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小説という真赤な嘘を嘘として築くために、蓮實重彦「伯爵夫人」は本当以上のもっともらしさで小説と戯れてみせるのだ

【今日の言葉】

だが、もしそれが事態の正しい解釈だとするなら......
(蓮實重彦「陥没地帯」)

【読書日記】

こんにちは。ともです。
今日は文芸誌「新潮」2016年4月号に掲載された―蓮實重彦の「オペラ・オペラシオネル」以来―22年ぶりの新作小説「伯爵夫人」を読みます。
内容にわたる記述を含みます。未読の方はご注意ください。

■あらゆる時代を通じて徹底した希薄な輪郭しか享受しえなかったこの不幸な記号

蓮實重彦はこれまでに2作の小説を発表しています。1作目の「陥没地帯」は、「エピステーメー」1979年7月臨時増刊・終刊号に掲載され、1986年3月に哲学書房から刊行、1995年2月には河出書房新社から文庫本として再刊されています。その小説が与えた影響と非影響については文庫版の武藤康史「解説」に詳しいのでここでは繰り返しません。

2作目の「オペラ・オペラシオネル」は、「文藝」1994年夏季号に掲載され、1994年12月に河出書房新社から単行本が刊行されています。残念ながら、どなたかが書評をしたものを紙の刊行物では見たことがありませんし、国立国会図書館サーチで検索してみてもそれらしきものは見当たりません。

ということは、1979年にデビューした新人小説家たる蓮實重彦は、なんとゆうに30年を超える小説家としてのキャリアのなかで、これまでたった2作しか小説を発表せず世評をもほとんど得ていない「知られざる作家」ということになります。何と贅沢な小説家なのでしょうか。東大総長まで務めて世間的にはその名の通った小説家がこれまでたったの2作しか小説を発表しないということが、この21世紀の日本で許されるものなのでしょうか。

と、思って今回「新潮」に発表された新作小説を読むまでは「既に蓮實重彦は小説家を廃業したのだ」と私はすっかり誤解していました。その誤解を一瞬で吹き飛ばすほど、蓮實重彦の新作小説「伯爵夫人」は狂暴な言葉の運動を見せていたのでした。

■実際、映画が何であり文学が何であるかを知るものなど、誰もいはしない。

蓮實重彦「伯爵夫人」を通俗的に要約してしまえば、1941年12月8日の午後から夕方まで、帝国ホテルの一角で、旧制高校に通う華族の嫡男・二朗と、伯爵夫人と呼ばれる中年女が過ごす、現在と回想の入り混じった「語り」が中心となる官能小説。といったところでしょうか。付け加えれば、至る所に戦前に公開された映画からの引用がなされ、時代背景を示唆する文学的な記号がちりばめられ物語を彩るとともに、スパイ映画の要素もふんだんに盛り込まれ、戦争映画のような場面も登場する一大活劇のような小説、とでも言っておけばひとまず安心できる文脈に収まるかもしれません。

とはいえ、そんな通俗的な要約がこのテクストの前では全く歯が立たないことは明白です。

「1941年12月8日」とひとまずは要約してみたものの、テクストに出てくる「帝國・米英に宣戦を布告す」からの推測であり、「帝國・米英に宣戦を布告す」というタイトルが新聞の一面に載ったのは朝日新聞の1941年12月9日の夕刊で二朗が目をやった夕刊とも符合するのですが、「伯爵夫人」のテクストには「1941年」とも「12月」とも「8日」とも一言も出てこない。テクスト外の事情によって、われわれはそう読んでいるのに過ぎないのです。

「ボヴァリー夫人」に「エンマ・ボヴァリー」という記載はないと断言し、テクストにテクスト外のものを読む者を断罪する蓮實重彦ですから、これはうっかり「戦前の日本が舞台となった」などと口にしてはいけないのです。なぜなら、「1941年12月8日」とはテクストのどこにも記載されておらず、それはテクスト外のものを読む行為だからにほかならず、仮にテクストの現在が「1941年12月8日」であったとしても、なおその日に「真珠湾攻撃」は既に行われており、とても「戦前」と呼ぶことはできないからです。

■誰が、どこから語っているか

映画的な記憶を呼び起こす記号の群れがこの小説にはいくつも出てくるのですが、伯爵夫人の名前の由来である「素顔の伯爵」とは、マンキーウィッツ監督「素足の伯爵夫人」へのオマージュでしょう。

マンキーウィッツ監督「素足の伯爵夫人」では、「ジプシー女でかつての裸足のダンサーは伯爵夫人となるのだが、夫は戦傷による性的不能であり、不貞に走り夫の銃弾に倒れる」という物語が語られます。片や蓮實重彦の「伯爵夫人」は、日本人女でかつての高級娼婦は、結婚していたわけではない「素顔の伯爵」と晩年の数年間を過ごし、周囲から「伯爵夫人」と呼ばれるようになり、戦傷による性的不能となった男のからだを心から愛した、という物語が語られます。結婚と未婚、ジプシー女と高級娼婦、愛情と嫉妬という対立軸を作りながら、性的不能の男をめぐってのヴァリアントを作るこの物語は、「素足の伯爵夫人」をオリジナルとしながら、そのパロディとして「素顔の伯爵」夫人という物語を語っているかのように思われます。

「それにしても、目の前の現実がこうまでぬかりなく活動写真の絵空事を模倣してしまってよいものだろうか。」

しかしながら、仮に「伯爵夫人」の小説的現在が「1941年12月8日」だとしたら、1954年に公開された「素足の伯爵夫人」がオリジナルであろうはずもないのです。では、「素足の伯爵夫人」が逆に「伯爵夫人」の物語をオリジナルとなるのか、といえば事態はそんなに単純ではないと思われるのが正しいでしょう。なぜなら、蓮實重彦「伯爵夫人」は2016年の日本で発表されたフィクションだからです。

また同じことが「男性の好きなスポーツ」(ハワード・ホークス監督 1964年)についても言えるでしょう。

■帝国の陰謀

このようなテクストのオリジナルとヴァリアントの複雑な関係、いいかえればテクストとその上演としての現実の「事態の逆転」を近代の「反復」として描いているテクストがこの小説の著者によって既に書かれています。

それが蓮實重彦「帝国の陰謀」です。

フランス第二帝政期に内務大臣、立法院議長として活躍したド・モルニーの、ナポレオン三世のクーデターに際して出されたテクストと、彼が草した喜歌劇のテクストを分析する蓮實重彦は、「まだ上演されてさえいない作品を、それが描かれるよりも正確に十年前にあらかじめ実演」してしまうような事態が近代以降成立していることを手品のようなあっけなさで描き出しています。

ド・モルニーが「私生児」として生まれ、生涯他人の名前でしか署名していないこと、始原としてのオリジナルな署名を欠いたテクストという主題に加え、第二帝政期の爛熟した文化、ドゥミ・モンドと呼ばれる高級娼婦や情婦という乱れた性風俗にも触れる蓮實重彦は、どこか「伯爵夫人」の世界をその二十五年前に既に描いていたかのようです。

■反復

「反復」としては、この小説は、いくつもの細部の反復が繰り返されていきます。

「ばふり」という擬態語、白目をむく気絶、ルイーズ・ブルックスまがいの短い髪型、修道女のモチーフ、戦場の光景......。

これらの反復は、何がオリジナルで何がヴァリアントなのかを問うことを無効にして、結局はすべてがフィクション、本当以上にもっともらしい「嘘」なのだ、とでも突き放しているかのようです。

最後に、この小説を現時点で的確に批評していると思われる文章を引用して終わりにしたいと思います。

「いわばステロタイプの饗宴である。風景は絵葉書のように薄っぺらだし、人物は心理を剥奪された機械人形のようにぎこちない。女たちはいずれも典型的な娼婦のイメージにおさまり、男たちもまた、性的偏執者の類型そのものだ。想像力は豊かに飛翔するというより、むしろ涸渇し、物語は無理に辻褄を合わせようとする者の言訳のように矛盾と反復に充ち、自分から罠に落ちて、訊ねられたわけでもない秘密を漏らしてしまう。だからその物語は、隠されていたものが徐々に露呈されてゆくのではなく、はじめから露呈されていたものが、そのあからさまな露呈ぶりを重層化してゆく過程をたどることになるだろう。この重層化の過程が、決してひとつの真実の意味にはたどりつくことのないイメージの多声的戯れへと見るものを導きいれ、表面という名の奥行を欠いた迷路の中の、距離と深さを奪われた表層的な彷徨へと駆り立てる。」

(蓮實重彦「映画作家としてのロブ=グリエ」 『シネマの記憶装置』(1979年)収録)

では。

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コメント

たしか「オペラ オペラシオネル」は金井美恵子が書評を書いています。エッセイコレクションの「小説を読む、ことばを書く」に収録されてたはずです。

投稿: サウダージ | 2016年3月16日 (水) 22時31分

サウダージさん、情報ありがとうございます。金井美恵子の評、面白そうですね。伯爵夫人についても、金井美恵子や浅田彰の評を読みたいなと思います。

投稿: とも | 2016年3月17日 (木) 00時46分

金井美恵子、エッセイコレクションの「小説を読む、ことばを書く」を読みましたが、それらしき文章は見つけられませんでした。どなたかご存じの方はお教えください。

投稿: とも | 2016年4月 3日 (日) 18時06分

 収録されている所は351Pの「それを知らなかったのは、損をしたという気がします。」です。

50歳を過ぎた批評家中村光夫が処女小説「わが性の白書」を書いた事を「そう幾度もおこるわけではない」事態として、処女小説ではないにしても50歳を遠く越した批評家蓮實重彦が「オペラ・オペラシオネル」を書いた事に「小説家はもっと注意をむけなければならない」と書いてます。

投稿: サウダージ | 2016年4月 6日 (水) 19時51分

サウダージさん。またまたお教えいただきありがとうございます。読みました。何故人は、もしくは蓮實重彦は小説を書くのか、という興味深い観点の論考でした。テクスト生成論的な書評とでもいうのでしょうか。次は金井美恵子の「伯爵夫人」評も読みたいな、と思います。今度は、何故あの小説を書いたのか、という観点からの論考を是非書いていただきたいですね。

投稿: とも | 2016年4月 6日 (水) 22時09分

どういたしまして。ちょっと見つけにくい所にあるのでもっと具体的に書くべきだっと反省しています(汗)

「オペラ・オペラシオネル」は朝日文庫の「小説論 読まれなくなった小説のために 」の巻末インタビューで、「褒めるのに苦労する」と言ってたので、「伯爵夫人」はどう評価するかが楽しみです。

個人的には蓮實重彦の対談集「魂の唯物論的な擁護のために」に収録されてる金井美恵子によるインタビュー「蓮實重彦論のために」みたいなインタビューをして創作の経緯や意図について色々聞いてほしいですね。

投稿: サウダージ | 2016年4月 7日 (木) 11時02分

『群像』に青野聡氏らによる「オペラ・オペラシオル」の合評が掲載されているようです。Cinii(日本の論文を探す)で検索したところ、以下がヒットします。ご参考までに。
「創作合評-222-「オペラ・オペラシオル」蓮実重彦,「死刑囚 永山則夫」佐木隆三」
青野 聡, 津島 佑子, 島田 雅彦
群像 49(6), p437-452, 1994-06

投稿: はな | 2016年5月25日 (水) 13時38分

はなさん、初めまして。
情報ありがとうございました。
あったんですね。合評。驚きました。

オペラ・オペラシオネルも呪術的反復とスパイ映画のテイストで、伯爵夫人に通じる不思議な小説ですね。

私は、いつか蓮實重彦小説論をどなたか書かれることを期待しています。その意味で蓮實重彦は「新鋭」であり、未来に開かれた「来るべき作家」なのかもしれません。

投稿: とも | 2016年5月25日 (水) 20時48分

本文中、小説的現在を1941年12月8日と指摘しましたが、誤読でした!蓮實重彦のインタビューによると「当時の新聞の夕刊は翌日付けのもの」だそうです。従って小説的現在は1941年12月7日が正しいとのことです。やっぱり蓮實重彦はあなどれません。

投稿: とも | 2016年6月 7日 (火) 20時50分

元東大総長ともあろうお方が書くような内容の小説ではありませんね。
例え、何か事情があったとしても。
TVもそうですが、折角優れたハードが開発されて用意されても、それを使って流れる中身(ソフト面での内容や質)は?と言えば、ハード製造者らが落胆するような代物でしかなかったりします。
ひとえに、関わる人間層があまりにも違い過ぎる為でしょう。人材は癒着することなく、厳正に選ばれるべきです。
日本は昔から、上層部の出来が今一つと言われてきたことと無関係ではないでしょう。
ネット時代を予見して、暇潰しと指摘した揶揄が的を得ていた、と云うことのないようにしたいものです。
日本人の品性が問われています。

投稿: 直平真 | 2016年7月18日 (月) 01時11分

エロ拓とか、もう最悪!
トンボ研究の秋山は腐れ外道であったし。
その裏では、旧D通信社やK名誉教授家が点を結ぶ線として存在するかも。
蓮實さんは現総長と違い、知らぬ間にせよ取り込まれていないと願っていますが大丈夫でしょうか?

投稿: 通りすがり@LEGEND | 2016年7月18日 (月) 16時39分

秋山氏曰く「罠に嵌められた」と申されたようですね。
確かに謀略の手先として利用された可能性は考え得る為、その主張は詳細且つ真摯に受け止めて分析ないし解析されるべきでしょう。それもまた人権と言えます。
尚、本書のような内容物はコッソリと読まれるべきものかと。勉強ばかりで恋愛の一つもうまく出来ないようではイカん、等といった含意含みでしょう。

投稿: 通りすがり@LEGEND | 2016年7月19日 (火) 16時41分

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