起きており、一つ一つの固有名詞の価値は下げられていることになります。

じゃあ、規則③はどうなるのか、というと、「人称と固有名詞」の関係にここでは注目すべきなのです。

■人称と固有名詞

この小説のヒロイン「私」の固有名詞が判明するのは、小説が若干進行した4頁目、「ユーヤ」との会話の中です。

お互いを「早希」「ユーヤ」と呼び捨てにする二人の関係は、「私がだいぶ前に告白して一度ふられてから、ずっと友達関係」というものです。後で、「もう恋愛対象じゃなくて完全に友達」「私だって年を経て異性と友だちの関係を築けるくらいのスキルは学んだ」とも語られますが、「ユーヤ」が「運命の男性」であろうことはヒロインの固有名詞が判明する場面からして明らかです。

この「私」の名前が判明する場面は、最後の一文に「胸の高鳴り」という言葉が出てくることへの伏線となっているのです。ヒロインの「完全に友達」という言葉よりも、「固有名詞の判明」という小説的事実の方が、物語に忠実だということがわかるのではないでしょうか。

とはいえ、そんなことはこの小説にとってはどうでもいい、重要なことではないと言わんばかりに二人の会話の場面には固有名詞が溢れています。何が起きているかというと、更にもう一つ固有名詞に関して、より重要なことがここでは起こっているのです。

それは、人物の固有名詞、すなわち名前を追っていくことによって判明します。

不思議なことに、ヒロインである「私」には苗字がないのです。同じくヒロインの運命の人である「ユーヤ」にも苗字がないのです。ここでサスペンスが生じることになります。この小説で苗字を持っているのは誰か。

その人こそ、この小説で重大な事件を発生させ、重大なことを明らかにしてくれる犯人であるはずなのです。

■犯人は誰か

あっさりと答えを言ってしまえば、「末次だりあ」と「吉田朝陽」という二人だけが苗字を持っているのです。そして「末次だりあ」は、芸名ではなく本名であることが「私」との幼少時の出会いの場面から明らかにされています。このさりげないような名前の配置の仕方が、綿矢りさの言葉の配置の周到な計算によるものであることは明らかです。

では、「末次だりあ」にどんな事件が起こったか。

苗字を持っている末次だりあは、苗字を持っていない「私」に対して次の告白をします。

「私、妊娠してるんだ。事務所には内緒にしてる」

この一言で、この小説の本当の主人公は、「私」=「早希」ではなく、「私」=「末次だりあ」だと宣言しているのです。苗字の無いキャラクターが主人公だなんて笑わせないで、苗字を持っている「私」=「末次だりあ」が近代的主体としての「私・小説」の主人公として正統なのよ。異性と友だちの関係を築けるくらいのスキル?だなんてお子様じゃないんだから。女は男と恋愛して子どもを生むものよ。とこの一言は、高らかに宣言しているかのようです。

すでに気づいている人もいらっしゃるかもしれませんが、もう一人の苗字をもったキャラクター「吉田朝陽」が「末次だりあ」の「相手の男の人」なのです。そう思って是非ginbackのライブ前後の場面を読み返してみて下さい。末次だりあは、相手の男を「朝陽」と呼び捨てにしているのに対して、吉田朝暘は「だりあさん」とさん付けで呼びながら直後に「あなた」と、距離感が近いのか遠いのかわからない呼び方をして、「おれのライブに来るなんて意外」という科白をはいているのです。捨てた女との突然の面会に狼狽している男の場面、とみるとなにやら納得がいくものです。

「出会った女の子みんな口説く」「ファン食い」とは、末次だりあの直接的な経験を語っているものなのです。だから次には吉田朝陽を「あいつ」呼ばわりまでするのです。

ここでこの小説の主題であった「私にとっては」「年齢に合わせて似合う服は変わる」。にいう「服」とは「マタニティ」であったことが判明するのです。

■蛇足

以上に見てきたとおり、やっぱり綿矢りさは3つの規則に忠実に小説を作っているようです。

で、ここから先は勝手な想像です。前回、結婚して新居に引っ越す女性を描いた小説「履歴の無い女」を発表した後、綿矢りさは結婚を発表しました。ここは、前回私は「結婚の小説を書いたからって、結婚するとか、それは無いだろう」と読みたがえてしまいました。今回も知りませんが、綿矢りさの妊娠発表が近々あると面白いでしょうね。何故なら、この小説にはもう一人「綿矢りさ」という苗字をもった固有名詞の署名があるのですから。

では。

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ゴダールのオデュッセイア―ゴダール「さらば、愛の言葉よ」

【今日の言葉】

スペクタクルと統治の仕方の間には関係があるんだ。
(ゴダール インタビュー「シネマ、それは現実を忘れること」)

【読書日記】

きょうは、ゴダールの新作「さらば、愛の言葉よ」を観てきた感想を少し。

■シンプルな感想

まず、前評判の3D左右別向き場面は、純粋に面白かったです。
画面の「幽体離脱」のような感触で、「あぁ、こうなるのね」と感心しました。

ただ、目の悪い私にはこの3Dは大変疲れました。
焦点が合わない。
わざとぼやけた画面を入れる。
(これは笑うところなのか、と真剣に悩む。)

引用、誰だっけ?
(帰ってきてフローベールだと思い出す)

音楽ぶつぎり健在だな。
もうちょっとちゃんと聴いていたいのに。

などでしょうか。
だいたい1時間くらいなはずなのに、大変上映時間が長いと感じました。

シンプルな感想は以上の通りです。

■考えてみた感想

で、画面を観つつ、また
画面を観終わったのちに、いろいろと考えてみた感想は、

これって、オデュッセイアのパロディかもしれない。

というものです。

■犬、戦争、航海

まず犬。何故犬か?

ホメロス「オデュッセイア」では、アルゴスという老犬が出てきます。「オデュッセイア」では、乞食に扮装したオディッセウスを、人間は誰ひとり認識できなかったのに対して、この老犬アルゴスだけが、乞食の正体を見破ったのです。人間の認識能力の限界を示す「おはなし」として理解することも可能な場面です。

もし「オデュッセイア」だとすると、何故戦争の場面が繰り返し出てくるのかも理解できます。
オデュッセウスは、トロイヤ戦争から、延々航海をして帰ってきたからです。

だとすると、繰り返し登場する遊覧船もオデュッセウスの帰還を示唆しているのではないでしょうか。

■貞操と不倫

しかし、決定的な違いがあります。

オデュッセウスの妻ペネロペは、求婚者たちをずっとだましつつ貞操を守ってきたのに対し、ゴダールのヒロインは人妻で、不倫をしています。

ゴダールのレジュメによると、犬は、不倫のふたりのもとに落ち着くことになります。主人の帰りを待たずに、不倫の二人の側につく犬。

そして、ゴダールによると「かつての夫が全てを台無しにし」と、オデュッセウスが悪者になったかのような書き振りで物語が要約されています。

確かに、オデュッセウスは、求婚者たちに対して矢を射って「台無し」にしてしまいます。
しかしゴダールは、それを、戦争の悪とクロスオーバーするかのように、不倫の側に立ったシナリオを進めていくのです。

■西欧を始原からやり直すこと

ホメロスは、西欧の第一級の古典でした。
その古典をズラすことにより、西欧をはじめからやり直すこと。

そんなホメロスの書き換えをやっているかのように、この映画を観てしまうのはちょっと深読みのしすぎかもしれません。

ただ、ヒトラーへの参照において、それが西欧社会がその中から作り出したものである、という科白がでてくるところを考えると、案外、ゴダールは本気でホメロスの書き換えを考えているのかもしれない、と思えてくるのです。

「シネマ、それは現実の複製ではない、現実の忘却なんだ。しかしこの忘却を記録しておけば、思い出し、現実に到着できるかもしれない。」(ゴダール インタビュー「シネマ、それは現実を忘れること」)

不倫するペネロペと悪役のオデュッセウスから始まる社会というのはどんなものか全く想像がつきませんが、少なくとも、ゴダールの3Dという全く想像のつかなかったものを観てしまったからには、そんなものもあるのかもしれない、とつぶやくしかほかにないのかもしれません。

では。

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事件のない犯罪小説-綿矢りさ「履歴の無い女」

【今日の言葉】

「おまえは...中身がないではないか。
 本当に...空っぽな奴だな。」
(曽田正人「テンプリズム」2)

【読書日記】

こんにちは。ともです。
今日の読書は、雑誌「文学界」平成27年1月号に掲載されている、
綿矢りさの最新小説「履歴の無い女」を読んでみたいと思います。

以下、ネタバレが含まれますので、未読の方はお気を付け下さい。

■ケレン味の無い第一印象

綿矢りさ「履歴の無い女」を一読した読者は、すっかり拍子抜けしたのではないでしょうか。これまで、女子学生や独身女子の焦燥感やエキセントリックな言動を、言葉巧みに描きだすことを持ち味としてきた綿矢りさが、本作「履歴の無い女」では、新居に引っ越しの荷物が届く前のとある午後に、最近結婚したばかりの姉と既に家庭を持っているその妹が夕飯を作りながら交流する、という一見、幸せそうな「勝ち組」の物語ともとられる内容の小説を書いているからです。あっさりしすぎていてケレン味がない、というのが私の第一印象でした。

前作「こたつのUFO」に引き続いて、一人称「私」で語られる小説構造は不変です。引き続き綿矢りさが、独自の「私小説」を選択して追求していることがここからは判明します。

ところが、ことはそう簡単ではありません。そこはやっぱり厄介な「私小説」作家である綿矢りさです。本作にもさまざまな仕掛けが施されており、とりわけ本作は、綿矢りさの「犯罪小説」として読める、というのが私のここでのとりあえずの仮説です。以下にテクストに沿ってみていきましょう。

■綿矢りさの「犯罪小説」

綿矢りさは、小説の冒頭に主題を置くことがその特徴です。
本作「履歴の無い女」では、冒頭の一文で「携帯とその履歴」がまずは主題となっています。

そして第二段落の冒頭で「きっと殺人犯罪なんかのアリバイも携帯一つで証明でき」(98頁)とおもむろに「犯罪」という言葉が出てきます。そして、たてつづけに「ミスや邪悪な心が生んだ犯罪」(99頁)、「携帯にもブログにも日記にも経歴にも犯罪歴にも記載されていない瞬間」(99頁)と冒頭部分において三回にわたり「犯罪」という言葉が出てきます。

それを裏付けるかのように、「これ、故意にちょっと焦がしている」(102頁)と敢えて刑法の専門用語である「故意」が「私」の会話文の中で用いられています。ここでは、本作が「犯罪小説」ではなければ、「故意に」ではなく、「わざと」や「好きで」なり別の言葉を選択することも出来たと思われます。しかしながら「犯罪小説」である本作では、わざわざ「故意」という刑法概念が選択され利用されているように思われるのです。その他にも「裁判」「証明」「証拠」(98頁)という刑事訴訟法的な概念がここには表れてきます。

このように本作は、綿矢りさの初の「犯罪小説」であることが、小説の冒頭部分において宣言されているのです。

では、小説の語り手である「私」は、どんな犯罪を犯しているのでしょうか。

■「私」の「犯罪」(その1)

まず候補として挙げられるのは、「私」が「他人の闘病記」や「スキャンダル」(99頁)を「覗き」見(100頁)するという「出歯亀」行為(100頁)があります。

ここで軽犯罪法を覗いてみましょう。

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軽犯罪法 第一条 二十三号 正当な理由がなくて人の住居、浴場、更衣場、便所その他人が通常衣服をつけないでいるような場所をひそかにのぞき見た者
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以上の「覗き見」行為の構成要件からは、「公開」されている「ブログ」や「写真週刊誌」(99頁)を見る行為は、「通常衣服をつけないでいるような場所」とはいえませんし、「ひそかに」と規定する軽犯罪法には該当しないようです。これは、現在の日本刑法においてプライバシーを侵害する行為に対する直接的かつ包括的な処罰規定がなく、住居侵入罪等の個別の処罰規定により細切れにプライバシーが保護されていることが背景にあります。

ということで、「私」の「覗き見」は「犯罪」ではないようです。

■「私」の「犯罪」(その2)

つぎに候補として挙げられるのは、「名乗りたい名前を勝手に名乗」る「騙り(かたり)」行為(99頁)です。

「他人ごとのようなふりをして、本も出した」(99頁)というのですから、候補となる犯罪は「私文書偽造罪」でしょう。刑法を見てみましょう。

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(私文書偽造等)
第159条 行使の目的で、他人の印章若しくは署名を使用して権利、義務若しくは事実証明に関する文書若しくは図画を偽造し、又は偽造した他人の印章若しくは署名を使用して権利、義務若しくは事実証明に関する文書若しくは図画を偽造した者は、3月以上5年以下の懲役に処する。
2 他人が押印し又は署名した権利、義務又は事実証明に関する文書又は図画を変造した者も、前項と同様とする。
3 前2項に規定するもののほか、権利、義務又は事実証明に関する文書又は図画を偽造し、又は変造した者は、1年以下の懲役又は10万円以下の罰金に処する。
----------

ここで規定されている犯罪の対象は、「権利、義務又は事実証明に関する文書」に限定されています。そして解釈上「通称名の使用」に関しては、受取人との関係で文書作成の責任主体を偽るものでない限り、私文書偽造罪は成立しません。つまりここで記載されるようなペンネームでの本の出版は、犯罪にはなりません。

■自己同一性=アイデンティティーを偽ること

とはいえ、「偽造」の定義を考えてみると、「犯罪」の構成要件には該当しないものの、「偽造」概念一般には該当してくるように見えてきます。

即ち、刑法上「偽造」の本質とは、「文書の名義人と作成者との人格の同一性を偽ること」という定義が用いられるからです(最判昭和59年2月17日・刑集38巻3号336頁)。

「他人ごとのようなふりをして、本も出した」ということは、「人格の同一性を偽る」という、まさに、そのものの行為であり、だから「私」は「罪悪感」(102頁)があると告白することになります。

では、自己同一性というものは一体どうやって証明することが出来るのでしょうか。

■自己同一性の証明

「私は私である」と無垢に世間に向かって叫ぶだけでは、「自己同一性」というものは証明されません。様々な記号が「自己同一性」を証明する資料として付け合わされ、相互に厳密に一致することによって、自己同一性が証明されることになります。

その自己同一性を証明する資料を、綿矢りさは本作において、「履歴」と表現します。付け合せ作業により世間によって「自己同一性」を証明する複数の資料である「履歴」。シニフィアンとシニフィエという言葉を使うことが許されるならば、シニフィアンは「履歴」を指し、シニフィエである「自己同一性」を担保することになるでしょう。

ところが「履歴の無い女」において「私」は、「私の根本部分は履歴がないままなのだ。」と宣言します。

蓮實重彦はこのように言います。

「作家」は、奥深い領域に隠された「私」など持ってはおらず、その存在をあらゆる視線に向けていっせいにおし拡げ、すべてをあますことなく人目に晒すことをうけいれた徹底して表層的な個体にほかならない。(蓮實重彦「私小説を読む」)

綿矢りさも、この蓮實重彦がいう「私小説」の「私」の表層性を、本作でも実践しようとしているかのようです。

■「私」の「犯罪」(その3)

で、いったいこの小説のどこが「犯罪」なのか。

この小説の怖いところは、それが描かれているのに書かれていないことにあるのではないでしょうか。

いくつかの違和感がこの小説にはあります。

なぜ、結婚したばかりの夫が、新居におらず、私と妹の二人で夕飯をとっているのか。
なぜ、私の新居の引っ越しなのに、妹が「イトーヨーカドー」に独りで買い出しに行っているのか。
なぜ、妹の夫と娘の固有名詞は出てくるのに、私と妹、私の夫の固有名詞は出てこないのか。

「私」のセリフ、「なんていうかさ、さっきまで独身だったくせに、結婚した途端、夫の職場の近くに買った家とかに住みだして、スーパーで片頬に手を当てながら“今日のお夕飯どうしようかしら”とか思案しだすわけでしょ。私もそれ、自然にできそうな気がするんだよね。」とまるで他人事のように、結婚生活を語る場面。

想像力を膨らませて考えると、これは、何らかの結婚詐欺事件の前夜の話ではないかと思えてくるのです。

そんな想像力を駆使していると、まるで最後の二人が交わす会話、「大切なものを守りながらも、いろんな景色が見たい」「まあ、いっしょにがんばっていきましょうよ」という言葉が、違った意味に響いてくるものです。

まあ、描かれていないので真相は藪の中なのですが。

では。

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私三十歳、私小説始めました-綿矢りさ「こたつのUFO」

【今日の言葉】

おおさえ、おおさえおお、喜びありや、喜びありや
(狂言「三番叟」)

【読書日記】

こんにちは。ともです。
今日の読書は、雑誌「新潮」2014年6月号に掲載された、綿矢りさの最新小説「こたつのUFO」を読んでみます。

以下、ネタバレが含まれますので、未だ読んでない方はご注意ください。

■綿矢りさの「小説の規則」

前回、綿矢りさを読んだ際(このブログの記事/複数性を生きること-綿矢りさ「いなか、の、すとーかー」)綿矢りさは自分の設定した「小説の規則」に、きわめて愚直に従っていると分析しました。
すなわち、
①「書き出し」は、最大限の注意を払い、そこに小説の主題を提示する。
②「人称」の選択に注意を払い、「固有名詞」と併せて、効果的に使用する。
③「固有名詞」が露呈するときには、何か重大な事件が起こるか、重大なことが判明する。

今回も、この「小説の規則」がどこまで最新小説「こたつのUFO」に当てはまるのか、以下にみていきたいと思います。

■書き出し

まず、①の規則:「書き出し」と小説の主題の分析です。

「三十歳になったばかりの私」

が今回の主題です。非常にわかりやすいです。何故ならば、二十代超えというのは何故か女子にとっては生物学でいう津軽海峡を横切る動植物分布の境界線「ブラキストン線」のように越えがたい壁のようで、三十歳はついにそれを突破するというすさまじい葛藤があると男の私にも容易に想定ができるからです。主題の分析は以上です。

■人称の選択と固有名詞

次に、②の規則:「人称」選択と「固有名詞」です。

既に書き出しで明らかな通り、これは「私」という発話主体が物語る一人称小説です。非常にわかりやすいです、といいたいところですが、これがクセモノです。続いて「太宰治」という固有名詞が出てくることで、その厄介さが際立ちます。

何がそんなに「クセモノ」で「厄介」なのか。以下、分析のフレームワークを示したうえで、具体的に小説に沿って読んでみたいと思います。

■私の複数性

まず小説の構造分析です。

この小説は大きく2つのパートに分かれます。この小説の言葉を使えば「言い訳」(315頁から317頁1行目まで)と「おはなし」(317頁3行目から327頁まで)の2つに分割されるのです。

綿矢りさの小説にはしばしば、冒頭の部分で、主人公の独白とも一般的なアフォリズムともとれる形而上学パートが置かれることがあります。大抵は「主人公の独白」と解すれば事足りることが多いのですが、ここでは「太宰治」という固有名詞が介入してきます。

ここで、③の規則:「固有名詞」が露呈するときには、何か重大な事件が起こるか、重大なことが判明する。が発動します。

すなわち、ある程度の綿矢りさの読者であれば、綿矢りさの好きな作家が「太宰治」であるということは周知の事実です。「太宰治」を引用する「私」とは、限りなく「綿矢りさ」に似てくるのです。いままでの「綿矢りさ」の小説で、敢えて「私」の属性が「綿矢りさ」に似るということは、少なくとも小説テクストの次元においては周到に回避されていた事態です。これは「事件」と呼んでも差支えがない「重大なこと」なのです。

ここにおいてもう一つ分析のフレームワークを提示すると、「私」について以下の仮説が成り立つ、ということです。即ち、「私」には二種類が存在しているという仮説です。

一つは、現実の小説の書き手=話者である「私」。これを「私①」とここでは呼んでみたいと思います。もう一つは、フィクションとしての一人称小説の語り手=主人公である「私」。ここでは「私②」と呼んでみることにしましょう。

するとこの小説は、「言い訳」パートで「私①」が発話主体となって、「おはなし」パートでは「私②」が語り手となっている、というもう一つの仮説が成立する可能性が開かれます。

同一の小説内で、同一の「私」という一人称を用いて、複数の「私」(私①と私②)を提示するという、なんともまあ「厄介」なことが行われているように見えるのです。

■言い訳の分析

では、小説に沿って中身を見てみましょう。

「言い訳」パートでは、「私①」と「私②」との関係をめぐる形而上学が展開されていきます。ここでは「私①」の属する世界は「現実」「実」と表現されます。対して「私②」の属する世界は「フィクション」「創作」「想像」「設定」「架空」「虚」と表現されます。「現実と想像」は「体験と想像場面」という二項対立的な構図には素直に収まりません。なぜならば、両方とも「個人の脳内世界」における「真実」だからなのです。

フィクションにはフィクションなりの真実の世界があり、そこにおいて、固有の価値と社会の紐帯が生まれる可能性を形而上学として提示したのが、哲学の王とも呼ばれるスピノザでした。「私①」はほぼこのスピノザのラインに沿って、「私②」の語る小説にも固有の「真実」があると高らかに宣言して、「私②」の「おはなし」パートへ繋がっていきます(「”おはなし”だけが残る」)。

■おはなしの分析

次に「おはなし」のパートを読んでいきましょう。

ここで本当に「厄介」だと思わせるのは、「私②」も限りなく「私①」に似ているように「設定」されていることです。

Wikipediaでみると「綿矢りさ」は、1984年2月1日生まれであることが分かります。「おはなし」は「私②」の「誕生日」の話であり、「雪」の降る「寒風」吹く「京都市」の情景描写が続きます。現在、どうやら「京都市」に住んでいるらしい「私①」にどうも設定が「私②」は近接しています。

「三十歳になったばかりの私が、三十歳になったばかりの女性の話を書けば、間違いなく経験談だと思われると、これまでの経験から分かっている」という「言い訳」の言葉からすると、「だから、敢えて主人公(私②)は現実の私(私①)に近い設定にした」という開き直りにも受け取れる書きぶりです。何が厄介かといえば、「誕生日を迎えたばかりの作家が、誰にも誕生日を祝ってもらえないさびしい女を書いたら、読者の方は『一人きりの誕生日を実際に過ごして、不平たらたらなんだ』と思う」と、先回りして、凡庸な読者の感想まで書き連ねていることです。

■私小説

私小説の定義について、手許にある「日本語大辞典」を引くと、「作者自身を主人公に、身辺の実生活や心境を体験の告白という形で描いた小説。自己凝視の中に真実性を求めようとする。身辺雑記風のものを私小説。観照性の高いものを心境小説とよぶことがある」という定義に当たります。

本当に「厄介」だなあと思うのは、綿矢りさが「私小説」もっといえば「心境小説」をパロディーとして利用して、ついには一人称小説を突き詰めてしまったところでしょうか。上の分析では、「私①」≠「私②」と読んでみましたが、仮に、「私①」=「私②」として「私①」の外部に、更に作者としての「綿矢りさ」という固有名詞があると、より一層先鋭化して読んでしまえば、「言い訳」部分ですら「虚構」とも読めてしまうのです。

これまで、人称の揺らぎ(亜美ちゃんは美人)、固有名詞の徹底した排除(大地のゲーム)などで一人称小説の可能性を追求してきた綿矢りさとしては、「私小説」への逆襲として「私小説」をパロディーにしてしまう、というのは必然だったということでしょうか。

一つ分かったことは、「綿矢りさ」は相当厄介な女だ、ということでしょうか。

では。

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なぜアキレウスの怒りは味方の軍勢を壊滅寸前に陥れるほど強かったのか―マデリン・ミラー「アキレウスの歌」

【今日の言葉】

国家は人間がつくった最も愚かなものだとケイロンが一度言ったことがある。「どの国の人間であろうと、あるひとりがべつのひとりよりも価値があるということはけっしてないのだぞ」
(マデリン・ミラー「アキレウスの歌」)

【読書日記】

こんにちは。ともです。
今日はマデリン・ミラー「アキレウスの歌」を読んだ感想です。

■アキレウスの怒り

かねてからホメロスの「イリアス」にたいしてある疑問がありました。

なぜアキレウスの怒りはこれほど強いのか、と。

直接的な怒りの原因は、アキレウスお気に入りの戦争捕虜の奴隷女を、トロイア遠征軍の総大将であるアガメムノンに奪われたことがきっかけでした。でも、そもそもトロイ遠征の原因になったヘレネがメネラオスの正妻であるのに対して、アキレウスが奪われたのはただの奴隷女です。

いわば、アキレウスが、正妻の奪還のために終結した遠征軍を全滅させかねないほど、奴隷女ごときに執着して激怒するのは何事か、という感想を私は抱いたわけです。引き籠りにもほどがある、と。

しかも自分の代わりに出撃させた盟友のパトロクロスが戦死したからといって、再び参戦するというのは、我が儘がすぎないか、とも思いました。だったら初めから自分が参戦すればよかったではないか、と。これだから、ギリシャの神々や英雄たちの話はよくわからないよ、と納得したところで正直終わりにしていました。

今回、ホメロスの「イリアス」を現代において翻案した小説であるマデリン・ミラー「アキレウスの歌」を読んで、これらの疑問が、何と、するすると解消していったのでした。

■マデリン・ミラー「アキレウスの歌」

疑問が解消したということは、作者であるマデリン・ミラーも同様の疑問を抱いていて、それらに対する解答を文芸作品の形で提示したい、という強い意思があったということになります。

作者自身が「謝辞」のなかで「10年におよぶ」執筆期間を要したと記していることを信頼すれば、それだけの価値が「アキレウスの怒り」にある、ということになります。

また、作者の専攻が古典学であることから、敢えて学術論文の形ではなく、文芸作品の形で「イリアス」の解釈を示したことには、「この形でなければ伝えることができない」と考えた何かがあるはずです。

その答えをここで記載することは、未だこの本を読んでいない読者の楽しみを奪うことになりますし明らかにしませんが、一つだけ指摘しておきたいのは、作者であるマデリン・ミラーの答えに説得力があるとはいえ、それが文芸作品であるがゆえに、「現在、まさに今を生きているわれわれ」が理解できるロジックを使ってその答えを提示している、ということです。

ホメロス「イリアス」の成立については様々な説が唱えられていますが、もともとトロイ攻略に関するさまざまな伝承が当時から存在しており、ホメロスは、それを編集したものであるというのが、現在の一般的な理解になってきているようです。

ということは、アキレウスに関する伝承もさまざまに存在していたわけで、そこには、当時の人々が「イリアス」を読んだとしても、その行動や背景、考え方を理解できるような周辺的な伝承が豊かに存在していたと思われます。

マデリン・ミラーの解釈に、それらの周辺的な伝承群の古典学的な研究の成果が、どこまで活かされているのかは存じ上げませんが、まさに「アキレウスの歌」が行ったことは、アキレウスの行動や背景、考え方を理解できるような周辺的な伝承の「現代的なヴァージョン」を提供しようとするものだと、私は理解しました。

したがって、当時のギリシャ人の理解するところと、現代人が「アキレウスの歌」を読んで理解するところとは、全く別物である可能性が大いに存在します。そこがこの小説の限界であろうとも思われます。

■社会全部を敵に回しても守るべき、かけがえのない価値

とはいえ、敢えて「イリアス」を現代に甦らせて、「アキレウスの怒り」を今に生きる人々に理解してもらいたい、という姿勢に意味がないということではありません。

なぜならば、「イリアス」は西洋社会において読み続けられてきた第一級の「古典」であり、そこには独自の価値があるはずだからです。そして「古典」を現代の目で読み直す、という行為は、古くはルネサンスの時代からそれぞれの時代の現代人が行ってきたことの繰り返しであるからです。

そして、今回「アキレウスの歌」を読んで私が理解したことは、

「社会全部を敵に回しても守るべき、かけがえのない価値」がある

ということです。

これが遠くわれわれの時代において、「個人の尊厳」という議論に響いている、ということが、まさに古典であるにもかかわらず、それが現代的である所以なのだろう、と思った次第です。

では。

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誰のものでもない―井口奈己「ニシノユキヒコの恋と冒険」

【今日の言葉】

深海魚に会おうとした揚羽蝶が、海面にへばりついている。
(飯田茂実「一文物語集」)

【読書日記】

こんにちは。ともです。
私が長い間、新作を待ち焦がれていた井口奈己監督の映画「ニシノユキヒコの恋と冒険」を今週ようやく観ましたので、その感想など。上映中ニヤニヤしっぱなしだったイイ映画でしたので、お読みになる方は是非、先に映画をご覧になることをお勧めします。

■ハスミシゲヒコの恋と冒険

と書いてあったとしても、どうしても先に映画評をお読みになりたいという方が、もし、いらっしゃいましたら、文芸誌「群像」2014年3月号に掲載されている蓮實重彦の映画時評「繊細な演出と神の采配とが奇跡のように同調すれば、こんな映画が生まれ落ちる」をお読みになることをお勧めします。そのほうがわくわくしながら映画を見ることができるかもしれないからです。

蓮實重彦の文章は、彼のスクリーンに対する恐るべき動体視力を駆使して、映画の隅々までとらえた的確な分析と、情景が目に浮かぶような詳細な描写を加えていて、映画を観る前に、すでに井口奈己の世界観を緻密に再現しています。それでいて過剰に分析的にならず、適度な「煽り文」になっていますので、読んだ人は「見損なっちゃいけない!」と、うっかり錯覚してしまい、映画館へ足を運びたくなるような時評になっています。

こんなに蓮實重彦が「恥も外聞もなく」ベタ褒め、ベタ惚れした時評を書くのも近年珍しいので、この文章は蓮實重彦の「老いらくの冒険」ではないかと心配してしまうほどです。「映画に愛された稀有な映画監督」に対する蓮實重彦の映画的な愛があふれていますので、ぜひご一読を。

■井口奈己とエリック・ロメールの差異と反復

という私は、2009年2月15日のこのブログの記事で前作「人のセックスを笑うな」について感想を書いています。
http://tomonodokusho.cocolog-nifty.com/blog/2009/02/post-6d63.html
今回まるまる5年ぶりに井口監督の映画を観て感想を書きたいと思ったのですが、ほぼ完璧な紹介は蓮實重彦にやられてしまい、何を言っても二番煎じとなってしまうので、今回は前回の記事同様、芸もなくエリック・ロメール「友だちの恋人」と井口奈己の映画の偏差分析を、懲りもせず反復することになります。

では、なぜエリック・ロメール「友だちの恋人」なのでしょうか。

前作「人のセックスを笑うな」は、いろいろなところで、エリック・ロメール「友だちの恋人」の影響が濃く画面に表れている、というのが前回のブログ記事での私の分析でした。そんなことをなぜ言えるのか、という声が聞こえてきそうですが、5年前の「人セク」関連イベントで井口監督推薦映画の上映があり、案の定、「友だちの恋人」が上映されているのです。井口監督が大好きな映画を、たまたま私も大好きだから、というだけです。

■友達の友達はみな友達だ

エリック・ロメール「友だちの恋人」は、『喜劇とことわざ』というシリーズの一作で、この作品にはモチーフとなる「ことわざ」が配されています。

Les amis de mes amis sont mes amis.

愚直な直訳をすれば、「わたしの友達の友達は、やはり、わたしの友達だ」とでもなるでしょうか。タイトル「友だちの恋人」はこれを文字っています。が、フランス語原文では、より直截的にこの映画の内容を表しています。

L'ami de mon amie

またまた愚直な直訳をすると「わたしの女友達の男友達」となります。フランス語の名詞には男性形と女性形があるため、日本語に直すとかなり露骨な表現にみえますが、音読みでは「らみどぅもなみ」と何かのおまじないのように美しい響きになります。

「ニシノユキヒコの恋と冒険」を観ながら、この「ことわざ」が、ぼんやり頭に浮かんだのは、かつての恋人たちがニシノの葬儀に美しい庭園へ集まった場面です。なにやら激しい戦いを経た退役軍人たちのパーティーのように明るい表情の女性たちはどこか不気味です。かといって秘かな絆で結ばれたかのようななごやかな空気感さえ漂うのは、お互いが「敵」ではないからでしょう。

なぜニシノユキヒコ(竹野内豊)はいつも女性にフラれるのか、という問いが映画の中でも出てきますが、どうやら、このシーンに答えがありそうです。

■誰のものでもない

エリック・ロメール「友だちの恋人」では、二組のカップルが最後には入れ違いになります。最初は、女①=男①/女②=男② だったはずのカップル構成が、最後には、女①=男②/女②=男① となるのです。それでいて喜劇。劇中も観客も大爆笑です。

「ニシノユキヒコの恋と冒険」ではこの構造が大きく変わっています。

まず「男②」がいません。「男①」しかいないのです。すると何が起きるか。女①と女②がまず奪い合いを行います。その結果、「横滑り」が発生するのです。構造的には女①→②→③→④...と男①を中心に円環状にそしてらせん状にカップルが動的に変化をするのです。これは延々と男①という中心が消失するまで続いていく構造になっているのです。

つまり、誰も「男①を所有しない」=「結婚しない」のです。

そしてニシノユキヒコは、構造的に男②を欠くために不安定なモビールのようにくるくると回転しながら、コマのようにいつも円の中央で静止しているのです。その反射的な効果として、

「誰のものでもない」

ということが、不思議な女子たちの連帯(友達の友達は友達)を形作っているのでした。

■シネフィル的な映画の記号たち

このように「ニシノユキヒコの恋と冒険」は、「友だちの恋人」から大きく「差異」の方向へ舵が切られています。とはいえ、三つ子の魂百までという通り、滲み出る「反復」も鮮やかに画面を彩って躍動感を与えています。

マナミ(尾野真千子)がニシノを振るシーン。

愛し合った後に、女性が抜け出しさよならを告げる。というのはエリック・ロメール「友だちの恋人」の白眉のシーンです。また「友だちの恋人」のヒロイン・ブランシュのクセは上着のポケットに手を突っ込んで歩くことでした。マナミがリベルテ(フランス語で自由)という名のマンションの前でポケットに手を差し入れるとき、ロメールへ秘かなリスペクトが捧げられていると思うのは私だけでしょうか。木々の緑を見上げるように撮ったカット。緑の小道で手をつなぎ歩く二人。

さらには、江ノ電、七里ヶ浜という「晩春」の小津安二郎を髣髴とさせる記号がちりばめられています。幽霊のニシノが現れるミナミの自宅をローアングルでとらえるショットも小津へのリスペクトでしょうか。古い日本家屋に血の繋がらない男女が寝泊まりするというのは「東京物語」の笠智衆と原節子をも想起させるのに充分です。

他にもまだまだシネフィル的な記号たちが映画を彩っているのでしょうが、シネフィルではない私にはよくわかりません。是非とも浅田彰がゴダール「映画史」でやったようなインデックスを誰か「ニシノユキヒコの恋と冒険」でやってほしいと思うのは贅沢すぎる望みでしょうか。

それよりも、気が早いかもしれませんが、早く井口奈己の次回作を観てみたい!というのが本音のところですが。

では。

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