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2015年8月

わたしたちはゆっくりと世界を計算しなおす-川上未映子「苺ジャムから苺をひけば」

【今日の言葉】

良心ということに関しては、この一般原則を守らなければなりません。つまり、確実な善と不確かな悪とがある場合、その不確かな悪を恐れて、善を逃してはいけません。
(マキャヴェッリ「マンドラーゴラ」)

【読書日記】

こんにちは。ともです。
今日は、『新潮』2015年9月号に掲載された川上未映子の最新小説「苺ジャムから苺をひけば」を読みます。ネタばれを含んでいますので未読の方はご注意ください。

■数をかぞえること

「わたしは、後悔している。」という一文から始まるこの小説は、一人称の語り手「わたし」が独白するなかで「後悔」という言葉が、最初の三段落の中に四回もでてきます。しかし、最初の三段落の中で「わたし」は後悔だけしているか、というと、そうではありません。「すぎた時間」を「二時間まえ」と数えているのです。しかも一度ならず二度も最初の三段落の中で「二時間まえ」と数えています。

かつて川上未映子の小説を読んだ際、語り手は積極的に「数をかぞえる」ことをしていると読んでみました。
(『かぞえること、計算させること、名指さぬこと―川上未映子「ヘヴン」』http://tomonodokusho.cocolog-nifty.com/blog/2009/07/post-cb7e.html、『かたちなきもの-川上未映子「すべて真夜中の恋人たち」』http://tomonodokusho.cocolog-nifty.com/blog/2011/10/post-18c4.html

ここでも、語り手は「数をかぞえる」ことで、小説を物語っているのです。

二時間、三年、無数、五時間、一部、いっぱい、ぜんぶ、いちばん、毎日、半年、二学期、六年間、三人、一年生、三学期、二億人、十万本、一本、十個、百万人、百個、一千万人、十倍、一億人、二〇〇九年、二〇一〇年、二月、二〇〇八年、十分、二年、二〇〇三年、四月、九日、一女、一度、二百年間、数時間、四時二十分、二階、一時間、3本、ひとつずつ、四歳、半分、2回め、一歩、一秒、九月、十月、数日、一度、一杯、数ヶ月、一生、1.5 ...

ざっと目に付いたものだけでも、これほど数がかぞえられています。かりに、「川上未映子的主体」というものが存在するとしたら、その主体は何よりも「数をかぞえる」ことをする主体なのです。

■計算させること

この川上未映子的主体は、ただ数をかぞえるだけではありません。ちょっと意地悪なのです。語り手は、数をかぞえながら、「読者」に「計算をさせる」のです。みてみましょう。

「今が小学校最後の日々」(8頁)である「わたし」は、現在小学六年生になります。そして「あと半年で卒業する」(9頁)ことからこの小説の現在が、9月か10月であろうことを読者に計算させます。

後に素っ気なく正解を示すところも意地悪です。「そんなふうに暑い九月が終わって」(28頁)と19頁もあとになって地の文に紛れて語り手は正解を発表します。

また、この語り手はなかなかのやり手で、読者に「この小説なのかの現在の年号」まで計算させます。

「わたしたちが一年生のとき」には「日本のうえのほうですごく大きな地震が起きた」(10頁)として2011年3月の東日本大震災のときに「わたし」が小学1年生であったことを示唆しています。で「今」が小学六年生の九月であるとすると、この小説的現在は2015年であることがわかります。

本当にこの語り手が意地悪だと思うのは、10頁において10万の10倍、100倍、1000倍の計算をしておきながら、11頁において「六年前というのはいったい何年なのだ?二〇〇九年?二〇一〇年?」とわざと読者に計算をさせるように仕向けていることです。

しかも、そのあと、2008年2月と5月のウィキペディアに載っている世界の出来事を記述したうえで、六年前があたかも2008年で、東日本大震災と思っていた出来事は、実はフィクション世界の時間軸の中の話なのか、と小説的現在時間を一旦納得しかけていた読者を混乱に陥れるのです。

これについては、またまた素っ気なく「六年間とはとりあえず関係のない二〇〇八年の出来事を一所懸命に読んでいた」(11頁)と正解が発表されることになるのですが(さらに14頁で「わたし」の生年月日が2003年4月9日と判明します)、本当にこの語り手は意地悪だ、と思わされることになります。

■苺ジャムから苺をひけば

ここで、小説のタイトル「苺ジャムから苺をひけば」という意味が問われることになります。

苺=A、ジャム=Xと記号化すれば、

(A+X)-A=X

という計算問題を読者に解かせているかのようなタイトルと解することが出来ます。

しかし、これまで見てきたとおり、一筋縄ではいかない意地悪な川上未映子的主体が、そんな簡単な計算問題を読者に解かせようとしているとは思えません。

では、このタイトルは何を示しているのか。

この小説で「苺ジャム」の出てくる箇所をみてみましょう。

■苺ジャム

「この苺ジャムは、もともとお母さんが作っていたものだ」(18頁)「その苺ジャムはほんとうにおいしい」(19頁)と、「苺ジャム」は「わたし」の亡き母の味を示す重要な記号であることがわかります。

小説後半の母への手紙の中でも「それから苺ジャムもつくっています。すごく、おいしいね」(81頁)と「おいしい」と「わたし」は繰り返し表明しています。

とすると、「苺ジャム」とは亡き母との繋がり、すなわち「わたし」にとって「かけがえのないもの」を示していることになります。「苺」が、「いちご」や「イチゴ」ではなく、漢字が使われている理由は、おそらく「母」が含まれているからだろうと思われます。これは語り手の周到な計算によるものでしょう。

つまり「苺ジャムから苺をひけば」というタイトルは、「苺」すなわち「侵してはいけない価値」を示しているものなのだろうと思われます。単純に足したり引いたりしてはいけないもの。

このように「数をかぞえる」主体は、読者に「計算をさせる」ことを行いながら、「計算してはいけないもの」、すなわちアプリオリな価値の存在を提示しています。

そして、アプリオリな価値とは何か、この小説には多くのものが詰めされているように思われます。
また、今までアプリオリな価値と疑わなかったことについて、「わたし」は友とともに冒険することで、世界の真実に新たに触れることになります。そこから新しくゆっくりとわたしたちは世界を計算しなおすことになるでしょう。

では。

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ローマの窓から平和憲法が見える-木庭顕「法学再入門:秘密の扉-番外篇」

【今日の言葉】

だがそのまえに、呪わしい欲望が、軍勢をとらえるのではないか
壊してはならぬものを、壊すことになりはしないか
(アイスキュロス「アガメムノーン」)

【読書日記】

こんにちは。ともです。
今日は、雑誌『法学教室』2015年8月号に掲載された木庭顕「法学再入門:秘密の扉-番外篇」を読みます。

■番外篇とは何か

木庭先生による「法学再入門:秘密の扉」は、「民事法篇」が2015年3月で終了してしまい、最近は『法学教室』を読むことも無くなっていました。が、なんと8月号に「番外篇」が予告されているではないですか。で、刊行前に「番外篇」とは何かについて、いろいろと妄想してしまいました。

ふと頭をよぎったのは、木庭顕「ローマ法案内」の序における「『ローマ法』は私法であるとは限らない」という一節です。

最近では、ほぼコンセプトを同じくする「公法・刑事法の古典的基礎」http://catalog.he.u-tokyo.ac.jp/g-detail?code=25-6591&year=2015&x=40&y=8という授業もあるようですので、もしかしたらそのテクスト化なのか、とも考えましたが、未だテクスト化するには早すぎますし、もしそうだとしたら「公法・刑事法篇」と銘打っての長期連載となるはずです。

では何か。

と考えたとき、最近木庭先生が公表される文章において、ある一定の懸念を表明していることが気になりました。

■懸念

東京大学出版会の『UP』2014年12月号に掲載された木庭顕「知性の尊厳と政治の存亡」においては、三谷太一郎「人は時代といかに向き合うか」の書評という形をとりつつ、特に註において厳しい現実批判の言葉が並んでました。

いわく「ポップな妄想に駆られ(憲法さえ軍事化=産業化す)る政治セクターは全くチャンスの無い路線を80年ぶりに再現する」と、足許の政治動向が、満州事変以降の軍国主義の路線に回帰しつつあることを示唆する鋭い指摘をしています。

また2015年1月に刊行された木庭顕「笑うケースメソッド 現代日本民法の基礎を問う」では、「日本国憲法や人権理念に対する攻撃のほんとうの動機がむしろ占有破壊ドライヴに存することが多い。ありていにいえば、憲法破壊は修飾部分であり、ほんとうにしたいのはつねに土地上集団の活性化・軍事化である」という指摘もありました。

深い現実政治への懸念をそこからは読み取ることが出来ます。

そこで、足許の安保法案論議です。まさかとは思いましたが、「番外篇」では、ギリシャ・ローマから見た「憲法論」が展開されているのです。そして「集団的自衛権」に関する議論までもが展開されているのです。

■木庭三部作

今回の「番外篇」は、木庭三部作「政治の成立」「デモクラシーの古典的基礎」「法存立の歴史的基盤」の骨子がもれなく網羅されています。というより確固たる理論的視座を構築した木庭先生が、それを縦横に駆使して現実を分析しているというほうが正しいかもしれません。その中で「政治システム」についても「自由な主体間で厳密な議論を交わして決定すると、人々は自発的にそれに従うという原理」と明快な定義が示されています。そしてそれは、不透明な集団を作り上げる社会学的事象を排除することによって成立するものであることが、繰り返し示さています。「政治の成立」の用語を使えば、政治は分節articulationという概念で表現され、社会学的事象は枝分節segmentationという対概念となります。

そして「法」すなわち「占有」は「一番追いつめられた人の立場に一方的に立って事態を見る」こと、「事態を素早く、冷静に分析」することであると簡潔にその意義が示されています。言い換えれば、分節articulationを最も弱い個人に対して成立させることによって、枝分節segmentation集団を排除することになります。

そして「法存立の歴史的基盤」で示された通り、占有が原基となって、その後の公法・刑事法・民法の諸概念が形成されてきたことを前提として議論が進んでいくのです。

■占有原理から憲法9条を読む

この「番外篇」の白眉は、「個別的自衛権」が占有原理であるのに対して、「集団的自衛権」とは、占有侵害の実力行使である横断的実力形成vis armataであると断じている箇所です。

木庭顕「ローマ法案内」では、vis armataに関して、「まだ占有侵害に至らないとしても既に内部軍事化を完了した単位は危険である。中が火の玉になった単位を近傍に持つことは大きな危険を意味する」としvis armataは他への侵害以前に違法と言えると解説しています。

そして「番外篇」においては、「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」の英訳「land,sea,and air forces,as well as other war potential,will never be maintained.」に言及し、「"war potential”の語が印象的だ。いくら防御のためと称しても中を火の玉のようにして軍事体制を作り待ち受けることも禁じられるというのは古典的な法原則だ。内部に文節を擬制しその分節を融解させることも横断的軍事化vis armataと看做す。これは脅威ないし危機の法学的定義である」と集団的自衛権の違法性につきローマ法の観点から断じています。

「占有」の射程が、憲法のうち人権規定まで延びるのは「最後の一人=個人の尊厳」の観点から想定はしていましたが(このブログの記事『ギリシャとローマの交錯点としての憲法96条―木庭顕「デモクラシーの古典的基礎」「法存立の歴史的基盤」から読む』をご参照くださいhttp://tomonodokusho.cocolog-nifty.com/blog/2013/05/96-4b2d.html )、正直、「占有」の射程がそれを飛び越え、憲法の平和主義、憲法9条にまでも及ぶというのは驚きでした。

確かに、日本における最大の実力組織は暴力団と米軍であると指摘し続けてきた木庭先生から見れば、米軍とともに横断的実力形成・軍事化を図る「集団的自衛権の行使」は「占有違反である」ということは至極もっともなことなのだろうと思われます。

木庭先生の鋭い知性は、そのように「集団的自衛権の行使」(番外編の言葉では桃太郎の鬼退治)を進めようとする背景・原因にまで切り込んでいきます。一言で言ってしまえば、彼らは占有原理の観点からは「排除するべき枝分節segmentation集団」だという指摘になります。

■誰のものでもない

そして憲法とは「皆のもの」(占有して皆で取り分けることが出来るもの)ではなく、「誰のものでもない」(誰も占有しえない)と木庭先生がいうとき、私は、res publica共和国という言葉の原義はそう訳すべきであったのかもしれないと考え、改正限界の基礎理論は「誰のものでもない」という公共概念を前提とすべきなんだろうなと気づくことになります。

また自主憲法制定論に対し、ソロンの立法や十二表法までもちだして、そもそも憲法は第三者(外国人)が書いてそれを批准するものだ、という木庭先生の大胆な反論にニヤニヤすることになります。また逆説的に学問と文藝の重要性が浮かび上がる、という仕掛にはドグマティックな法律論では味わえない知的好奇心に胸を躍らせることになります。

まだまだ指摘したいことは多くあるのですが、下手な要約よりは、直接読んで分析して頂いた方が面白いテクストですので、みなさまの感想も是非お聞かせください。

では。

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