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わたしたちはゆっくりと世界を計算しなおす-川上未映子「苺ジャムから苺をひけば」

【今日の言葉】

良心ということに関しては、この一般原則を守らなければなりません。つまり、確実な善と不確かな悪とがある場合、その不確かな悪を恐れて、善を逃してはいけません。
(マキャヴェッリ「マンドラーゴラ」)

【読書日記】

こんにちは。ともです。
今日は、『新潮』2015年9月号に掲載された川上未映子の最新小説「苺ジャムから苺をひけば」を読みます。ネタばれを含んでいますので未読の方はご注意ください。

■数をかぞえること

「わたしは、後悔している。」という一文から始まるこの小説は、一人称の語り手「わたし」が独白するなかで「後悔」という言葉が、最初の三段落の中に四回もでてきます。しかし、最初の三段落の中で「わたし」は後悔だけしているか、というと、そうではありません。「すぎた時間」を「二時間まえ」と数えているのです。しかも一度ならず二度も最初の三段落の中で「二時間まえ」と数えています。

かつて川上未映子の小説を読んだ際、語り手は積極的に「数をかぞえる」ことをしていると読んでみました。
(『かぞえること、計算させること、名指さぬこと―川上未映子「ヘヴン」』http://tomonodokusho.cocolog-nifty.com/blog/2009/07/post-cb7e.html、『かたちなきもの-川上未映子「すべて真夜中の恋人たち」』http://tomonodokusho.cocolog-nifty.com/blog/2011/10/post-18c4.html

ここでも、語り手は「数をかぞえる」ことで、小説を物語っているのです。

二時間、三年、無数、五時間、一部、いっぱい、ぜんぶ、いちばん、毎日、半年、二学期、六年間、三人、一年生、三学期、二億人、十万本、一本、十個、百万人、百個、一千万人、十倍、一億人、二〇〇九年、二〇一〇年、二月、二〇〇八年、十分、二年、二〇〇三年、四月、九日、一女、一度、二百年間、数時間、四時二十分、二階、一時間、3本、ひとつずつ、四歳、半分、2回め、一歩、一秒、九月、十月、数日、一度、一杯、数ヶ月、一生、1.5 ...

ざっと目に付いたものだけでも、これほど数がかぞえられています。かりに、「川上未映子的主体」というものが存在するとしたら、その主体は何よりも「数をかぞえる」ことをする主体なのです。

■計算させること

この川上未映子的主体は、ただ数をかぞえるだけではありません。ちょっと意地悪なのです。語り手は、数をかぞえながら、「読者」に「計算をさせる」のです。みてみましょう。

「今が小学校最後の日々」(8頁)である「わたし」は、現在小学六年生になります。そして「あと半年で卒業する」(9頁)ことからこの小説の現在が、9月か10月であろうことを読者に計算させます。

後に素っ気なく正解を示すところも意地悪です。「そんなふうに暑い九月が終わって」(28頁)と19頁もあとになって地の文に紛れて語り手は正解を発表します。

また、この語り手はなかなかのやり手で、読者に「この小説なのかの現在の年号」まで計算させます。

「わたしたちが一年生のとき」には「日本のうえのほうですごく大きな地震が起きた」(10頁)として2011年3月の東日本大震災のときに「わたし」が小学1年生であったことを示唆しています。で「今」が小学六年生の九月であるとすると、この小説的現在は2015年であることがわかります。

本当にこの語り手が意地悪だと思うのは、10頁において10万の10倍、100倍、1000倍の計算をしておきながら、11頁において「六年前というのはいったい何年なのだ?二〇〇九年?二〇一〇年?」とわざと読者に計算をさせるように仕向けていることです。

しかも、そのあと、2008年2月と5月のウィキペディアに載っている世界の出来事を記述したうえで、六年前があたかも2008年で、東日本大震災と思っていた出来事は、実はフィクション世界の時間軸の中の話なのか、と小説的現在時間を一旦納得しかけていた読者を混乱に陥れるのです。

これについては、またまた素っ気なく「六年間とはとりあえず関係のない二〇〇八年の出来事を一所懸命に読んでいた」(11頁)と正解が発表されることになるのですが(さらに14頁で「わたし」の生年月日が2003年4月9日と判明します)、本当にこの語り手は意地悪だ、と思わされることになります。

■苺ジャムから苺をひけば

ここで、小説のタイトル「苺ジャムから苺をひけば」という意味が問われることになります。

苺=A、ジャム=Xと記号化すれば、

(A+X)-A=X

という計算問題を読者に解かせているかのようなタイトルと解することが出来ます。

しかし、これまで見てきたとおり、一筋縄ではいかない意地悪な川上未映子的主体が、そんな簡単な計算問題を読者に解かせようとしているとは思えません。

では、このタイトルは何を示しているのか。

この小説で「苺ジャム」の出てくる箇所をみてみましょう。

■苺ジャム

「この苺ジャムは、もともとお母さんが作っていたものだ」(18頁)「その苺ジャムはほんとうにおいしい」(19頁)と、「苺ジャム」は「わたし」の亡き母の味を示す重要な記号であることがわかります。

小説後半の母への手紙の中でも「それから苺ジャムもつくっています。すごく、おいしいね」(81頁)と「おいしい」と「わたし」は繰り返し表明しています。

とすると、「苺ジャム」とは亡き母との繋がり、すなわち「わたし」にとって「かけがえのないもの」を示していることになります。「苺」が、「いちご」や「イチゴ」ではなく、漢字が使われている理由は、おそらく「母」が含まれているからだろうと思われます。これは語り手の周到な計算によるものでしょう。

つまり「苺ジャムから苺をひけば」というタイトルは、「苺」すなわち「侵してはいけない価値」を示しているものなのだろうと思われます。単純に足したり引いたりしてはいけないもの。

このように「数をかぞえる」主体は、読者に「計算をさせる」ことを行いながら、「計算してはいけないもの」、すなわちアプリオリな価値の存在を提示しています。

そして、アプリオリな価値とは何か、この小説には多くのものが詰めされているように思われます。
また、今までアプリオリな価値と疑わなかったことについて、「わたし」は友とともに冒険することで、世界の真実に新たに触れることになります。そこから新しくゆっくりとわたしたちは世界を計算しなおすことになるでしょう。

では。

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