学問・資格

諸文化の大がかりな連帯に向けて ― 木庭顕『憲法9条へのカタバシス』

【今日の言葉】

わたしたちはいつか最愛の子どもに会いに行く。
(松浦理英子『最愛の子ども』)

【読書日記】

こんばんは。ともです。
今日は、木庭顕『憲法9条へのカタバシス』の雑感をいくつか。

■憲法9条解釈の諸前提

木庭顕『憲法9条へのカタバシス』は、主論文『日本国憲法9条2項前段に関するロマニストの小さな問題提起』を中心に、著者の政治システム論と憲法論をまとめた単行本です。同時期に発売された『法律時報』2018年5月号『憲法の土壌を培養する』における蟻川恒正・樋口陽一との鼎談と併せて読むと、きわめて明快に著者の考える憲法9条論、ひいては、憲法論、政治システム論、社会文化論が理解できると思われます。

かなり乱暴に要約すれば、憲法9条を解釈するためには、諸前提がある。ということになります。文芸・文学による深い人間理解・社会理解を背景に、政治システムを構築し、近代立憲主義を創設し、憲法9条にまで至った、社会的・文化的諸思想・諸動向の意義を、「共時的かつ通時的」に理解する必要性のあることが、本書を読めば、痛いほど切実に感じ取れるはずです。

というわけで、本書は、今後、政治・憲法を論じる際における必読の書となることは間違いありませんので、みなさま早く読みましょうね。

■知の共和国に向けて

とはいえ、誰もが簡単に本書を読めるわけではありません。本書は入門書ではないのです。一見、初学者でもとっつき易そうにみえる『法学再入門:秘密の扉 ぜんべえドンとオハナぼう、番外篇』も、極めてレベルの高いローマ法概念をめぐる議論が展開されています。

特に『国家学会雑誌』が初出である『Hobbes,De civeにおけるmetus概念』はある程度の歴史的・哲学思想的素養がないと理解は困難ですし、刑事法と民事法にある程度通じていないと何を言わんとしているのか、正確な理解は困難です。取り敢えず、人文科学系の知的素養を基に本書を読もうとされる方には、適当な法律学辞典を片手にお読みになることをおすすおおめします(特に表象文化論の方は!)。その先には、(「リアリスト」と呼ばれる全然リアルな認識を持ちえていない国際政治学者等の)卑俗な通説を鮮やかに覆す新鮮なHobbes像がたちあがってくるはずです。

このように、木庭顕の著作には、まるで中谷彰宏が自己啓発本で言い訳をする場合のように、「意識の高いきみたち」に向けてレベルを落とさずに語る、という悪い癖があります。なので、しばしば意識が高いと自己認識する読者のせっかくの意欲を挫くことにもつながるようですが、私は、スルメだと思って、何度も何度も時間をかけて噛み砕くように心掛けています。そのうちに味が出てきますよ。

■漱石論・鴎外論

なぜ憲法9条を論じる本書に、漱石論と鴎外論が入っているかについては、本書『序―日本国憲法9条の政治的弁証に向けて』が詳しいです。

すなわち、「私(註:著者)が苦痛に感ずるもの(註:権力と利益をめぐる集団)を体系的に解体する営みが政治であり、これは文学によって基礎づけられた」(本書2頁)からに他なりません。

その漱石論で、私が注目するのは、本書123頁の註66)における蓮實重彦への言及です。この註は初出『現代日本法へのカタバシス』においてはなく、本書の改定によって初めて言及されたものです。おそらく著者による蓮實重彦への言及自体、これが初めてではないでしょうか。

ここで著者は、ダヌンチオの赤と青に関し、蓮實重彦『夏目漱石論』が「よくpolalityを捉える」と評価しつつも、「そのpolalityを作者がどう使って何を言おうとしているのかは関心外であるようだ」とさりげなく批判しています。いわゆる註でバッサリ切る、というやつです。深読みすれば、著者による表象文化論批判とも読めなくはありません。「どう使って何を言おうとしているのかは」、文学と政治の連帯にとって極めて重要であり、それを「関心外」とは何事か、と。

しばらく前の私であれば、「そうだ、そうだ」と著者に同調していたかもしれません。しかしながら、蓮實重彦自身が、表象文化論という言葉について「この言葉が示す意味内容などどこにも存在しない。存在しないからこそ面白いんじゃないでしょうか?(笑)」(ユリイカ『総特集 蓮實重彦』35頁)と明言している以上、私は「関心外」であることに積極的な意味をこそ見出すべきではないか、と思うのです。

私は、この蓮實重彦のいう「どこにも存在しない」表象文化論とは、「誰のものでもない」公共空間を市民社会の側に築くという、蓮實重彦の倒錯した戦略性を持った「市民社会論」なのではないか、と思われるのです。

このとき、著者の鴎外論におけるフランスのCritiqueの伝統と蓮實重彦の表象文化論が交錯するのではないか。と私は考えます。

蓮實重彦が「憲法など、改憲されようが九条が残されようが、それをことさら意識することなく、「好きなこと」をやるつもりである」(『これからどうする』蓮實重彦「「好きなこと」の大がかりな連帯に向けて」36頁)と高らかに宣言するとき、著者のいう「知的階層」との距離は、それほど遠くないように思われます。

では。

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全公法私法の泉fons omnis publici privatique iuris ― 木庭顕『新版 ローマ法案内』

【今日の言葉】

市民法における定義は総て危険である。
omnis definitio in iure civili periculosa est.
(原田慶吉『ローマ法』)

創造的であるためには、ローマの人々が何を問題としたのかというところに立ち返って考え直す以外にない。
(木庭顕『新版 ローマ法案内』)

【読書日記】

こんばんは。ともです。
今日は、木庭顕『新版 ローマ法案内』を読んだ若干の感想です。

尚、近時木庭先生の著書を使って遊んで参りましたページ単価の数量分析は、個人の楽しみとしては当然行ってみましたが、ここでは行いません。皆さま方でお楽しみください。

■改定方針

このブログをお読みの方ならば周知の通り、『新版 ローマ法案内』(以下、新版)は、2010年12月に初版が出された『ローマ法案内』(以下、旧版)のヴァージョンアップです。『ローマ法案内2.0』などと呼べば、表象文化論的には通りがいいのかもしれませんが、政治学的・法学的センスと知的水準を問われかねませんので、ここでは敢えて、政治・法を学ぶ者の矜持にかけて新版・旧版と呼んでおきます。

まずは新版と旧版の目次を比較すると、その改定方針の意図が透けて見えるはずですが、意外なことに章だては新旧ほぼ同一であり、唯一、旧版の6章(「ローマ法」伝播に関する簡単な注記)が削除され、新版では「補遺」の章に置き換わっています。ここでは、旧版の基本的構造は変更する必要がないという意思が示されているのです。

それもそのはずで、これまた周知の通り「本書はPOSS(筆者注『法存立の歴史的基盤』)の要約版という性格」(新版2頁)を持つことから、十分な分析・検討・研究を経て叙述された『法存立の歴史的基盤』の成果の骨子は変わらない、ということを示しています。

では何が変わったのか。

旧版と比較してかなり縮約された新版「はしがき」にその改定方針が記載されています。
すなわち「叙述を多少簡潔にするというもの」で「あった」と当初の意図が示された後に、逆接の接続詞「しかし」が続き、「結果」的に「基幹の部分の説明」を「全面的に入れ替え」したと吐露されているのです。

この「しかし」と「結果」という二つの単語に込められた、著者と編集者の想像を絶する「割の合わない」苦労を第三者が想像してみても始まらないので、以下、「基幹の部分」の新版の叙述を読んでみた若干の感想を記載します。

■感想その1~「政治」の定義がはっきりわかる!

新版のいちばんの目玉が、「政治」の定義が明快に示されているところではないかと思います。「第1章 歴史的前提」の「1-1 政治」は極めてクリアな説明で、しかも「自由」が社会の「指導的原理」と爽快に断言しています。言われてみれば、当たり前のことなのですが、私自身が「当然の前提は記載しない」「定義は記載しない」という悪しき民事法的思考に染まってしまったのか、新鮮な叙述に写ります。

この裏返しとして、「政治」の対抗的社会原理である「枝分節segmentation」についても明快な定義がなされています。当然のごとくマルセル・モース『贈与論』(新版9頁,註9)にも言及がありますが、ここまで丁寧な叙述がされていれば、「モースもローマ法を援用しているが違いが判らん」などという声はおそらく出てこないのではないかと思われます。

■感想その2~「ウェルギニア伝承」が解説されている!

新旧の比較において索引を比較するのも大変興味深いのですが、目を引くのは、旧版においては一切触れられることのなかった「ウェルギニア伝承Verginia exemplum」が新版には堂々と記載され(新版217頁)、本文においては、約8ページにわたりその内容と意義、占有原理の解説がなされていることです(新版「第2章民事法の原点」「2-3 占有」47頁以下)。

既に、木庭顕『法学再入門 秘密の扉―民事法篇』の読者であれば、「ぜんべいとオハナ」のお話がウェルギニア伝承のパロディであることにお気づきでしょうが、内容とその意義をこれだけ簡潔に記載したところに新版の意義があります。なぜなら、民事法の原点である「占有」概念の「設立先例exemplum iuridicum」がウェルギニア伝承そのものだからです。

歴史学徒ではない私などは、exemplum iuridicumを”判例”などと安易に言い換えてしまいたくなる欲望を抑えきれなくなるのですが、そこは学問的な厳格性を尊ぶ木庭先生のことですから、「本書では以上のような(筆者注:徹底したヴァリアントの偏差の分析)作業を一切省略してよくできた占有概念設立先例があるがごとくに叙述する」(新版49頁,註11)と注意書きすることを忘れません。

その意味で、『法存立の歴史的基盤』ひいては『秘密の扉』『民法の基礎』『公法の基礎』を読むうえで、まさに「案内」となる叙述に徹しているものと評価されます。特に、新版55頁「図1 占有/民事訴訟」の図解は極めて明快です。

■感想その3~bona fidesと所有権の社会構造がわかる!

図1以外にも新版では図表があと2つでてきます。「図2 bona fides」(新版95頁)と「図3 所有権(dominium)の躯体」(新版132頁)です。それぞれ直感的に各々の社会構造段階の違いが理解できるように大変よく工夫されています。

特に所有権の社会構造の図解が有益で、木庭先生の日本国憲法9条2項論を理解するためには、非常に有益な図解になっています。

■最後に

この後も、中高生を対象にした木庭先生の講義録が出版されるようですので、まだまだ楽しみなのですが、そういえば『政治の成立』にはドゥルーズの『差異と反復』への言及があり、最新の国家学会雑誌論考には「反復」の語もみられますので、どこかで木庭先生のドゥルーズ論を読んでみたいなあと思っています。興味を持たれた編集者の皆さまは是非ともご検討をよろしくお願いします。

あ、最後に。新版はコスパが圧倒的でお買い得ですよ。

では。

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占有のエチカ ― 木庭顕『[笑うケースメソッドII]現代日本公法の基礎を問う』

【今日の言葉】

かれら著作家は原始時代を、おおいに賞賛して黄金時代と呼び、人間が神々と混ざり合って暮らしていた時代のことを伝えました。その時代は苦悩がなく、快楽に満ちていたからです。あらゆる人民、あらゆる国民が、それぞれ個別に、また全体として、かれら著作者の意見に賛同しました。そしてこの意見のうちにとどまっており、そしていつまでもとどまるでしょう。
(ロレンツォ・ヴァッラ「快楽について」)

【読書日記】

こんばんは。ともです。
今日は、木庭顕『[笑うケースメソッドII]現代日本公法の基礎を問う』を読みます。

■数量分析

まず、前回と同じく、数量分析を行います。
ゲームのルールは、前回と同様に簡単です。
定価をページ数で割って、1ページ当たりの単価を算出するだけです。

前作、笑うケースメソッド「民法の基礎」は、3000円/280頁=10.71円でした。
今作、笑うケースメソッド「公法の基礎」は、3000円/328頁=9.14円でした。

なんと!今作は前作よりも1円以上も安くなっています。推測するに、前作が想定以上の読者を獲得したために、今回も相当数の読者をより獲得するだろうと判断した出版社が、それに見合う価格設定をしたと考えられます。読者としては、充分にお得感のある価格設定です。

しかし、これとは異なることが著者自身によって「あとがき」に記載されています。
引用します。

「参加学生数は20人から40人で、私の他の授業を遍歴して来たり著書を読んでいたりする学生が多く、研究者志望でその後事実研究者となった学生を相当含んだ。」「(50~70人の選択必修科目を反映した)前作『[笑うケースメソッド]現代日本民法の基礎を問う』に比して対話篇的な色彩を強調した。」(321頁)

とあります。即ち、より少数で、より専門性の高い議論が「公法の基礎」では展開されることになります。

何故か?確かに販売数量では、より多くの数量が見込まれる値付けでした。出版社が値付けを間違えたのでしょうか。否、この出版不況でそのようなことはありえません。では何故か?

答えは本文の中にあります。

「デモクラシーは、大衆化のことではなく、高度な思考と不可分」(29頁)だからなのです。政治、デモクラシーを、公法(占有原理)の前提として省察する今作では、高度な思考を密に展開するために、少数の密度の濃い議論が必要とされたのです。それは値付け=販売数量(ひいては、デモクラシーがより多数を視野に入れること)とは別の事情(デモクラシーの判断の二重分節)にあることが説かれているのです。

キツネにつままれた方は、是非本文を読んで、政治とデモクラシーの区分の重要性、デモクラシーの概念をフォローしてみましょう。

■神即政治

と言って、本文を読みだすとこれまた面喰います。

「0 予備的討論」内容の濃さ、「1 政治制度の構築」の叙述は、木庭三部作『政治の成立』『デモクラシーの古典的基礎』『法存立の歴史的基盤』のエッセンスをギュッと詰め込んでいますので、既に木庭先生の著作に相当親しんだつもりの読者でも頭がクラクラします。

特に、註では、縦横無尽に内外の議論、それも時空を超えた議論が同一平面で参照されます。また、明示的な引用元を示さない議論の元ネタも相当にありますので、文学(映画も?)、哲学、政治学など幅広い「法律家の素養」が求められます(「そもそも、法律学の理解のためには、一見それとはわからないがじつは文学・歴史学・哲学の蓄積に通じている必要があります。」11頁註6)。

この「0」章、「1」章の濃い叙述は、スピノザ『エチカ』の第一部で神の論証をしていく様子を髣髴とさせます。

なぜならば、と考えれば、これも本文で出てきますが、「神」の弁証は、「政治」の弁証と似るのです。神即自然をスピノザは説きましたが、自然法から国家も論じました。即ち、神即政治なのです。

これら「政治」や「デモクラシー」、それと「公法=占有原理」のいわば「公理」の定義づけ、哲学的な基礎づけを最初に行う木庭先生は、その後の章で、「公式判例集」というテキストを、徹底的にCritique(クリティーク)で分解していきます。

■占有のエチカ

それは既存の公法学、憲法学や行政法学の「お作法」を、そもそもの政治、そもそものデモクラシー、そもそもの占有原理から解体していく試みですので、容赦ありません。
そして、それはリバタリアニズムとは全く異なる「自由」を求める姿勢で一貫しています。

だから、
「歴史学はあっても法制史は存在しないし、哲学はあっても法哲学は存在しません」(11頁註6)という強烈な印象を残すマニュフェストにつながっていくのです。

その「占有のエチカ」とでもいうべき、一貫した強固な意思で貫かれた現実批判。法的解釈は、射程をおもいきり遠くへ拡げたものです。

これが、実定法学者の採るところとなり、講義を通じて将来の政治的階層の意識にビルトインされ、実務へ繋がる。この「スキピオの夢」にも比する射程をもった構想が実現するかは、ひとえに、広くこの書が哲学、政治学、文学というジャンルを超えた多くの人によって支持されるかにかかっているのではないかと思います。

勁草書房さん、値付け、グッジョブです。

では。

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ローマの窓から平和憲法が見える-木庭顕「法学再入門:秘密の扉-番外篇」

【今日の言葉】

だがそのまえに、呪わしい欲望が、軍勢をとらえるのではないか
壊してはならぬものを、壊すことになりはしないか
(アイスキュロス「アガメムノーン」)

【読書日記】

こんにちは。ともです。
今日は、雑誌『法学教室』2015年8月号に掲載された木庭顕「法学再入門:秘密の扉-番外篇」を読みます。

■番外篇とは何か

木庭先生による「法学再入門:秘密の扉」は、「民事法篇」が2015年3月で終了してしまい、最近は『法学教室』を読むことも無くなっていました。が、なんと8月号に「番外篇」が予告されているではないですか。で、刊行前に「番外篇」とは何かについて、いろいろと妄想してしまいました。

ふと頭をよぎったのは、木庭顕「ローマ法案内」の序における「『ローマ法』は私法であるとは限らない」という一節です。

最近では、ほぼコンセプトを同じくする「公法・刑事法の古典的基礎」http://catalog.he.u-tokyo.ac.jp/g-detail?code=25-6591&year=2015&x=40&y=8という授業もあるようですので、もしかしたらそのテクスト化なのか、とも考えましたが、未だテクスト化するには早すぎますし、もしそうだとしたら「公法・刑事法篇」と銘打っての長期連載となるはずです。

では何か。

と考えたとき、最近木庭先生が公表される文章において、ある一定の懸念を表明していることが気になりました。

■懸念

東京大学出版会の『UP』2014年12月号に掲載された木庭顕「知性の尊厳と政治の存亡」においては、三谷太一郎「人は時代といかに向き合うか」の書評という形をとりつつ、特に註において厳しい現実批判の言葉が並んでました。

いわく「ポップな妄想に駆られ(憲法さえ軍事化=産業化す)る政治セクターは全くチャンスの無い路線を80年ぶりに再現する」と、足許の政治動向が、満州事変以降の軍国主義の路線に回帰しつつあることを示唆する鋭い指摘をしています。

また2015年1月に刊行された木庭顕「笑うケースメソッド 現代日本民法の基礎を問う」では、「日本国憲法や人権理念に対する攻撃のほんとうの動機がむしろ占有破壊ドライヴに存することが多い。ありていにいえば、憲法破壊は修飾部分であり、ほんとうにしたいのはつねに土地上集団の活性化・軍事化である」という指摘もありました。

深い現実政治への懸念をそこからは読み取ることが出来ます。

そこで、足許の安保法案論議です。まさかとは思いましたが、「番外篇」では、ギリシャ・ローマから見た「憲法論」が展開されているのです。そして「集団的自衛権」に関する議論までもが展開されているのです。

■木庭三部作

今回の「番外篇」は、木庭三部作「政治の成立」「デモクラシーの古典的基礎」「法存立の歴史的基盤」の骨子がもれなく網羅されています。というより確固たる理論的視座を構築した木庭先生が、それを縦横に駆使して現実を分析しているというほうが正しいかもしれません。その中で「政治システム」についても「自由な主体間で厳密な議論を交わして決定すると、人々は自発的にそれに従うという原理」と明快な定義が示されています。そしてそれは、不透明な集団を作り上げる社会学的事象を排除することによって成立するものであることが、繰り返し示さています。「政治の成立」の用語を使えば、政治は分節articulationという概念で表現され、社会学的事象は枝分節segmentationという対概念となります。

そして「法」すなわち「占有」は「一番追いつめられた人の立場に一方的に立って事態を見る」こと、「事態を素早く、冷静に分析」することであると簡潔にその意義が示されています。言い換えれば、分節articulationを最も弱い個人に対して成立させることによって、枝分節segmentation集団を排除することになります。

そして「法存立の歴史的基盤」で示された通り、占有が原基となって、その後の公法・刑事法・民法の諸概念が形成されてきたことを前提として議論が進んでいくのです。

■占有原理から憲法9条を読む

この「番外篇」の白眉は、「個別的自衛権」が占有原理であるのに対して、「集団的自衛権」とは、占有侵害の実力行使である横断的実力形成vis armataであると断じている箇所です。

木庭顕「ローマ法案内」では、vis armataに関して、「まだ占有侵害に至らないとしても既に内部軍事化を完了した単位は危険である。中が火の玉になった単位を近傍に持つことは大きな危険を意味する」としvis armataは他への侵害以前に違法と言えると解説しています。

そして「番外篇」においては、「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」の英訳「land,sea,and air forces,as well as other war potential,will never be maintained.」に言及し、「"war potential”の語が印象的だ。いくら防御のためと称しても中を火の玉のようにして軍事体制を作り待ち受けることも禁じられるというのは古典的な法原則だ。内部に文節を擬制しその分節を融解させることも横断的軍事化vis armataと看做す。これは脅威ないし危機の法学的定義である」と集団的自衛権の違法性につきローマ法の観点から断じています。

「占有」の射程が、憲法のうち人権規定まで延びるのは「最後の一人=個人の尊厳」の観点から想定はしていましたが(このブログの記事『ギリシャとローマの交錯点としての憲法96条―木庭顕「デモクラシーの古典的基礎」「法存立の歴史的基盤」から読む』をご参照くださいhttp://tomonodokusho.cocolog-nifty.com/blog/2013/05/96-4b2d.html )、正直、「占有」の射程がそれを飛び越え、憲法の平和主義、憲法9条にまでも及ぶというのは驚きでした。

確かに、日本における最大の実力組織は暴力団と米軍であると指摘し続けてきた木庭先生から見れば、米軍とともに横断的実力形成・軍事化を図る「集団的自衛権の行使」は「占有違反である」ということは至極もっともなことなのだろうと思われます。

木庭先生の鋭い知性は、そのように「集団的自衛権の行使」(番外編の言葉では桃太郎の鬼退治)を進めようとする背景・原因にまで切り込んでいきます。一言で言ってしまえば、彼らは占有原理の観点からは「排除するべき枝分節segmentation集団」だという指摘になります。

■誰のものでもない

そして憲法とは「皆のもの」(占有して皆で取り分けることが出来るもの)ではなく、「誰のものでもない」(誰も占有しえない)と木庭先生がいうとき、私は、res publica共和国という言葉の原義はそう訳すべきであったのかもしれないと考え、改正限界の基礎理論は「誰のものでもない」という公共概念を前提とすべきなんだろうなと気づくことになります。

また自主憲法制定論に対し、ソロンの立法や十二表法までもちだして、そもそも憲法は第三者(外国人)が書いてそれを批准するものだ、という木庭先生の大胆な反論にニヤニヤすることになります。また逆説的に学問と文藝の重要性が浮かび上がる、という仕掛にはドグマティックな法律論では味わえない知的好奇心に胸を躍らせることになります。

まだまだ指摘したいことは多くあるのですが、下手な要約よりは、直接読んで分析して頂いた方が面白いテクストですので、みなさまの感想も是非お聞かせください。

では。

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法のロマニスティック...わはは-木庭顕『[笑うケースメソッド]現代日本民法の基礎を問う』

【今日の言葉】

心を揺さぶられる逸話である。乞食の正体を見破れる人間はいないのに、もの言わぬ動物は瞬時に見破った。
(西村賀子「ホメロス『オデュッセイア』-<戦争>を後にした英雄の歌」)

法律家に頭は要らない。鼻さえあればよい。大事なのは臭いを嗅ぎ取ることです。どうもクサいな、と。
(木庭顕『[笑うケースメソッド]現代日本民法の基礎を問う』)

【読書日記】

こんにちは。ともです。
今日は、木庭顕『[笑うケースメソッド]現代日本民法の基礎を問う』が刊行されたところで、その新刊の位置づけを考えてみたいと思います。

■遊戯の規則

このブログでは以前にも試みたことがあるのですが、簡単なゲームをしてみたいと思います。ゲームのルールは単純です。本の定価をページ数で割って、1ページ当たりの単価を出すというものです。まずは、世間の相場を見渡してみたのちに、木庭教授の著書で試みてみたいと思います。すると、われわれには何が見えるでしょうか。

■世間相場

まず、世間相場を見渡してみるために、私の手許にある最近読んだ本で遊んでみます。最初に、このゲームを考案して文芸批評に導入した蓮實重彦から見てみましょう。
・蓮實重彦「『ボヴァリー夫人』論」6400円/850頁=7.52円
・蓮實重彦「『ボヴァリー夫人』拾遺」2600円/312頁=8.33円
と同じ著者の同時期の作品においても若干の違いがあることがわかります。おそらく筑摩書房に対して羽鳥書店は、より学術出版に近いことから、単価をやや高めに設定したのではないかと推測されます。

では、ほかの文芸作品も見てみましょう。
・六冬和生「地球が寂しいその理由」1800円/377頁=4.77円
・小野正嗣「九年前の祈り」1600円/224頁=7.14円
と、文芸書においてもジャンルによって単価格差があることがわかります。六冬和生はハヤカワSF大賞受賞作家で、小野正嗣は芥川賞受賞作家であることから、大衆文学と純文学には単価格差が存在することが明らかです。ここまで見てくると、文壇の中には、

学術書>批評>純文学>大衆文学

という単価格差のヒエラルキーが存在しているという仮説がとりあえず成立します。

■法学というジャンル

次に、法学というジャンルで見てみましょう。
・木村草太「LIVE解説講義本 木村草太憲法」3000円/323頁=6.09円
・神田秀樹「会社法 第十六版」2500円/388頁=6.44円
という比較的ポピュラーな演習本や教科書では、

純文学>法学の教科書>大衆文学

という関係になりそうです。では、もう少し対象を広げてみましょうか。
・樋口陽一「加藤周一と丸山眞男」1800円/181頁=9.94円
・石川健治編「学問/政治/憲法」3800円/275頁=13.81円
憲法学者である樋口陽一の著書は、「他の分野から法学に目を向けられること」を意図し「読者対象」として書かれた本(同書あとがき)だそうですので、本体価格設定は2000円以下と一見リーズナブルにみえます。が、単価を見ると如実に純文学や文芸学術書・批評を超えている強気な設定です。また、旬な憲法学者たちによって編まれた「学問/政治/憲法」は、その樋口陽一の実質的な傘寿記念論集として企画された本ですので、両者には時期と人脈に通じるものがありますが、憲法学者の傘寿記念論集として学術書としての色彩が濃いことが単価設定にも表れているようです。

これまでの関係を整理すると以下の通りとなります。

法学学術書>法学一般書>文芸学術書>文芸批評>純文学>法学教科書>大衆文学

さて、ここからが本番です。いよいよ楽しくなってきたので、木庭教授の著書で、このゲームを続けてみたいと思います。

■木庭三部作

では、東京大学出版会から出されている木庭教授の「三部作」を見てみましょう。
・木庭顕「政治の成立」10000円/440頁=22.72円
・木庭顕「デモクラシーの古典的基礎」22000円/952頁=23.10円
・木庭顕「法存立の歴史的基盤」28000円/1392頁=20.11円
となります。

なんとこれまで見てきた単価の幅が、13.81円から4.77円の幅でほぼ10円の幅を示していたのに対して、いきなりそこから約10円の幅を上乗せして、木庭教授の著作の単価は突出しています。図示すると以下の通りになります。

木庭三部作>
法学学術書>法学一般書>文芸学術書>文芸批評>純文学>法学教科書>大衆文学

■羽鳥書店の二部作

これに対して羽鳥書店から出版された「二部作」は、「三部作」を踏まえつつも学者向けではない一般の法律家向けに出した書籍となります。どうなるのでしょうか。
・木庭顕「ローマ法案内」5200円/256頁=20.31円
・木庭顕「現代日本法へのカタバシス」7800円/320頁=24.37円
となります。

実は、羽鳥書店の二冊も「一般の法律家向け」とは言いながら、単価設定から見る限りは、三部作と同じく「人を選ぶ」読者層の想定となっているのです。この背景には、三部作と二部作において実質的に同じ編集者が担当していたという理由もあるでしょう。ただし羽鳥書店だから高いという理由では「ない」ことは、すでに示した通り、蓮實重彦が羽鳥書店から出版した「拾遺」とは約3倍近い単価格差があることから証明されるでしょう。以上のゲームの結果からは、

木庭三部作・二部作>
法学学術書>法学一般書>文芸学術書>文芸批評>純文学>法学教科書>大衆文学

という出版界における単価のヒエラルキー構造が存在していることがわかります。

■木庭顕『[笑うケースメソッド]現代日本民法の基礎を問う』

ここでやっと本題の木庭教授の新刊となります。さっそく見てみましょう。

・木庭顕『[笑うケースメソッド]現代日本民法の基礎を問う』3000円/280頁=10.71円

いかがでしょうか。何と!これまでの木庭教授の著書の単価の約半値!なのです。この本の画期性が皆様にも計量的に理解できるのではないでしょうか。この本を企画した編集者はすごいなと思います。最後にこのゲームをまとめると以下の通りとなります。

木庭三部作・二部作>
法学学術書>木庭新作>法学一般書>
文芸学術書>文芸批評>純文学>法学教科書>大衆文学

■感想

計量的に木庭教授の新刊の画期性が判明したところで、内容的な画期性をみてみましょう。まず、H.L.A.ハート「法の概念」から引用します。

ローマ法を印象深く教える仕方は、それがなお実効性を持つかのように語り、個別のルールの妥当性を議論し、それに照らして問題を解決することである。
(ハート「法の概念」)

木庭教授の新刊は、木庭三部作で示した「木庭ローマ法」の学問体系を、最高裁の民事判例を題材に、すなわち実際の事件に当てはめた時に、現行民法の規定・学説・判例の妥当性を議論し、「返す刀で一刀両断にする」ところに画期性があります。上の引用でハートは皮肉としてそのように言っているのですが、それを皮肉ではなく、印象深く「本当のローマ法の制度趣旨」から説く木庭教授の議論には説得力があります。

なぜならば、木庭教授の「返す刀」は、「タメ」が深いからです。記号論や文化人類学の議論、古典学者のホメロス分析、考古学の成果を批判的に総合した「政治の成立」。ギリシャ悲劇の分析から哲学、歴史学、古今東西のデモクラシー論・政治思想史を批判的に読み解く「デモクラシーの古典的基礎」。ドイツ歴史法学、なかんずくサヴィニーを乗り越える占有論を提示し、そこから法的観念体系が占有の派生的形態であることを論証した「法存立の古典的基礎」。これらの長年の思考をベースに、現実を分析する木庭教授の視点は充分に「批判的」です。なので「切れ味」が良いのです。あたかも「ローマ法」を講ずることが法学部の講義そのものであった時代に迷い込んだかのような錯覚に陥りそうです。

新刊の「はしがき」にもある言葉の通り、木庭教授の基本姿勢は「一から疑って考え直す」ことにあります。これは「デカルトから近代の人文学も科学的合理主義も共に始まった」と考える木庭教授の信念なのではないかと思います。

あわせて「はしがき」には、「われわれがどこから来てどこに行くのか」というゴーギャンのタイトルのような言葉も見られます。現代の日本の法が「どこから来たのか」を充分に掘り当てた木庭教授が、「歴史のこの時点」の「こういう見え方」から、われわれが「どこへ行くべきか」にコミットしている書としても、画期的なのではないでしょうか。

また本書を読む人は、現在、法学教室において連載されている「法学再入門―秘密の扉」と併せて読むと、木庭教授の考え方がよりよくわかるのではないかと思います。

個人的には、木庭教授による記号論講義や文化人類学の解説書、ドイツ哲学講義などもあったらいいなと思いますが、無いものねだりでしょうね。

では。

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詐欺による意思表示の瑕疵の効果は、錯誤無効となるのか?

【今日の言葉】

若い法律家は、法の基礎についてとくに気を配っており、十分に考えずに実定法(従って、ここでは、今日通用する法)とのかかわりにだけ限るなどということをせず、その自然な好奇心、その批判的な問題関心を委縮させていない。
(ディーター・ライポルト「ドイツ民法総則」)

【読書日記】

こんにちは。ともです。
今日は、以下の〔命題〕に関する法的な自明性について、わたくしの自然な好奇心から、批判的な問題関心を広げて考えてみたいと思います。

〔命題〕
「相手方に欺罔された結果、法律行為の要素に錯誤が生じ、その錯誤により意思表示した場合には、錯誤による意思表示の無効を主張することも、詐欺による意思表示の取消しをすることもできる。」

■日本民法典の条文の規定

まずは、現行の日本民法典の規定を見てみましょう。

民法95条(錯誤)
意思表示は、法律行為の要素に錯誤があったときは、無効とする。

民法96条1項(詐欺又は強迫)
詐欺又は強迫による意思表示は、取り消すことができる。

■日本民法典の解釈

上に掲げた民法95条と96条を素直に読む限り、詐欺による意思表示の瑕疵は、〔命題〕の通り、それぞれ、錯誤無効ともとれますし、詐欺取消も可能ではないかと思われます。従って、二つの条文が両立可能な場合がありうる、というのが結論になりそうです。

と、私が条文を眺めただけでは、その解釈は何の権威もありませんので、山本敬三「民法講義Ⅰ 総則」から該当する箇所を引用してみましょう。

「詐欺の場合は、表意者の錯誤は、相手方が作り出したものである。このような場合は、表意者の動機の表示を要求すべき理由はない。こう考えるならば、詐欺の場合は、原則として錯誤無効も認められることになる。いずれの要件もみたすかぎり、当事者は、錯誤無効の効果と詐欺取消しの効果のどちらを選択して主張することも可能であるとするのが一般的である。」(山本敬三「民法講義Ⅰ 総則」233頁)

と、このように権威ある民法学者の教科書によっても、上記命題は真であることが確認されました。即ち、日本民法典の解釈としては、「詐欺による意思表示の瑕疵の場合、錯誤無効も詐欺取消もいずれも主張可能」であることになります。

でも、何か引っかかるところが残ってしまうのです。では、日本民法典の成立やその後の民法学の解釈学において指針となった「ドイツ民法」では、どのようになるのでしょうか。
手始めに、以下に、みていきましょう。

■ドイツ民法典の条文の規定

ドイツ民法119条1項(錯誤に基づく取消可能性)
意思表示をした場合にその内容に関して錯誤にあった者、または、その内容の表示を一般にしなかった者は、表意者が実情を知っていたかまたは事実を合理的に評価していれば意思表示をしなかったであろうと推測されるとき、その表示を取り消すことができる。

ドイツ民法123条1項(詐欺または強迫に基づく取消可能性)
詐欺により意思表示をする者または強迫により違法に取り決めをさせられる者は、表示を取り消すことが出来る。

■ドイツ民法典の解釈

上記のドイツ民法の二つの規定を見て気付くのは、錯誤も詐欺・脅迫も、ドイツ民法典では「取消可能」という効果で一致しているということです。日本民法との違いとして、錯誤と詐欺の「要件」に関しては、さほどの違いを感じないものの、錯誤の「効果」が「無効」ではなく「取消可能」となっている点が大きな違いであることがわかります。

それを念頭に置いて、「ドイツの学生が国家試験を受けるための基本書として高い評価を受けている」(訳者まえがき)といわれるディーター・ライポルト「ドイツ民法総則」から、該当する箇所を引用してみましょう。

「123条(詐欺または強迫に基づく取消可能性)による取消は、錯誤による取消が同時に可能である時にも、決して無意味ではない。たとえば、融資者が被融資者の信用能力について詐欺にかかり、その結果、取消が119条(錯誤による取消可能性)2項(人の性質に関する錯誤)によっても、123条(詐欺または強迫に基づく取消可能性)1項によっても考えられるとき、両者による取消が可能である。この場合の解決に際しては、場合によっては、両方の取消可能性が論じられる。」(ディーター・ライポルト「ドイツ民法総則」258頁)

と、このようにドイツ民法典の解釈においても、錯誤と詐欺は両方の適用可能性が論じられることとなるのです。ただし、いずれにしても「取消可能」という効果には差がないことが、「錯誤無効」の効果を規定する日本民法典との差異となります。

では更に、ディーター・ライポルト自身も「ドイツ民法の起源」と認めており、彼が「今日の民法は、数百年の長い発展に基づいており、その発展は、なんといってもローマ法を出発点とする」と説明する「ローマ法」においては、どうなるのでしょうか。

■ローマ法の解釈

ここからは全く違う景色が広がっていきます。木庭顕「現代日本法へのカタバシス」の中の論文「『債権法改正の基本方針』に対するロマニスト・リヴュー,速報版」から引用します。

「錯誤と詐欺・強迫は極めて異なるのである。つまり、いずれの効果を与えるにせよ、統一的に扱うこと自体に問題が存する。」「錯誤は善意の範囲内のできごとであり、これに対して詐欺・脅迫は合意の基盤たる善意を端的に破壊する行為である。」「元来は訴権の相違が異なった効果をもたらした。」「錯誤はinfamiaをもたらさず、合意がなかったというだけであるから、どちらの錯誤ということさえなく、賠償の問題にはならず、詐欺・脅迫は逆に重大なる懲罰的損害賠償責任を発生させ、infamiaが合意基盤破壊者を取引世界から葬る。」(木庭顕「現代日本法へのカタバシス」116頁)

ここでいうinfamiaは、「破廉恥罪」など訳されますが、いわゆるブラックリストへの記載で、手形交換制度における取引停止処分に似たものと考えられます。とするならば、錯誤はinfamiaをもたらさず、詐欺・脅迫はinfamiaの制裁を受ける、となるとそもそも、錯誤と詐欺が二重に適用される、ということ「自体に問題がある」ということになります。錯誤はbona fidesの内部の話であり、詐欺・脅迫はbona fidesが破壊された場合の話だからです。

すなわちローマ法的な観点からは〔命題〕のように「錯誤による意思表示の無効を主張することも、詐欺による意思表示の取消しをすることもできる。」という扱いは、問題外であり、そもそも問題を捉え損ねているのであり、ローマ法において〔命題〕の真偽を問えば「偽」となる、ということでしょう。

■では、どこで我々は間違ったのか?

日本民法の解釈においては、〔命題〕は「真」でした。日本民法の解釈に大きな影響を与え続けてきたドイツ民法の解釈においても〔命題〕は「真」でした。では、我々はどこで間違ってしまったのでしょうか。

そもそも詐欺・脅迫の効果は「懲罰的損害賠償責任+infamia」でした。それが「註釈学派以来詐欺強迫の問題より不法行為の罰金追求の問題を駆逐し、これを取消の問題に限定して行った(民96条)」(原田慶吉「ローマ法」85頁)ことから逸脱が生じたようです。木庭顕が、上記引用に続く、註において「或る意味で中世以来の理解、の全面革新が必要とされる」(119頁・註12)と記述するのは、この註釈学派の解釈自体から修正を行っていく必要性を指摘しているものと思われます。

そしてドイツ民法の成立に重要な理論的支柱を与えたサヴィニーに関して、木庭顕は「サヴィニーが意思表示概念に共通の太い柱を求めたことが全ての始まりである」として、以上の逸脱の『遠因』をサヴィニーに帰しつつ、他方、サヴィニー「自身は詐欺と強迫さえも正当に周到に分かつなどローマ法の歴史的理解に忠実であり、無効・取消二元論を単純に展開するところはない、ように見える。」と、サヴィニーそのひと自身の理解には問題がなかったのであろう、と擁護しています。

となると、この意思表示概念をサヴィニー以降発展させた「19世紀ドイツ」のパンデクテン法学、さらには20世紀のフランス=「合意の瑕疵の理論」の展開において、以上の逸脱が通説化していったものであろうことが推測されるのです。

■現在われわれは、どこへ行こうとしているのか。

ここから、さらに考えると、例えば、次のような立法提案がされるとき、われわれは、どのようにすればよいのでしょうか。

〔立法提案〕
意思表示に錯誤があった場合において,表意者がその真意と異なることを知っていたとすれば表意者はその意思表示をせず,かつ,通常人であってもその意思表示をしなかったであろうと認められるときは,表意者は,その意思表示を取り消すことができるものとする。

以上の立法提案において、「無効と取り消しうる」の差異も平準化され、「取り消すことができる」に一本化されたとき、〔命題〕は、更に日本法においては「真」であることが強化され、「錯誤と詐欺・強迫」の制度的差異も平準化されることとなるのでしょう。

それは、後世、「十分に考えずに実定法(従って、ここでは、今日通用する法)とのかかわりにだけ限る」視野の狭い立法として、世界から嘲笑の対象とならないよう、せめて、その立法提案が実現した際に、「アジアン・スタンダード」として日本以外の国へ輸出されないことを監視するしかないのでしょうか。海外においても、日本民法の「プレゼンス」=「実力」を示したいというのは、何故か、憲法の議論と連動しているように思われるのは、ただの偶然でしょうか。

では。

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なぜアキレウスの怒りは味方の軍勢を壊滅寸前に陥れるほど強かったのか―マデリン・ミラー「アキレウスの歌」

【今日の言葉】

国家は人間がつくった最も愚かなものだとケイロンが一度言ったことがある。「どの国の人間であろうと、あるひとりがべつのひとりよりも価値があるということはけっしてないのだぞ」
(マデリン・ミラー「アキレウスの歌」)

【読書日記】

こんにちは。ともです。
今日はマデリン・ミラー「アキレウスの歌」を読んだ感想です。

■アキレウスの怒り

かねてからホメロスの「イリアス」にたいしてある疑問がありました。

なぜアキレウスの怒りはこれほど強いのか、と。

直接的な怒りの原因は、アキレウスお気に入りの戦争捕虜の奴隷女を、トロイア遠征軍の総大将であるアガメムノンに奪われたことがきっかけでした。でも、そもそもトロイ遠征の原因になったヘレネがメネラオスの正妻であるのに対して、アキレウスが奪われたのはただの奴隷女です。

いわば、アキレウスが、正妻の奪還のために終結した遠征軍を全滅させかねないほど、奴隷女ごときに執着して激怒するのは何事か、という感想を私は抱いたわけです。引き籠りにもほどがある、と。

しかも自分の代わりに出撃させた盟友のパトロクロスが戦死したからといって、再び参戦するというのは、我が儘がすぎないか、とも思いました。だったら初めから自分が参戦すればよかったではないか、と。これだから、ギリシャの神々や英雄たちの話はよくわからないよ、と納得したところで正直終わりにしていました。

今回、ホメロスの「イリアス」を現代において翻案した小説であるマデリン・ミラー「アキレウスの歌」を読んで、これらの疑問が、何と、するすると解消していったのでした。

■マデリン・ミラー「アキレウスの歌」

疑問が解消したということは、作者であるマデリン・ミラーも同様の疑問を抱いていて、それらに対する解答を文芸作品の形で提示したい、という強い意思があったということになります。

作者自身が「謝辞」のなかで「10年におよぶ」執筆期間を要したと記していることを信頼すれば、それだけの価値が「アキレウスの怒り」にある、ということになります。

また、作者の専攻が古典学であることから、敢えて学術論文の形ではなく、文芸作品の形で「イリアス」の解釈を示したことには、「この形でなければ伝えることができない」と考えた何かがあるはずです。

その答えをここで記載することは、未だこの本を読んでいない読者の楽しみを奪うことになりますし明らかにしませんが、一つだけ指摘しておきたいのは、作者であるマデリン・ミラーの答えに説得力があるとはいえ、それが文芸作品であるがゆえに、「現在、まさに今を生きているわれわれ」が理解できるロジックを使ってその答えを提示している、ということです。

ホメロス「イリアス」の成立については様々な説が唱えられていますが、もともとトロイ攻略に関するさまざまな伝承が当時から存在しており、ホメロスは、それを編集したものであるというのが、現在の一般的な理解になってきているようです。

ということは、アキレウスに関する伝承もさまざまに存在していたわけで、そこには、当時の人々が「イリアス」を読んだとしても、その行動や背景、考え方を理解できるような周辺的な伝承が豊かに存在していたと思われます。

マデリン・ミラーの解釈に、それらの周辺的な伝承群の古典学的な研究の成果が、どこまで活かされているのかは存じ上げませんが、まさに「アキレウスの歌」が行ったことは、アキレウスの行動や背景、考え方を理解できるような周辺的な伝承の「現代的なヴァージョン」を提供しようとするものだと、私は理解しました。

したがって、当時のギリシャ人の理解するところと、現代人が「アキレウスの歌」を読んで理解するところとは、全く別物である可能性が大いに存在します。そこがこの小説の限界であろうとも思われます。

■社会全部を敵に回しても守るべき、かけがえのない価値

とはいえ、敢えて「イリアス」を現代に甦らせて、「アキレウスの怒り」を今に生きる人々に理解してもらいたい、という姿勢に意味がないということではありません。

なぜならば、「イリアス」は西洋社会において読み続けられてきた第一級の「古典」であり、そこには独自の価値があるはずだからです。そして「古典」を現代の目で読み直す、という行為は、古くはルネサンスの時代からそれぞれの時代の現代人が行ってきたことの繰り返しであるからです。

そして、今回「アキレウスの歌」を読んで私が理解したことは、

「社会全部を敵に回しても守るべき、かけがえのない価値」がある

ということです。

これが遠くわれわれの時代において、「個人の尊厳」という議論に響いている、ということが、まさに古典であるにもかかわらず、それが現代的である所以なのだろう、と思った次第です。

では。

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ボアソナード民法から読む木庭顕「占有理論」

【今日の言葉】

初学者には少し注意が必要です。まず、占有する権利、占有権というものはありません。占有はしているか、していないかだけです。占有訴訟は、占有している人しかできません。
(木庭顕「法学再入門:秘密の扉―民事法篇 第四話 消費貸借,その二」)

旧民法 第180条
法定ノ占有トハ占有者カ自己ノ為メニ有スルノ意思ヲ以テスル有体物ノ所持又ハ権利ノ行使ヲ謂フ
(旧民法 明治23年4月21日法律第28号)

民法 第180条(占有権の取得)
占有権は、自己のためにする意思をもって物を所持することによって取得する。
(民法 明治29年4月27日法律第89号)

【読書日記】

こんばんは。ともです。

今日は、木庭教授の法学教室連載「法学再入門:秘密の扉―民事法篇」の第四話『消費貸借,その二』まで公表されたところで、その占有理論を、ボアソナード民法(旧民法 明治23年4月21日法律第28号)を参考にみてみましょう。ちなみに、私は学者じゃないので、間違いがございましたら、どうぞ容赦なくご指摘ください。

■占有は事実か権利か

まず冒頭の引用文です。木庭顕は、占有は権利ではなく、事実(「しているか、していないかだけ」)であることを上記引用文で明確にしています。ボアソナード民法もその点を明確にしています。即ち、現行民法が第二編「物権」第二章「占有『権』」と占有を権利としていること、に対して、ボアソナード民法は財産編第一部「物権」第四章「占有」とのみ規定し、「占有権」という語は使用していません。

たまたま新旧両民法にて第180条が、「自己の為めにする意思」(animus domini/所有者の意思)を用いて占有を規定しているのですが、条文数が一致しているのはほんの偶然でしょう。たまたま一致しているので、反って、比較するとその微妙な差異が際立ってくるのですが、現行民法は、「占有は権利ではなく、事実である」という点を、間違ってしまっているのが手に取るようにわかります。

現行民法の起草者の一人である梅謙次郎「民法要義」においても「占有の性質については古来偏る議論がありて或いは之を事実なりといい或いは之を権利なりと謂へり」と一応占有が事実か権利かという論点の存在を理解していることを示していますが、「占有が占有を為すの有様と法律が之を保護する為めに興うる権利とは自ら別物」「本章に占有権と謂えるは法律が占有を保護するために興うる所の一切の権利を総括したるもの」と、あたかも実体的「権利」であるかのように占有「権」と名付けてしまったようです。

ただし、単なる事実的支配たる所持(detentio)と占有(possessio)とは別の概念であることにも充分に注意しましょう。その違いが分からなくなってしまった人は、木庭顕「法学再入門:秘密の扉―民事法篇『第一話,占有』を復習してみましょう。

■法定の占有

さらに、ボアソナード民法を見ていきましょう。

旧民法 第179条
占有ニ法定、自然及ヒ容仮ノ三種アリ
(旧民法 明治23年4月21日法律第28号)

この3種の占有は、ローマ法でいう市民的占有(possessio civilis)=法定の占有、自然的占有(possessio naturalis)=自然の占有、容仮占有(precarium)=容仮の占有、に該当し、ローマ法の呼称と区分を継受しています。

冗談だと思われた方は、ボアソナードの草案を見てみましょう。

Art.191. La possession est naturelle, civile, ou précaire.
(Boissonade ”Projet de code civil pour l'Empire du Japon”)

条文数は草案と旧民法で異なりますし、naturelleとcivileの順番が旧民法では逆転しているのですが、現在の民法典には出てこないローマ法概念が、ほぼそのまま規定されていることが分かるのではないでしょうか。そしてフランス語化されているとはいえ、possessio civilis、possessio naturalis、precariumという語が、そのまま使われていることが手に取るようにわかるはずです。

おそらく、現行民法に「占有『権』」と権利であるかのように規定されてしまったのは、旧民法の「法定の占有」という日本語表記に対して、概念構成が日本的に引き摺られ、「法定の占有であるからには、権利であるべき」と起草者が誤解してしまったのではないかとも想像されますが、原意からすれば「市民的占有」であって、あくまで事実たる「占有」にすぎません。その意味では「市民的占有」を旧民法が「法定の占有」と翻訳してしまったことに、そもそもの脱線が生じているのかもしれません。

■市民的占有

ではその「市民的占有」とは何か。中世以来の永らくの議論の中で混乱にさらされてきたこの概念に、木庭顕が明快な回答を示しています。

木庭顕は、まず「(土地の上の)端的な占有」という言い方と、次に「(もっと実力支配から遠い)占有」という言い方を区別しています(木庭顕「現代日本法へのカタバシス」収録『占有概念の現代的意義』)。(余談ですが、この題名は、三ケ月章『占有訴訟の現代的意義』に対するパロディです。村上淳一編「法律家の歴史的素養」で、木庭顕が三ケ月章の民訴理論を批判しています。)

「(土地の上の)端的な占有」とは、木庭顕「法学再入門:秘密の扉―民事法篇」でいえば、第一回の「お話」の「ゼンベエどん」が「オハナぼう」に対して有している関係で、これがローマ法で言えば自然的占有(possessio naturalis)に該当します。

次に、「(もっと実力支配から遠い)占有」とは、ローマにおいて「所有権」(dominium)が生まれた際に、所有権者が「端的な占有」に手を触れずに、あたかも「占有」しているかのように擬制(フィクション)するために編み出された法的概念である「市民的占有」(possessio civilis)のことです。よく木庭顕が例に出すものとして、土地の売買において所有権移転の登記を行うのは、「市民的占有」(possessio civilis)の移転であり、また担保権の登記を行うことも「市民的占有」(possessio civilis)の一部を移転しているのである、ということです。

そして、この二つの占有の効果として、自然的占有(possessio naturalis)が奪われたばかりのものをすぐに取り返すための占有訴訟を基礎づけるのに対して、「市民的占有」(possessio civilis)は債務者の破産時の債権者としての優先弁済権を基礎づけるもの(そして、決して債務者の「端的な占有」を取得するものではなく、いわば「管理占有」しか取得しない)とされます。

■占有訴訟

もう少しボアソナード民法の面白い規定を見てみましょう。

旧民法 第199条
占有者ハ占有ヲ保持シ又ハ回収スル為メ下ノ区別ニ従ヒテ占有ニ関スル訴権ヲ有ス
占有訴権ハ保持訴権、新工告発訴権、急害告発訴権及ヒ回収訴権ノ四種ナリ

旧民法 第201条
新工告発訴権ハ占有ノ妨害ト為ル可キ隣地ノ新工事ヲ廃止セシメ又ハ変更セシムル為メ不動産ノ占有者ニ属ス
(旧民法 明治23年4月21日法律第28号)

ここでは、「占有者」は「訴権」を有すること、すなわち、「占有訴訟は、占有している人しかできません」ということが規定されており、「占有権」という実体法上の「請求権」がある訳ではないことが明確にされています。

また「新工告発訴権」という現代の日本民事法理論には出てこない占有訴訟類型があることが規定されています。ここで響いてくるのは、木庭顕「現代日本法へのカタバシス」の以下の箇所です。

■木庭顕「現代日本法へのカタバシス」『7 占有;その2』

「奇妙なことに、interdictum[保全手続]の発給を求めるときに、権原が自分に存在することを、簡略な(summarius)仕方によってではあれ、論証しなければならないのである[疎明]。こうしてこの手続きは殆ど本案訴訟(petitorium)のようになってしまう」「人々は奇妙な権原を勝手に編み出しては、長期の本案訴訟に耐えなければならないという。たとえば、隣の大きな建物が何らかの脅威を与えたとき、権原の如何にかかわりなく、直ちにこれを止めるのでなければならない。まずは止めることが優先される。」「高く脅威となる建物を建てられた者は、仕方なく「太陽を享受する権原」(ius solis fruendi)などというものを創り出し、本案訴訟をするという。凡そこれらの問題が全て占有に関わるということに、誰も気づかないのである。」

と、日照権訴訟(太陽を享受する権原による本案訴訟)も、本来であれば、占有訴訟による解決がなされるべきであることを木庭顕は指摘しています。

仮にボアソナード民法が施行され、「新工告発訴権」に基づく占有訴訟が機能していたならば、現在では、どのような日本社会となっていたのか。と、歴史のifは無いと判っていながら、大変に気になるところです。

■民法出でて忠孝亡ぶ

その歴史のターニングポイントとなったのが「法典論争」です。旧民法施行「断行派」と旧民法施行「延期派」の一大論争が起きたのでした。結果、「延期派」が勝利し、ボアソナード民法は、公布されても施行されることなく、現行民法典が新たに起草されたのでした。

その際の「延期派」のスローガンが「民法出でて忠孝亡ぶ」(穂積八束)でした。

木庭顕は、贈与交換を典型とする人類学的社会関係を排除するために、占有概念ひいては法がある、といいます。「政治の成立」のタームで言えば、「枝分節」segmentationを排除するために「分節」articulationが創り出されることとなります。

その意味で、現行民法が守ったのは「忠孝」としての人類学的社会関係=「枝分節」segmentationであって、現行民法下の学説・判例・実務においては、旧民法の「分節」articulation的性格は排除され続けてきたのかもしれません。

では。

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彼は俗流に陥っていた法学教育と裁判実務を一変させた―木庭顕「法学再入門:秘密の扉―民事法篇」第二話『民事訴訟の基礎』

【今日の言葉】

そしてローマ大学の市民法講座を獲得し、当時俗流に陥っていた当地の法学教育と裁判実務を一変させた、と言われる。つまり、彼はまずは専門のローマ法学者であったということになる。
(木庭顕「G.V.Gravinaのための小さな覚え書」)

【読書日記】

こんばんは。ともです。

今日は、木庭教授の法学教室連載「法学再入門:秘密の扉―民事法篇」の第二話『民事訴訟の基礎』まで読んで、考えたことを書いてみたいと思います。

■木庭顕「G.V.Gravinaのための小さな覚え書」

以前のブログ記事で、法学教室の連載の第一話『占有』まで読んできて、木庭教授は「教育がしたいのだ」と、私は理解しました。

が、連載の第二話まで読んで考えを改めました。
おそらく木庭教授は、

「現在、俗流に陥っている日本の法学教育と裁判実務を一変させたいのだ」

と。

冒頭に引用した木庭顕「G.V.Gravinaのための小さな覚え書」の文章は、グラヴィーナという人文主義の文学運動家であり、且、ローマ法学者であった人物の経歴を紹介している木庭教授の論文の一節です。グラヴィーナの経歴紹介ですが、まるで、そのまま木庭教授その人自身の紹介に使えそうな文章ではないでしょうか。

木庭教授は自らを「そもそもローマ法学者でない」(「ローマ法案内」)として、「歴史学の徒」(「現代日本法へのカタバシス」)であると自己規定しています。しかしながら、冒頭の引用文をもじっていえば、「東京大学においてローマ法(=市民法)の講座を獲得」している教授が、「まずは専門のローマ法学者であったということになる」ことは、現代日本社会にあって、制度的にも実質的にも当然の話でしょう。

そして、何やら木庭教授が煙幕を張って「ローマ法学者」であることを否定しようとしているのは、ひとり文学運動家として教科書に名前を残しているグラヴィーナだけでなく、例えばライプニッツ、ゲーテ、グリムなどが「しばしば法学者であったことを忘れられている」という神話を、あたかも、ここで再現実化しようとしている、かのようです。

■岩波書店「漱石全集」第19巻

一方、逆も真なりといえそうです。

法学者が、文学者や哲学者として名前を残している例は数多くあるのですが、その逆に、文学者が、鋭い言語能力と社会観察力で、法の核心に迫っている場合があります。
その象徴的な例が、夏目漱石の次の一節です。

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二個の者がsame spaceヲoccupyスル訳には行かぬ。甲が乙を追ひ払ふか、乙が甲をはき除けるか二法あるのみぢや。
(夏目漱石「明治38,9年 断片33」)
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ここにつけられた註で指摘されている通り、夏目漱石「虞美人草」には、ほぼ同趣旨の「同一の空間は二物によって同時に占有せらるる事能わずと昔の哲学者が云った」という一節があります(虞美人草「四」章)。
これに共鳴してくるのは、木庭教授の連載の次の一節になります。

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法は必ず特定の明確な対象との関係で主体を捉える。かつ一次元で。すると、全ての二当事者は、直線上の異なる全ての任意の二点のどちらがある特定の点にヨリ近接かを一義的に決定しうる、が如くに優劣の対象となる。決して等距離ではありえない。

実は、法は衡平でなく、一方の味方であり、依怙贔屓するのです。俄然一方に加担する。
(木庭顕「法学再入門:秘密の扉―民事法篇」第一話 占有,その二)
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このように、夏目漱石は、ロンドン留学も経た英文学者として、西洋の社会に通底する「占有原理」を、既に明治時代に、日本人として早くも喝破していたということになります。

これらの西洋社会の基礎について、何故深い洞察を夏目漱石が持ちえたのかは、「漱石全集」の断片や日記、ノートなどをみると、その一端を理解することができます。そこで漱石は、「英語と日本語交じりの独特の文体」で思考を積み重ねていたことがみてとれるのです。

■フィンリー「民主主義」(講談社学術文庫)~木庭顕「解説」

そして、その漱石の西洋を読解する素養を支えたものが高等教育における「リベラル・アーツ教育」すなわち人文主義的な基礎教育であったことは容易に想像がつきます。たとえば、漱石の小説ですら、註を見ればわかるとおりに、様々なギリシャ・ローマにおける古典的素養が至る所にちりばめられているからです。(不思議に感じられた方は、例えば「猫」の註のある文庫をお手に取ってみてください。)

その「人文主義」について、木庭教授が熱く語っている文章があります。
以下に引用してみましょう。

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人文主義者とは単にギリシャ・ローマを尊重する人のことではない。確かに彼らの思想の根幹自体がギリシャ・ローマから来るから、彼らはそれを尊重しはする。しかし決して無批判であるのではない。少なくとも如何なる切片たりともそのまま持ってくることはない。その切片の理解すら常に疑って一層正確に把握しようとする。本当はどうか。それがわかったとしても、全体の脈絡を押さえてみればその基盤は実は弱かったということがわかりはしまいか。いずれにせよ無批判に依拠することは決してなく、また凡そ物事を吟味する方法や装備を身につけている。そうした精神や方法自体がギリシャ・ローマから来るとしても。もしギリシャ・ローマ自体に対してこのような態度を保持しうるとすれば、彼らがそれぞれの「現代」、つまり自分たちの現実、に対して極めて批判的な態度を欠かさないくらいは朝飯前であるということになる。
(フィンリー「民主主義」(講談社学術文庫)~木庭顕「解説」)
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つまり人文主義者である木庭教授の手にかかれば、現代日本法に対する批判は「朝飯前」であることになります。それらの成果の一端である「現代日本法へのカタバシス」が公になっている現在、更に進んで、木庭教授の「朝飯後」の関心は既に、「現在、俗流に陥っている日本の法学教育と裁判実務を一変させる」ことにあるのではないか、と思う次第なのです。

では。

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ギリシャとローマの交錯点としての憲法96条―木庭顕「デモクラシーの古典的基礎」「法存立の歴史的基盤」から読む

【今日の言葉】

「学術的」とは別の言葉で言えば「批判的」とも言えるだろう。
(長谷川修一「聖書考古学」)

【読書日記】

こんばんは。ともです。
今日は、木庭顕「デモクラシーの古典的基礎」「法存立の歴史的基盤」を解釈した地点から、―いわば「斜め後ろ」から―、憲法96条を読んでみたいと思います。あくまで私の「解釈」ですので、みなさまは「批判的」にお読みください。

■憲法96条を素直に読んでみる

まず、素直に条文を読んでみましょう。

日本国憲法 第9章 改正
第96条 この憲法の改正は、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票において、その過半数の賛成を必要とする。
2 憲法改正について前項の承認を経たときは、天皇は、国民の名で、この憲法と一体を成すものとして、直ちにこれを公布する。

■ギリシャ型デモクラシーとローマ型法システムの交錯

この96条には、ざっくり言ってしまえば、唐突かもしれませんが、古典期のギリシャとローマの歴史的経験の結婚がみられます。

まず、木庭顕の基本的な歴史的認識をみてみましょう。木庭顕がギリシャを扱った「デモクラシーの古典的基礎」およびローマを扱った「法存立の歴史的基盤」の両著書によると、最初に、ギリシャにおいて狭義の「政治」が成立し、社会構造変動に伴って民主化が進展するとともに、ギリシャでは「デモクラシー」が成立したとされます。またローマにおいては、このギリシャ型のデモクラシーの影響もうけつつ、ローマ社会構造に応じて成立したものが「法」である、ということになります。すなわち、「デモクラシー」と「法」は、政治成立後の各々の社会構造変動に対応した、等価なものであるとされるのです。

ここで憲法96条を見ると、「国会」「国民投票」というデモクラシー的契機が、ギリシャのデモクラシーから比較的原型に近い形で範をとったことが「明瞭に表れている」状況がみてとれます。他方、憲法という「法」による儀礼的(手続的な)契機がみられ、そこにはローマ法を範にとった法システムの「表出」がみられます。ここでは両者が端的に交錯していることがみてとれるのです。

「デモクラシー」と「法」がともに、社会から見放された「最後の一人」を守ること、に対するギリシャとローマの各々の解答方法であるという木庭顕の歴史的な観点からは、憲法96条は、ギリシャ型デモクラシーとローマ型法システムの二重のプロテクトをかけた手厚い規定である、ということが言えるかもしれません。

では、デモクラシーによるプロテクトとは、どういうものでしょうか。

■木庭顕「デモクラシーの古典的基礎」

木庭顕の「デモクラシー」の定義は、「二重分節」というタームによって記述されます。ここが難しいところなので、あくまで私の解釈で、ざっくり言い換えてみたいと思います。

まず、デモクラシーの前提となる「政治」の成立は、「分節」が成立することでした。言い換えると、「自由な主体(分節化された主体)が、暴力や不透明な取引を排除し、明晰な(すなわち分節化され、ディアレクティカ=純粋な論理の力による推論によって)かつ自由な議論によって、一義的にものごとを決定すること」が政治の成立であり、デモクラシーの前提となります。デモクラシーはこれを更に「二重に分節」するものとしてとらえられます。

「自由な議論」というのも結論と論拠の二重に分節され、「結論に対する論拠が歴史学等の議論の蓄積によって充分に批判され、社会構造を射程に入れた議論」によって第一段階がクリアされたものだけ、「本来の決定手続き」である次の第二段階の議論の俎上に上る、というのがデモクラシー段階の議論・決定方法だとされています。

憲法96条の文脈に沿って更に意訳すると、「民会」(96条で言えば、国民投票)にかける前段階の「評議会」(96条で言えば「国会」)による明晰かつ自由な議論のみが第一段階の議論をクリアする条件であって、第二段階の「民会」(国民投票)に進む資格要件となる、ということです。ここで、意外なことに憲法96条にギリシャ型デモクラシーがくっきりとした輪郭を備えて表れていることが端的にみてとることができます。

■違憲審査権の古典的基礎

さらに木庭教授はデモクラシー段階に入ったアテナイの状況を次のように記述します。

「こうなる(デモクラシー段階に入る)と政治的決定はオールマイティーではなくなる。一旦決定されても前提的資格が疑われる場合がある。瑕疵を帯びる場合がありうる。前提的批判が十分ではなかったのではないかと。そのような場合アテーナイなどでは裁判によって政治的決定を争いえた。瑕疵を帯びた決定を提案したのは政治システムの根幹を破壊したことに相当する、というのである。」(「ローマ法案内」46頁)

これはまるで、違憲審査権とうりふたつではないでしょうか。

■立憲主義

とはいえ、木庭顕によると、ギリシャでもローマでも立憲主義は、実質として人々の意識の中にビルトインされ機能することがあっても、規範で縛るということはなされなかったと説明しています。

近代の立憲主義は、これら古典期のテクスト解釈から自らの新しい制度を作ってきました。が、中でもローマ型の法システム、すなわち、法により「最後の一人」を守るという原理に導かれ、人権規定や成文憲法を生むことになったようです。すなわち、ギリシャ・ローマの経験の上に、自らもう一回、ローマ型の法システムによって、一段と厳しい縛りをかけたということになります。

それが憲法96条の文脈で言えば、「明晰かつ自由な議論のみが第一段階の議論をクリアする条件」を、実質的に議論の中から判断するにとどまらず、「三分の二以上の賛成」という規定で縛りをかけていることに、遠く響いてきているのかもしれません。

■標準的な教科書では...

このギリシャとローマの交錯を、端的に表現している代表的な憲法教科書があります。引用してみましょう。

「この人権(自由の原理)と国民主権の原理(民主の原理)とが、ともに『個人の尊厳』の原理に支えられ不可分に結び合って共存の関係にあるのが、近代憲法の本質であり理念である。」(芦部信喜「憲法」第5版、387頁)

ここでは、「民主の原理」=ギリシャ型デモクラシーと、「自由の原理」=ローマ型法システムが、「個人の尊厳」=「最後の一人」を守るという共通の原理に貫かれいることが端的に表現されています。

そして、この記述が憲法96条を解説した「三 憲法改正の手続と限界」の「3 憲法改正の限界」にあるフレーズであることは、偶然の一致ではないことがわかるのではないでしょうか。

では。

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