« 2017年11月 | トップページ

2018年4月

諸文化の大がかりな連帯に向けて ― 木庭顕『憲法9条へのカタバシス』

【今日の言葉】

わたしたちはいつか最愛の子どもに会いに行く。
(松浦理英子『最愛の子ども』)

【読書日記】

こんばんは。ともです。
今日は、木庭顕『憲法9条へのカタバシス』の雑感をいくつか。

■憲法9条解釈の諸前提

木庭顕『憲法9条へのカタバシス』は、主論文『日本国憲法9条2項前段に関するロマニストの小さな問題提起』を中心に、著者の政治システム論と憲法論をまとめた単行本です。同時期に発売された『法律時報』2018年5月号『憲法の土壌を培養する』における蟻川恒正・樋口陽一との鼎談と併せて読むと、きわめて明快に著者の考える憲法9条論、ひいては、憲法論、政治システム論、社会文化論が理解できると思われます。

かなり乱暴に要約すれば、憲法9条を解釈するためには、諸前提がある。ということになります。文芸・文学による深い人間理解・社会理解を背景に、政治システムを構築し、近代立憲主義を創設し、憲法9条にまで至った、社会的・文化的諸思想・諸動向の意義を、「共時的かつ通時的」に理解する必要性のあることが、本書を読めば、痛いほど切実に感じ取れるはずです。

というわけで、本書は、今後、政治・憲法を論じる際における必読の書となることは間違いありませんので、みなさま早く読みましょうね。

■知の共和国に向けて

とはいえ、誰もが簡単に本書を読めるわけではありません。本書は入門書ではないのです。一見、初学者でもとっつき易そうにみえる『法学再入門:秘密の扉 ぜんべえドンとオハナぼう、番外篇』も、極めてレベルの高いローマ法概念をめぐる議論が展開されています。

特に『国家学会雑誌』が初出である『Hobbes,De civeにおけるmetus概念』はある程度の歴史的・哲学思想的素養がないと理解は困難ですし、刑事法と民事法にある程度通じていないと何を言わんとしているのか、正確な理解は困難です。取り敢えず、人文科学系の知的素養を基に本書を読もうとされる方には、適当な法律学辞典を片手にお読みになることをおすすおおめします(特に表象文化論の方は!)。その先には、(「リアリスト」と呼ばれる全然リアルな認識を持ちえていない国際政治学者等の)卑俗な通説を鮮やかに覆す新鮮なHobbes像がたちあがってくるはずです。

このように、木庭顕の著作には、まるで中谷彰宏が自己啓発本で言い訳をする場合のように、「意識の高いきみたち」に向けてレベルを落とさずに語る、という悪い癖があります。なので、しばしば意識が高いと自己認識する読者のせっかくの意欲を挫くことにもつながるようですが、私は、スルメだと思って、何度も何度も時間をかけて噛み砕くように心掛けています。そのうちに味が出てきますよ。

■漱石論・鴎外論

なぜ憲法9条を論じる本書に、漱石論と鴎外論が入っているかについては、本書『序―日本国憲法9条の政治的弁証に向けて』が詳しいです。

すなわち、「私(註:著者)が苦痛に感ずるもの(註:権力と利益をめぐる集団)を体系的に解体する営みが政治であり、これは文学によって基礎づけられた」(本書2頁)からに他なりません。

その漱石論で、私が注目するのは、本書123頁の註66)における蓮實重彦への言及です。この註は初出『現代日本法へのカタバシス』においてはなく、本書の改定によって初めて言及されたものです。おそらく著者による蓮實重彦への言及自体、これが初めてではないでしょうか。

ここで著者は、ダヌンチオの赤と青に関し、蓮實重彦『夏目漱石論』が「よくpolalityを捉える」と評価しつつも、「そのpolalityを作者がどう使って何を言おうとしているのかは関心外であるようだ」とさりげなく批判しています。いわゆる註でバッサリ切る、というやつです。深読みすれば、著者による表象文化論批判とも読めなくはありません。「どう使って何を言おうとしているのかは」、文学と政治の連帯にとって極めて重要であり、それを「関心外」とは何事か、と。

しばらく前の私であれば、「そうだ、そうだ」と著者に同調していたかもしれません。しかしながら、蓮實重彦自身が、表象文化論という言葉について「この言葉が示す意味内容などどこにも存在しない。存在しないからこそ面白いんじゃないでしょうか?(笑)」(ユリイカ『総特集 蓮實重彦』35頁)と明言している以上、私は「関心外」であることに積極的な意味をこそ見出すべきではないか、と思うのです。

私は、この蓮實重彦のいう「どこにも存在しない」表象文化論とは、「誰のものでもない」公共空間を市民社会の側に築くという、蓮實重彦の倒錯した戦略性を持った「市民社会論」なのではないか、と思われるのです。

このとき、著者の鴎外論におけるフランスのCritiqueの伝統と蓮實重彦の表象文化論が交錯するのではないか。と私は考えます。

蓮實重彦が「憲法など、改憲されようが九条が残されようが、それをことさら意識することなく、「好きなこと」をやるつもりである」(『これからどうする』蓮實重彦「「好きなこと」の大がかりな連帯に向けて」36頁)と高らかに宣言するとき、著者のいう「知的階層」との距離は、それほど遠くないように思われます。

では。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2017年11月 | トップページ