アニメ・コミック

想像力にゆだねること―高畑勲「かぐや姫の物語」

【今日の言葉】

天の海に 雲の波立ち 月の舟 
星の林に 榜ぎ隠る見ゆ
(柿本人麻呂・万葉集7-1068)

【読書日記】

こんにちは。ともです。
今日は、映画「かぐや姫の物語」を観た感想を少々。
(ネタばれありますのでご注意ください)

■かぐや姫の罪

数年前に、原作の「竹取物語」を読んだときに、三つの感想を持ちました。

一つは、かぐや姫って、子どものころ読んだ絵本とは違って、上から目線の高飛車な物言いをする人なんだなあ。と。

もう一つは、月からの迎えが、かぐや姫の罪の刑期が終了したからであり、かぐや姫の「罪」とはなんだったのだろう。と。

そして、これって、実写映画にしてみたら、とても面白いSFになるのではないか、と漠然と考えたのを覚えています。

今回、高畑勲「かぐや姫の物語」を見たいと思った理由も、「罪」とは何か、という答えを提示しているということと、どこまでSF的描写が入るのだろう、という興味からでした。

■高畑勲「かぐや姫の物語」

で観てみた感想ですが、「大変、原作『竹取物語』に忠実な、映画化だ」と思いました。

まず、あらすじは、ほぼ「竹取物語」を踏襲しております。次に、SF的な要素は極力排除されていました。唯一、最後に月へ向かうかぐや姫が、振り返って、青く丸い地球を見る場面。これはSF的な解釈を必ずしも排除しない高畑勲の姿勢を感じ取りました。

原作に忠実でなかろう、と思われた点は、かぐや姫の言動が、ただの高飛車な不思議ちゃんではなく、ジブリ的なヒロイン像といえば語弊があるのでしょうが、人間的な心を持っていたところでしょうか。これも、「このような解釈も原作からは出てこよう」という意味で、それほど違和感はありませんでした。高畑勲の狙いがまさにここにあったろうと思われます。

■SF的な解釈

で、以上を承知で、勝手に、SF的解釈を施して、映画を読み直してみよう、というのが以下の試みです。あまりにも私の勝手な読み方なので、高畑勲の真意がこうであるなどとは誤解しないようにお願いします。

まず、かぐや姫の登場シーン。光り輝く竹の子がパカっと開いて、中に、かぐや姫が入っています。SF的な解釈を施せば、異星人の流線型の飛翔体の操縦室のキャノピーがパカっと開いたとも取れる場面です。イメージ的には、宇宙戦艦ヤマトでイスカンダルからの使者・サーシャを古代進が発見する場面みたいなものでしょうか。
px1img.getnews.jp/img/archives/2013/04/yamato.jpg

では、何故、竹の子なのでしょうか。

それは、「この時代の人々」からは、「そのようにしか例えようがなかった」からだと思われます。この点については、スピノザによる聖書の奇跡についての説明が参考になると思われます。

スピノザは「神学=政治論」において、預言者とは「神から啓示された事柄について確実な認識を持つことができない」民衆、「単に信仰によってのみ啓示された事柄のみしか」受け入れられない無知で非啓蒙的な民衆のために、神の啓示=すなわち世界の真実を「解釈する者」であると定義しています。その意味で、奇跡とは民衆の理解できる言葉で、世界の真実を伝えるための「譬え」なのだといいます。

また、月の人がかぐや姫を迎えにくる場面も同じです。「この時代の人々」にとってみれば、天からやってくるものといえば、仏様。だから、「阿弥陀来迎図」のようなシーンにここはなっているのです。SF的な解釈を施せば、ルナリアン(月の人)の宇宙船が、光り輝き飛来して、神経兵器を利用し都の軍勢を無力化したうえで、流刑囚たるかぐや姫を勾引していった場面、ととらえることが可能です。イメージ的には映画「未知との遭遇」の宇宙船飛来シーンでしょうね。
http://info.movies.yahoo.co.jp/detail/typh/id22811/pidview003

■では何故?

高畑勲もこのようなSF的解釈を知らないわけではありません。ゆえに、最後の場面で青く丸い地球という「この時代の人々」が決して見ることなく、決して想像することができない場面を描いているからです。そしてこれは、唯一、地球の記憶をなくしたルナリアンたるかぐや姫の視点から見た世界の真実の場面であるということです。

では何故、この最後の場面までは、まるで「まんが日本昔話」のような和風の水彩画のようなアニメーションによってこの映画は描かれているのでしょうか。それは、「この時代の人々」の視点、なかんずく翁(おきな)と媼(おうな)の視点からこの物語は描かれているからなのです。

その点でもやはり「大変、原作『竹取物語』に忠実な、映画化だ」といえます。

高畑勲はこの絵の特徴について「どうかこれをよすがにしてこの後ろにあるホンモノを想像してくださいね」というものであると説明しています。ここでいう「ホンモノ」とは、日本の自然の多様性や美しさ、都のきらびやかさなどであろうと思われます。

が、私の勝手な想像力は、更に飛躍して、この「かぐや姫の物語」の背後にはもう一つのSF設定の裏「かぐや姫の物語」ヴァージョンがあって、そこでは、ガチなハードSF設定で、地球の歌が月世界では禁止されている理由、月世界人たちが地球を流刑地としている理由、月世界人のハイテクノロジー、すなわち月世界人の非生体的記号操作による生存形態と都市形成などがあり、実は「その後のかぐや姫」という続編があるのではないか、などと思ってしまうのです。

■冒頭に掲げた柿本人麻呂の歌を再掲します。

天の海に 雲の波立ち 月の舟 
星の林に 榜ぎ隠る見ゆ
(柿本人麻呂・万葉集7-1068)

これですら、「ルナリアンの宇宙船が煙を立ち上げて昇っていく様を仰ぎみる人麻呂」という映像が浮かんだ私ですので、どうかご容赦ください。あ、最後に。高畑勲「かぐや姫の物語」は傑作ですよ。

では。

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その後の世界―エヴァQとぼくたちの失敗

【今日の言葉】

そもそも、社会の基本的な枠組みに関わるということは、あれやこれやの権威・権力・関心・利害以前の、或いはその外の、それらすべてを制約する、事柄に関わるということを意味する。現実の厳しい対立状況に言葉一つを武器に割って入る、皆が一定方向に流れるときに枠組みをタテにとって敢えて嫌がられることを言う、そのかわりに沈む船から最後に脱出する類の責任感を持つ、というメンタリティーは社会の基本的枠組みに関わる者に固有のものである。
(木庭顕「法学部―批判的紹介の試み」)

【読書日記】

こんにちは。ともです。
今日はエヴァQを観ての覚書です。
ネタバレを含みますので、観てからお読みいただくことをお勧めします。

【以下、ネタバレあり】

■エヴァ破

まずは前作のおさらいです。

2009年7月6日のこのブログで、エヴァ破について書きました。
http://tomonodokusho.cocolog-nifty.com/blog/2009/07/post-e050.html

そのなかで、エヴァ破のテーマは「新しい政治」であろうと僕は読んでいます。
スピノザが「神学=政治論」で明らかにしているように、神と政治は等値可能です。
ミサトのセリフ「この世界が終る」を、「古い政治が終る」と読み替えたわけです。

その後、現実に日本では政権交代が起きました。
エヴァの前作は、日本社会の現実を扱っていたことになります。

そして、その動機を「かけがえのないひとりの女性を守ること」に求めています。
政権を獲った政党のスローガンが、モノから「人へ」と訴え、党首が「命を守りたい」と演説したのを多くの方は覚えているのではないでしょうか。ここで、エヴァと日本社会が妙なシンクロをしていたことをまずは思い出してみましょう。

■エヴァQ

そこで、今回のエヴァQです。

その展開についてはいろいろな議論があるようです。
物語内部のさまざまな符牒から、謎を精緻に読み解こうとしている人もいるようです。
単純に、物語にカタルシスが見られないことから、否定的に評価する向きもあるようです。

確かに、物語としてみると、カタルシスのない、その意味で「出来の悪い」話だということも可能です。

ここでは、前作について僕が読んだことの延長線で、エヴァQを観てみたいと思います。つまり、日本社会との「妙なシンクロ」です。

■ぼくたちの失敗

エヴァQを「日本社会の現実」を扱ったものという観点で見てみるとどうなるでしょうか。

「あれから」、その後、日本の社会は大きく変わってしまいました。
政権党は、その公約の主要な部分を、実現できませんでした。
より悪くなってしまった、という評価も、全否定することは困難です。

また「命を守りたい」という切実な主張とは裏腹に、3・11により多くの尊い命が失われました。そして、福島県沿岸の状況も、未だに本質的な解決策を見いだせてはいないようです。また、ここにきて日本社会に対する国際社会からの風あたりも厳しくなったようです。

さまざまな「インパクト」が日本の社会を襲ったと言い換えることもできるでしょう。

■そこからの景色

これは、エヴァQで、シンジがみた「その後の景色」と非常に似ています。

「そんなつもりはなかったんだ」

日本の社会には、シンジと同じような言い訳をしている人間が、見当たらないでしょうか。
政治、社会、経済、科学技術の分野において、リーダー、エリートとみなされる人間が、そのような言い訳をしている場面を、「あれから」何度も見てきたのではないでしょうか。

エヴァQをみて否定的な評価をしている人は当然です。
せっかく、肯定的な物語へと変化しようとしていたエヴァに期待をして見に行ったところ、逆に、見たくもない出来の悪い物語、すなわち「自分たちの現実」のようなものを突き付けられたのですから。

「助けてなかったんだ」

そう日本の社会、つまり僕たちは、世界を救っていなかったのでした。

■開かれた未来

こうしてみると、エヴァQの最後の場面は、きわめて象徴的です。
あてどもなく歩く3人の後ろ姿。
どこへいくのか、明確な行き場もなく、どちらを見ても荒れた大地。

それでも僕たちは歩いて行かなければいけない。
やり直し(redo)ができることを希望として。

と、あまりにもざっくり観てしまったので、正直、好きとか嫌いの問題よりも、「わかるなあ」というのが感想です。以前、宮崎駿が「庵野くんは、震災以降、どう描いていいのかとても悩んでいるようにみえる」とどこかのインタビューで語っていた通り、今作が、その答えだと思いました。

「その後の世界」

それでも僕たちは歩いて行かなければいけない。
やり直し(redo)ができることを希望として。

では。

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中身は空っぽ―ねむようこ「午前3時の不協和音」、綿矢りさ「仲良くしようか」

【今日の言葉】

“カワイイね”って
近づいてくる人は

大抵

“カワイイだけだね”って
離れていくの
(ねむようこ「empty heart」)

【読書日記】

こんばんは。ともです。
今日の読書は、ねむようこと綿矢りさを読んでみたいと思います。

■ねむようこ「午前3時の不協和音」

ねむようこの最新作「午前3時の不協和音」は、「午前3時の無法地帯」、「午前3時の危険地帯」と続いた恋愛大河ドラマのスピンオフ短編集です。

鬼営業・輪島の本質に迫る逆転劇の「ガゼルのたてがみ」や、堂本と真野の別れ話の意外な顛末を描く「大人の事情」など、魅力的なサブキャラクターに焦点をあてたanother world が楽しめます。

なかでも、「午前3時の危険地帯」で、ヒロインたまこのライバル?だったアキホを主人公にした「empty heart」が秀逸だと思います。元キャンギャルで美人のアキホが拾った綺麗なラッピングの箱の中身は、

「空っぽ......」

でした。

「可愛いのにほどかれるのがアイデンティティー」の綺麗なラッピングを、アキホは、

「まるで、私みたい...」

とラッピングにハマっていきます。

■綿矢りさ「仲良くしようか」

綿矢りさ「仲良くしようか」を読みながら、ねむようこが描くアキホの物語が頭に浮かんだのは、

「私があんまり中身の無いつまらない人間」

というフレーズにぶつかったときでした。

この綿矢りさの最新小説は、「作者自身を主人公に、身辺の実生活や心境を体験の告白という形で描いた小説。自己凝視の中に真実性を求めようとする。身辺雑記風のものを私小説。観照性の高いものを心境小説とよぶことがある」(日本語大辞典)という定義に照らせば、綿矢りさの「私小説」。とりわけ「心境小説」と、解釈できなくはない構成を持っています。

ストーリーはほぼ無いに等しく、敢えて言えば、男と喧嘩別れした小説家の「私」が、家の前で待ち構えていたファンの娘を部屋に招きいれて「仲良くしようか」と(明示はされていないが)耳元でささやくまでの、「私」の言動や夢を綴った短編です。

■「書き出し」の分析

とはいえ、これは綿矢りさの「私小説」ではないだろう、というのが僕の読みです。

これまで綿矢りさを読んできた一つの教訓が、「書き出し」に、小説の主題が隠されている、ということでした。この小説「仲良くしようか」では、

「ぜいたくとは何か。」

と「ぜいたく」の定義を問う人称不定の一文から始まります。例えば、ドゥルーズ・ガタリ「哲学とは何か」では、哲学とは「概念の創造である」という回答が提示されています。ここでは、綿矢りさは「ぜいたくとは、是々、である。」という回答の代わりに、「私にとってそれは、」と、「ぜいたく」の本質とは関係の無い、個々の「名詞」を挙げていきます。続いて、

「宝物とは何か。」

と「宝物」の定義をとう一文が続き、まったく同じように、「私にとってそれは、」と、「宝物」の本質とは関係の無い、個々の「名詞」を挙げることを、繰り返していきます。

ここで問われているのは、「ぜいたく」や「宝物」の定義とか本質なのではない、ということです。
では、「何が」問われているのでしょうか。

答えは、そこに書いてある、すぐ直後に来る、「私」という言葉なのです。

すなわち、「私とは何か。」

あくまで、「私小説」ではなく、「私とは何か。」という主題の小説として読むことにより、この小説が、何を描こうとしているのかが、よく見えてきます。

主人公は「私」という一人称で語り、「あなた」という二人称でしか指示されません。紙に署名する際にも、「自分の名前」という一般名詞でしか指示されない、固有名詞が存在しない主体なのです。注意深く読むと、「私」は、いくら似ているように読者にイメージされようとも、「綿矢りさ」では、無いことが示されています。

その「私」とは、「中身の無いつまらない人間」という定義を与えられる存在なのです。

■仲良くしようか

言葉が、シニフィアンとシニフィエという2つの要素の恣意的なつながりによって、成り立つものであることを示したのが、言語学者のソシュールでした。シニフィアンは、あくまで、言語体系の関係性の中に位置づけられることによって、シニフィエとの関係を持つに過ぎないということです。犬という日本語のシニフィアンは、別の言語体系である英語の中では、そのシニフィアンだけでは意味を持ちません。犬という日本語の言語体系におけるシニフィエと、Dogという英語の言語体系におけるシニフィエとの結びつきが、翻訳されることにとって、犬とDogの関係性が生まれるのです。

これと同じように、「私」とは、「中身の無い」人間のシニフィアンに過ぎません。

ねむようこが描くアキホが、ラッピングを他人に渡し、他人との関係性を持つとき。また、綿矢りさが描く「私」が、「仲良くしようか」と他人にささやくとき。そこに、はじめて、他人との関係性のなかで「中身の無い」主体のシニフィエが立ち上がってくるのを、読者は見ることになるでしょう。

では。

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本を読む女―磯谷友紀「本屋の森のあかり」、西炯子「姉の結婚」

【今日の言葉】

あかんわ...
聞いてへん...
全然聞いてへん...
(島本和彦「アオイホノオ 8」)

【読書日記】

こんばんは。ともです。
今日の読書は、最新刊がでた磯谷友紀「本屋の森のあかり」と、西炯子「姉の結婚」です。

■女子マンガ

「女子会」とかいう言葉をよく耳にするようになった頃から、何故か、女性マンガ家の活躍がすごいなと感心しているのですが、一方、男性マンガ家では、島本和彦「アオイホノオ」の暑苦しさが、「そんな話は全然聞いてない」とでも言わんばかりに、無駄に孤軍奮闘しているような印象でしょうか。

男性漫画家が描く「男性マンガ」の暑苦しさに対して、「女性マンガ家が描く、男子主人公のマンガ」を仮に「男子マンガ」と呼んでみることにすると、小玉ユキ「坂道のアポロン」や羽海野チカ「3月のライオン」のなど、最近では、錚々たる「男子マンガ」の作品が、本屋の店頭に並んでいます。

一方、女性マンガ家が描く女子主人公のマンガ、「女子マンガ」で言えば、「にこたま」の渡辺ペコや「午前3時」シリーズのねむようこなど、ガ―リーで、ストーリーテリングに優れた作家が多い印象です。

■本を読む女

その中でも、磯谷友紀「本屋の森のあかり」と、西炯子「姉の結婚」は、「本を読む女子」をヒロインとしていることで、異色です。

「本屋の森のあかり」のヒロイン高野あかりは、全国展開している大手書店の書店員。「姉の結婚」のヒロイン岩谷よりは、東京から地元に戻った中崎県立図書館の司書。という設定ですから、必然的に、作品中で、本を読む場面も多く出てきます。

このヒロイン達が、「本好き女子」と言い切っていいのかは、それぞれ年間の読書冊数が、作中で示されている訳でもありませんので、読む人が、どこからを「本好き」と呼ぶかという定義によっても変わってくるのでしょうが、その他の女子マンガでは、女子が読書をしている場面をそう見かけることはありませんので、一般女子よりは、よく本を読んでいる方だ、とは言えそうです。

■読書女子の恋愛とキャリア

とはいえ、このふたつの作品はテイストが全然違います。
おそらく、読者層も、全く違うのではないでしょうか。

「本屋の森のあかり」は、「わたしもうすぐ30なのに」というアラサー女子の純愛を描いているのに対し、「姉の結婚」は、「気がつけば40手前」というアラフォー女子の不倫を描いています。女子は、自己規定をするのに、どうも年齢を気にするところが、男子とは違います。年齢によって、恋愛の形が違ってくるかのようです。

また「本屋の森のあかり」のヒロインは、キャリアアップを目指して転職活動をしているのに対して、「姉の結婚」のヒロインは、東京で築いたキャリアを捨てつつも、大手出版社から書評を依頼される程度の成功を収めている女子として描かれています。

同じ読書女子を描いていても、このように年齢による、恋愛とキャリアの違いが、二つの作品では、示し合わせたわけでもないのに描き分けられています。もしかしたら、「働きマン」(安野モヨコ)が増えている社会的現実を、図らずも反映しているのかもしれません。

■アラフォー男子としては...

で、ふたつの作品のどちらからも想定外の読者であろうアラフォー男子である僕が、何故、最新刊が出るのを待ち望んで読んでいるかというと、単純に面白いからです。

「本屋の森のあかり」は、作中で紹介される本と、ストーリーが重なってくるところが、とても興味深いと思います。最新刊の11巻では、夏目漱石「三四郎」が、重要なキーになっています。

「迷える子」(ストレイ・シープ)の作中における意味を理解したヒロインは、それを、自分の今いる場所で、自らに照らし合わせて「気づいた」とき、大きく、一歩を踏み出します。

読書していると、望んでいたわけではないのに、ふと、1冊の本が、進むべき道を指し示す瞬間が、訪れることがあります。「本屋の森のあかり」では、そのリアリティが描かれていると思います。

また「姉の結婚」は、熟れ落ちる寸前の女子の複雑な心理を丁寧に描いているところがすごいです。アラフォー独女の毒と華。それを生々しく、リアルに描いているのが、とても感心します。あと、登場人物から繰り出される数々の暴言。西炯子は人間観察がするどいですね。

そういえば、息子がこの前読んでた本の表紙が西炯子(はやみねかおる「都会のトム&ソーヤ」)で、あれは、心臓によくない瞬間でした。

■ところで...

えっ、「そんなこと言ってる僕の妻」ですか?

図書館勤務ですけど 何か?

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見つけたぞ。何を?-えすとえむ「このたびは」、ジャン=クレ・マルタン「フェルメールとスピノザ」

【今日の言葉】

Elle est retrouvée.
Quoi? - L'Éternité.
C'est la mer allée
Avec le soleil.
(Arthur Rimbaud―L'Eternité)

もう一度探し出したぞ。
何を?永遠を。
それは、太陽と番った
海だ。
(アルチュール・ランボー「永遠」)

【読書日記】

こんばんは。ともです。
今日は最近読んだ印象に残った本をご紹介します。

■えすとえむ「このたびは」

数年前に、ふと手にした大学時代の教科書の後ろ扉に、ランボーの詩「永遠」が書き写してあるのを見つけて、嗚呼あのときはゴダール「気違いピエロ」を観てかぶれていたなあと懐かしいような、こっ恥ずかしいような気持ちになりました。おそらく期末試験の気休め、というよりも現実逃避にランボーの詩などを書き写していたに違いありません。その既視感をマンガで味わうことになろうとは思ってもみませんでした。

えすとえむの「このたびは」を手に取ったのは、当然、話題の「うどんの女」がよかったからです。この短編集はどれもいい話ですが、第三話「K」でランボーの詩の不意打ちをくらいます。死と詩。永遠と愛。若かりし日のランボーを読む男。夢の中の出会い。どれも、ぐっと心を鷲掴みです。「気違いピエロ」を髣髴とさせる海の場面。主人公ユミの名前は「優海」。優海がつぶやく「・・・・・・そんな・・・」は、「気違いピエロ」の主人公が、裏切り者のヒロインをピストルで撃った後、海岸に出て、自分の首に爆弾を巻きつけて火をつける、「こんなバカな死に方が・・・」というセリフと重なる場面です。すごい才能の作家ですね。

■ジャン=クレ・マルタン「フェルメールとスピノザ <永遠>の公式」

えすとえむの「このたびは」を読むすこし前から読み始めたのが、ジャン=クレ・マルタン「フェルメールとスピノザ <永遠>の公式」。フェルメールとスピノザがすれ違う17世紀オランダをスリリングに描き出す哲学的=絵画的エッセイです。

なぜ、フェルメールの描く女性は、永遠のまなざしを持ってわれわれを見つめるのか。
なぜ、フェルメールはいつも光るが差し込む部屋を描くのか。
なぜ、スピノザの永遠は、われわれに生きる力を与えるのか。

もしかしたら、この本を読んだ人には、その答えが見つかるかもしれません。

では。

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あなたらしく生きること-石井あゆみ「信長協奏曲」、曽田正人「MOON」

【今日の言葉】

Be yourself, no matter what they say.
(Sting “Englishman in New York”)

【読書日記】

こんにちは。ともです。
今日は最近気にになったマンガからです。

■石井あゆみ「信長協奏曲」

現代から戦国時代へタイムスリップし、信長のように生きる。といえば、すでに半村良「戦国自衛隊」という名作SFがあるのですが、石井あゆみ「信長協奏曲」は、そんな小説があったことすら忘れさせるような面白い信長像を提示しています。

勉強嫌いで、授業なんかまるで聞いていないという主人公の自由さは、東村アキコの実弟・森繁拓真が描く「となりの関くん」とタメを張るキャラクター設定。(ちなみに「関くん」は避難訓練の回がすごくいい。)そんな現代っ子が戦国時代に行ったらどうなるのか、というまったく新しい自由な信長像と、奇想天外なんだけど説得力のある歴史解釈を差し出しています。

「いーや。好きに生きよ。」

というセリフにもかかわらず、主人公は、どんどん我々が知っている歴史上の信長の足跡をたどっていきます。すでに伏線が張られているとおり、このマンガの最大の見せ場は「本能寺の変」にあり!と思われるのですが、奇想天外なだけに「先が読めない」という、歴史もののはずなのに続きを早く読みたくなる不思議なマンガです。
あと、信長の奥さんの帰蝶がムチャかわいすぎです。

■曽田正人「MOON」

昔、週刊スピリッツに連載されていた「昴」の続編に当たるのが新章「MOON」。バレエの抜き出た才能をもったヒロインを、圧倒的な筆致で描いた紛れもない傑作です。やや中途半端に終わってしまった「昴」の続きが読めるとは思っていなかったので、「MOON」第1集が発売されたときは、再開を待ち望むファンは意外と多かったのだなと驚きました。1ページ目を読み始めただけで、怒涛の物語が迫ってくるのを感じられます。

熱いオーラとほとばしる才能を放つヒロインのスバルを、映画にしたら、さぞスゴいことになるだろうと長いあいだ思っていましたが、実は「昴」を映画化した黒木メイサ主演映画よりは、ナタリー・ポートマン主演「ブラック・スワン」の方が、このマンガの息づかいや世界観に近く感じられます。

このヒロインは、はみ出た才能が、結果的に周囲をふりまわしてしまうところが、魅力なのですが、最新刊の「MOON」第8集では、「パワーを内に込めること」をヒロインは試みるようになります。「らしく」ありません。

あなたらしく生きること。誰がなんといおうがかまわない。

自由に生きようとする主人公2人の軌跡は、奇しくも、一方では知らない間に歴史をなぞり、他方では自分を抑制することに向かいます。自分らしく生きることは何と難しいのでしょうか。そんな問いかけを、石井あゆみ「信長協奏曲」と曽田正人「MOON」はしているようです。

こんなに自由で不自由な主人公を描けるのは、この二つの作品を神のように生み出している「作者」が、実は誰よりも「自由」で「不自由」だからかもしれません。

では。

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なぜあなたがここに―石川雅之「もやしもん」、小林有吾「水の森」

【今日の言葉】

「聖ジャンヌ なぜ あなたが ここにっ」
「ニューオーリンズ 仏語で ヌーベル・オルレアン
 ジャズの発祥地として有名なこの地は かつて
 フランスが統治していたんだヨ」
(石川雅之「もやしもん10」)

【読書日記】

こんばんは。ともです。
今日はマンガ特集。まずは「もやしもん」から。

■石川雅之「もやしもん」10

ご存知「もやしもん」最新刊です。ノイタミナ枠で実写版をやった影響か、そのむかし上野の科学博物館の菌類展示でコラボしてたときは大混雑で、オリゼーかわいい~とかいいながら携帯でパシャパシャ撮影してる女子が目に付きました。

自己紹介によると「もやしもんは農大を舞台とした菌と人と菌 菌と菌の群像劇」(7ページ)だそうですが、10巻もブッ飛ばしてます。またまた無意味にアメリカなんぞに行き、豊富な薀蓄を背景にアメリカの食文化を語りつつ、菌キャラと女子キャラのかわいさで男女ファンの心を鷲掴みです。もう、ただ単純に面白いです。

冒頭に引用したのはフランスのゴスロリ娘マリーがジャンヌ・ダルクの像を見上げながら農大の樹教授の薀蓄を聞いている場面。ニューオーリンズNew Orleansがヌーベル・オルレアンNouvelle-Orléansに由来していたとはビックリです。

石川雅之には「純潔のマリア」というマンガもありその副題はSorcière de gré, pucelle de force (意思の魔女、力の乙女、とでも訳せばいいのかなあ)です。「オルレアンの乙女」la Pucelle d'Orléansと呼ばれたジャンヌ・ダルクに題を取っていることは明らかで、ジャンヌ・ダルクの像を見つけたマリーの驚きは、そのまま現地取材をしたときの作者石川雅之の驚きでもあったようです。

■小林有吾「水の森」1~3

そのジャンヌ・ダルクが「もし現代日本に生まれ変わったら」を描いたのが、小林有吾「水の森」です。既に3巻で完結しています。ちょっと、復習のためにジャンヌ・ダルクの生涯を、教科書の記述からひろってみましょうか。

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「救国の乙女」また「オルレアンの少女」とたたえられるジャンヌ・ダルクは1412年フランスの東部の小村ドンレミに農民の娘として生まれた。当時フランスは百年戦争でイギリス軍に圧倒され国内は2派に分かれて内戦が起こり、皇太子シャルルは父王シャルル6世が死んでも即位式も上げられない状態であった。さらに1428~1429年には唯一つ外敵に抵抗するオルレアン市民がイギリス軍に包囲されて亡国の危機に瀕していた。
 ジャンヌは信仰心の強い少女で13歳のころから「フランスを救え」という神のお告げを聞いたと信じシャルルと会見して軍隊を与えられ、敵軍を破ってオルレアンの囲みを解いた。そして皇太子とともにランスに行きシャルル7世として戴冠式を挙げさせた。その後もイギリス軍や反対派を相手に奮闘したがコンピエーニュで反対派に捕らえられイギリス軍に売り渡された。イギリス軍は彼女の言動を神の名によって人を惑わせたものとして魔女裁判にかけ、1431年についに魔女の判決を下してルーアンで火刑に処した。
(世界の歴史編集委員会「もう一度読む 山川世界史」)
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もう一度いまさら読む山川教科書の記述に頼らなくても、魔女狩りのばかばかしさや異端審問所裁判のいかがわしさは、ウンベルト・エーコ「薔薇の名前」を原作にした映画を観るとイメージがつかめますが、そこには火刑のシーンも出てきます。小林有吾「水の森」では、ジャンヌは自ら絶望し火刑をうける決心をしたと解釈しているようですが、その瞬間、手乗りインコのような鳥が飛んできて600年後の日本にジャンヌを飛ばしたという設定になっています。ふつう西洋絵画では、もうちょっとかっこいい鳩が神の伝言者のイメージなのですが、このインコは結構いい味だしてます。もうすこし、教科書から引用を続けます。

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 ジャンヌはまもなく魔女取消しの裁判によって復権するが、奇妙なことにはそれから約350年間は歴史の上でほとんど忘れられてしまう。そして彼女が再び歴史の舞台に押し出されたのは、国民主義の燃え上がったフランス革命の直後、19世紀初めであり、押し出したのはナポレオンであった。彼は当時イギリスを始めヨーロッパ各国と戦っているフランスをジャンヌが活躍した時代の危機にたとえ、国民意識の高揚を促すとともに皇帝になろうとする自分を正当化した。以来、彼女は「愛国の乙女」としてフランス人の敬愛を一身に集めることになったのである。
(世界の歴史編集委員会「もう一度読む 山川世界史」)
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ここまで読んできて、勘のいい方であれば、なぜジャンヌは永らく歴史から忘れられていたのに「復権した」とわかるのか、そもそも自伝の一つも残さなかった中世の一農民の娘の出生が1412年フランスの東部の小村ドンレミとなぜ特定できるのか、それをナポレオンはどうやって利用できたのか、という疑問をお持ちになったかもしれません。

種明かしは実は簡単で宗教裁判の記録が現在も残っているからです。さまざまな証人の証言等からそれらが証明されたことがわかっています(岩波新書の高山一彦「ジャンヌ・ダルク―歴史を生き続ける『聖女』 」に詳しいです)。おそるべきは、いかに宗教裁判がいかがわしいからといっても、それを恥として捨てないというアーカイブの概念が中世時代からあったということでしょう。そういえば日本でも戦前の重要な事件の裁判記録は未だ検察庁の倉庫に眠っているそうですし、戦前の発禁図書を集めたコーナーが国立国会図書館の地下倉庫深くにあるそうです。いつか一般にもアクセスしやすい形で公開されるのでしょうか。

話は小林有吾「水の森」にもどると、突然現代日本に飛ばされたジャンヌは自分の力をもてあましたまま困惑した日々をすごしていきます。最終巻の3巻では「ある決断」をジャンヌはすることになるのですが、それは読んでのお楽しみです。

なぜあなたは、ここにいるのか。

その問いに答えようとする現代のある側面をうまく切り取った作品だと僕は感心しました。

では。

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世界の驚愕すべき尋常ならざる美しさ―くらもちふさこ「駅から5分」「花に染む」

【今日の言葉】

「そして、その日こそ私たち誰の目にもはっきり、この世界の驚愕すべき尋常ならざる美しさが見てとれることだろう......」(ヘンリー・ミラー)。
(ジル・ドゥルーズ「スピノザ」)

【読書日記】

こんにちは。ともです。
今日の読書は、くらもちふさこの「駅から5分」「花に染む」です。

■くらもちふさこ「駅から5分」

そのむかし、くらもちふさこ「駅から5分」を書店の店頭で見かけたとき、平積みの量から売れてるようだとは薄々気づいたものの、表紙の絵柄が「いかにも」少女マンガらしくて「読まず嫌い」な本でした。(ケータイ小説原作のマンガかと間違えてました。)その後、よく行く大きな書店で「このマンガがすごい!2009」の特設コーナーが開設されており、この本が女性作家2位であることを知りました。しかも本が「売り切れ」だったのが妙に気になり、わざわざ近所の本屋で見つけて買いました。

で、読み始めても、普段読まないマンガの絵柄なのでどうも慣れなくて、しかも誰が主人公なのか全然良く分からなくて、「なんだかなあ」と思って、エピソードをひとつ、ふたつと読み進めていくうちに気づきました。

これは、絵柄に反して凄い前衛的です。

とにかく、時間感覚が不明になる位、フラッシュバックが多くてクラクラします。
絵は余白の使い方がとてもうまいです。さすが美大の日本画科。

■くらもちふさこの「花に染む」

そのくらもちふさこが「駅から5分」をいったん休載して、現在執筆中なのが「花に染む」です。
実は中心人物である男性が「駅から5分」と「花に染む」では一緒です。

なぜわざわざ「違う題名」で同一の登場人物を描き、同一の架空の町「花染町」を舞台にするのか、不思議に思いました。もしかしたらパラレルワールドでも描いて、さらに前衛性に磨きをかけるつもりなのか、とも邪推してみたのですが、どうも違うようです。

その謎が解けたのは、「駅から5分」のある女性キャラクターが「花に染む」にでてきた場面。
「花に染む」では中心人物の男性の幼馴染である「地味な女性」が語り手(主人公)となっています。彼女の物語が語られていく中、出会うはずがないように思われた「駅から5分」の「派手な」ある女性キャラクターと「花に染む」の「地味な」主人公が遭遇するのです。

ここで作者の意図が判然とします。
「駅から5分」はある「一つの時点」での「花染町」のさまざまなひとたちを描くことで、共時的なひとびとのつながりを描いていました。それがフラッシュバックが多くてクラクラするように感じた理由でした。一方「花に染む」は花染町とは別の場所の「過去」から、「駅から5分」の世界における「現在」に至る「タイムライン」に沿ってひとびとのつながりを通時的に描いていたのです。

「駅から5分」と「花に染む」という題名は、それぞれ「共時性」synchronicityと「通時性」diachronicityを表す象徴だったのです。別の物語として語る必然性があったことになります。

■世界の驚愕すべき尋常ならざる美しさ

では何故「駅から5分」と「花に染む」はこのような複雑な語りの構造をもっているのでしょうか。
このような語りの構造を通じてしか表現できないと作者が考えた何かがあると思われます。
私には、作者は「この世界」すなわち「現代」をリアルに描こうとしているように思われます。

風俗としての現代であれば、それこそ至る所にケータイ小説などの貧しい文学的現実があり、なにも、くらもちふさこがわざわざ語りの構造を駆使して描く必要はありません。

東日本大震災の後、見えてきた「現代」のリアルとは、日本で地震が起きれば、アメリカやヨーロッパでモノが作れなくなるという共時性。そして科学的な知見に関して、これまで別々の場所で別々に行われてきたことや出会うことのないように思われた人や知恵が遭遇しているという通時性であるように思われます。それをこれまでわれわれはグローバリゼーションなどと呼んできたのかもしれませんが、これほどまでにリアルなものとは捉えてはいなかったのではないでしょうか。

ドゥルーズがヘンリー・ミラーを引用していう「この世界の驚愕すべき尋常ならざる美しさ」。
「美しさ」というのが不適切であれば、「精密なつながり」とでも言い換えるべきもの。

くらもちふさこの「花に染む」はちょうど「駅から5分」の「現在」に追いついたところで震災後出版されました。「花に染む」と「駅から5分」の世界が交わった今、どのような展開になるのか注目されます。いまだ書かれざる物語。いま、まさに書かれようとしている物語。それはあまりにも「現代」と酷似しているように思われます。

では。

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永遠のローマへ-ヤマザキマリ「テルマエ・ロマエ」、木庭顕「ローマ法案内」

【今日の言葉】

異国の言葉(ラテン語)で記された異国の法(ローマ法)は、
学者によって導入されたものであり
学者だけがこれを理解することができた。
(イェーリング「権利のための闘争」)

要するに「ローマ法」を何か打ち出の小槌のように神秘化して捉えてはならず
この態度はまた古色蒼然たるもののように感じて忌避することにも繋がる。
そして神秘化から免れる唯一の方法は人文主義的方法である。
(木庭顕「ローマ法案内―現代の法律家のために」)

【読書日記】

こんにちは。ともです。

今日の読書のテーマは永遠のローマ。
まずは、今年注目を浴びたヤマザキマリ「テルマエ・ロマエ」から。

■ヤマザキマリ「テルマエ・ロマエⅠ、Ⅱ」

正直はじめてⅠ巻を手に取ったとき、「ローマの風呂」だけで単行本マンガが成り立つものだろうかといぶかしがったものですが、読み出したらこれが面白くてとまらず、Ⅱ巻が出たとき迷わず買い求めたものでした。

ローマの「浴場技師」がタイムスリップして「平たい顔族」のいる現代日本の風呂文化を堪能するという話は、どうかんがえてもSFじゃあないし、そこのところのカラクリは全く無視して(何でタイムスリップするのかまったくわからない)、能天気にローマと日本の風呂文化を紹介し「もし日本の風呂文化がローマにあったなら」を絵にしてしまう構想力はすごいものです。不条理な状況においてもいつも明るいラテン人のなかで生活したことのある人だけが描きだせる、独特の味わいとでもいったらよいでしょうか。

■木庭顕「現代日本法へのカタバシス」

「テルマエ・ロマエ」を読みながら頭をかすめたのは、昔「法学教室」という雑誌に掲載された「現代日本法へのカタバシス」。タイムスリップしたローマ法学者が現代日本の法を論じた「偽書」を、木庭顕東大法学部教授が翻訳紹介するカラクリになっています。共通点は「ローマ」と「タイムスリップ」。相違点は、木庭教授の周到なカラクリです。

まず木庭教授によると、これは「偽書」ではない由。カンパネラの名前まで持ち出して17世紀西欧の知識人が錬金術に代表される魔術をサイエンスとして大まじめに研究していたことを指摘し(ピンと来ない人はディズニー映画「魔法使いの弟子」を観ましょう)、ローマ法学者が水晶玉で同僚をタイムスリップさせたことになっています。その水晶玉に映し出された同僚の言葉を17世紀に書き写して出版したのだと。

そこまで言われてしまうと「理由なくタイムスリップしようが、魔法を使ってタイムスリップしようが、もうどうでもいいや。とはいえ、さすがナポリに留学した木庭教授のことだけあってラテンの血を引いたうまい冗談だ」と手をたたいてしまえば済むかのように思われますが、実はここからまだ先があります。

■木庭顕「G.V.Gravinaのための小さな覚え書」

「現代日本法へのカタバシス」には二人のローマ法学者が登場します。一人は魔術を操る水晶玉の法学者。もう一人は人文主義を愛する法学者です。「偽書」でないとするならば、この二人にはモデルがいるはずです。しかも17世紀のローマ法学者。この謎を解き明かすには「国家学会雑誌」に掲載された小論「G.V.Gravinaのための小さな覚え書」を読み解く必要があります。

「G.V.Gravinaのための小さな覚え書」の論述の基本線は、スピノザとモンテスキューをつなぐ思想的系譜上にグラヴィーナという人文主義法学者がおり先駆的な市民社会論を展開していたという点にあります。また寄り道として、その系譜上の「縦のライン」とは別に、「横のライン」としてグラヴィーナと同世代の思想家ヴィーコが紹介されています。ヴィーコは「自叙伝」を読めばわかるとおり実はローマ法の教授になれなかったローマ法学者です。そして木庭教授はヴィーコの「verum=factum」論を魔術的と評し、人文主義法学者であるグラヴィーナと対比しているのです。木庭教授がグラヴィーナの側に陣取っているのは明らかでしょう。

そうです。お気づきの方もいらっしゃるとおり、「現代日本法へのカタバシス」は「もしグラヴィーナが現代日本に生きていたなら」という空想小説の形を借りて、木庭教授が人文主義法学宣言をしているマニフェストだったのです。

■木庭顕「ローマ法案内―現代の法律家のために」

その木庭教授が初めてローマ法の概説書を著したのが「ローマ法案内―現代の法律家のために」です。著者曰く「そもそもローマ法学者でない」とのことですが、今まで見てきたとおり「人文主義法学者」であることの裏返しとして挑発的に言っているにすぎません。

では誰を挑発しているのか。

同時期に公表された「債権法改正の基本方針」批判論文では「ロマニスト」と名乗っていますから、もしかしたら「ロマニスト」を名乗れるのはサヴィニーと木庭教授だけで、それ以外は骨董屋ローマ法学者、その成れの果てである日本の民法学者はただの似非ローマ法学者だと言っているのかもしれませんが、そこまでは書いていないので真偽のほどは不明です。

ただ「『債権法改正の基本方針』に対するロマニスト・リヴュー,速報版」において起草者達である日本の民法学者を「まるで何も知らないゼミ学生のレジュメのようだ」と一笑に付しているところなどを読むと、不条理な状況においてもいつも明るく笑ってしまえというラテン気質を垣間見る気がします。「改正過程に参画する議論を構成しない」とは「チャンチャラおかしくて笑うしかない」という意味の控えめな表現に思えるのは、私だけでしょうか。

では。

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当て馬でも引き立て役でもないの - 青木幸子「王狩」、「茶柱倶楽部」

【今日の言葉】

いいえぇ
パパは将棋指しません
情報処理の技術研究をしていて
そのお仕事だけでも忙しいのに
コンピュータ将棋のシステムを組むのに夢中なんです
(青木幸子「王狩」)

【読書日記】

こんにちは。ともです。

少し前の休日。面白いイベントがあるというので妻にたたき起こされ、息子と一家三人で東大本郷キャンパスへ行きました。そこでおこなわれたのは「コンピュータ将棋と女流王将の対決」。

すでにいろいろなメディアで伝わっているので、ご存知の方も多いかもしれませんが、結果は「コンピュータの勝ち」。対局後の会見の場では、負けても気丈な清水市代女流棋士にたいし、米長邦雄将棋連盟会長がまるで「娘の結婚式のパパ」のようにに動揺していたのが印象的でした。対局前の挨拶では「今日は東大の銀杏(いちょう)がきれいで、市代(いちよ)を応援しているようだ」と笑いを取る余裕を見せていたのですが。

というわけで、まずは将棋マンガの紹介からです。

■青木幸子「王狩」

このマンガの主人公は久世杏、12歳。6歳のときのある出来事をきっかけに、将棋の面白さに目覚めます。キャラクター設定が秀逸で、彼女は2歳以降の記憶をすべて「画像」として再現ができる特別な才能をもっています。棋譜を当然、すべて記憶しているというわけで、棋譜の学習能力を備えることによって格段の進歩を遂げた最近のコンピュータ将棋に匹敵する能力を持っていることが示唆されています。

彼女のライバルが通称マリノンという同い年の女の子。普段は天然キャラを装いつつ、将棋のこととなると手段を問わないヒール役としては申し分ない性格です。冒頭の引用文のとおり、パパがコンピュータ将棋のプログラマーという情報処理学会の面々が読んだら泣いて喜ぶような設定になっています。そういえばコンピュータ将棋の応援に来ていた女流棋士にも「えっ、こんな娘が将棋のプロなの」というギャルがいたなあ。きっと性格悪いんだろうけど。

ヒロインがコンピュータ将棋と対決する場面はまだ出てこないのですが、これだけ同時代の空気を吸った設定になっているのですから、いつか対局の場面も出てくるのではないでしょうか。すでに1巻でも十分堪能しましたが今後の展開も楽しみです。

絵の構図も十分練られていて、何度か読み返すと周到な作者の意図が見えてきます。たとえば、1巻8ページ目の左下最終コマ。大雨の場面で、空を見上げたヒロインの大きな瞳が印象的なのですが、そのコマだけ雨が「つぶ」で丸く描かれています。一瞬の記憶を切り取った「画像」を提示することで、これから描かれる彼女の天才を暗示するものになっています。

■青木幸子「茶柱倶楽部」

同時に青木幸子の新刊「茶柱倶楽部」が発売されていて、連動企画で本屋では並べて売っていました。こちらは、日本茶をこよなく愛する御茶屋の娘の話です。

宝くじを当てたヒロインは、移動式のお茶「屋台」のトラックをつくって旅に出ます。
そこで出会った人々とお茶を通じてふれあいながら、お互いに成長していく、といった要約でしょうか。紅茶にはいろいろな種類があって楽しみ方もいろいろあるのは知っていたのですが、日本茶も奥が深いのだなあと感心させられます。

■当て馬でも引き立て役でもないの

この2つのマンガにはそれぞれ「仮想敵」があるように思われます。

一つは、将棋マンガの代表として現在連載中であるにもかかわらず既に不動の地位を確立したかにみえる羽海野チカ「3月のライオン」。もう一つは、女性ソムリエの活躍を描いたワインマンガの人気作「ソムリエール」。「3月のライオン」と「王狩」は未成年の棋士の戦いを描き、「ソムリエール」と「茶柱倶楽部」はヒロインのワインと日本茶への限りない愛情を描く点で非常に似ているなあと思うのです。

しかしこれらの既刊の2作と青木幸子の新刊2作には、決定的な違いがあります。
「王狩」では、並外れた記憶力を持つ「破格」のヒロインを提示することで、奨励会という「非日常」へ読者をいざなう周到なプロットが用意されています。「茶柱倶楽部」ではいきなり「宝くじを当てる」という「破格」の幸運の女神を提示することで、日本茶の屋台という「非現実」的な設定へ読者を誘う装置が用意されているのです。

「3月のライオン」や「ソムリエール」が職業として非日常を日常に扱っている「天才(非日常)の日常」を描いているのに対して、青木幸子は、いきなり「破格」の主人公を用意することで、非日常をいきなり超越した「非現実」的なキャラクターを「日常」に放り込んだらどうなるのかを描いています。いわば、「日常の中の天才(非日常)」を描いているとでも対比したらよいでしょうか。その結果、表面的に非日常である点で双方が似ているように見えなくもないのですが、「破格」のキャラクター自体はまったく似ていません。これは周到に用意されたキャラクターとして、ドゥルーズが「概念的人物」と呼ぶ哲学概念の構成要素に近い働きを物語の中で果たしているのです。
これを僕たちは「ファンタジー」と呼ぶことができるのではないでしょうか。

「王狩」の中で敵役であるマリノンがつぶやいた言葉、

「私は当て馬でも引き立て役でもないの」

は実は作者・青木幸子のつぶやきなのかもしれません。

では。

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