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蓮實重彦の「『私小説』を読む」を読まない。

【今日の言葉】

われら市民自身、決議を求められれば判断を下しうることはもちろん、提議された問題を正しく理解することが出来る。理知的な議論を行動の妨げとは考えず、行動に移る前に理知的に把握していないときこそかえって失敗を招く、と考えているからだ。
(トゥキュディデス「戦史」『ペリクレスの国葬演説』)

【読書日記】

こんにちは。ともです。

先日、講談社文芸文庫版の「『私小説』を読む」を購入しました。なぜなら、今まで読んだことがなかったからです。

ところが、今日は、蓮實重彦の「『私小説』を読む」は読みません。なぜなら、ふと魔がさして巻末にある小野正嗣の「解説」である「『私小説』を文字通りに読む」を最初に読み始めたら、それが滅法面白かったためです。従って、このブログ記事のタイトルの通り「『私小説』を読む」の本文は、文字通りに「読みません」。

■〔解説〕小野正嗣「『私小説』を文字通りに読む」

では、小野正嗣の「解説」である「『私小説』を文字通りに読む」のどこにそんなに惹かれてしまったのでしょうか。

あらかじめ答えを述べておけば、その「解説」に提示されているさまざまな記号が、私にとって、まざまざと「遭遇」と「すれ違い」を突き付けてきたからです。

■冒頭の問い

この解説では、冒頭で「どのようにして人は『蓮實重彦』に遭遇するのか。」という極めて特殊な問いが立てられています。これは、この文章の「人」、あたかも「人一般」であるフランス語で云うところの不定代名詞 ”On” であるかのように装われた「人」を、「私」と置き換えて読むことによって、極めて特殊な問いであることがわかります。

なぜなら、「人一般」が、言い換えれば「誰しも」が、蓮實重彦と遭遇するわけでも、蓮實重彦と遭遇しなければいけないわけでもないからです。したがって、この冒頭の問いは「蓮實重彦と遭遇してしまった者」だけが、問いを立て、答えを見出す必要がある極めて特殊な問いであることがわかるのです。

では、解説者である小野正嗣が、いつ、どこで、どのようにして蓮實重彦と遭遇したのか、私の体験も踏まえながら、みてみることにしましょう。

■既知との遭遇

まず、「僕が大学に入ったころ」と時期が特定されます。そして「空気を構成する」「元素」のように「誰もがその名を知っていた」と、あたかも「蓮實重彦」という固有名詞は、「元素記号」であるかのように、そしてまた「田舎出身の凡庸な学生」ですら受験で暗記する用語の一つであるかのように、あたりに遍在する「記号」として、即ち「既知」のものとして、まずは遭遇していたことがわかります。

ふりかえってみれば、かくいう私も、はじめて蓮實重彦という記号に遭遇したのは、受験生時代のとある現代文の問題文の著者の一人としてでした。その時代では、「ポスト構造主義」などという訳のわからない言説とともに「神話的な記号」として「蓮實重彦」という固有名詞は大学に入ったばかりの学生にも流通していた時代なのでした。(ちなみに、未だに「ポスト構造主義」などというものが何なのか、私にはよくわかりません。)

そして、学生掲示板で蓮實重彦の映画論演習の募集要項を仰ぎ見ながら「こりゃ、箸にも棒にもかからないや」とあっさりスルーした記憶も、「選ばれるのは、きわめて優秀な学生だけだと噂されていた」と記述する解説者とともに共感するところかもしれません。(その当時、誰かが噂していた「でね、ハスミ先生の息子さんはどこそこ大学で、映画じゃなくて音楽をやっているみたい」という言葉を聞いた記憶が、一緒に思いだされます。)

■フランス語の余白に

ここで、小野正嗣が「初めて読んだその人の著作」が「フランス語の余白に」という教科書であったという告白は、「現代文の問題文の著者の一人」としてすでに遭遇していた私からしてみれば、俄かには信じがたい自白にも思えるのですが、その「著作」を「単著を一冊」として読み替えれば、確かに私もそうだったのかもしれません。

そして未だにフランス第五共和国憲法の「フランスは、独立して、宗教的に中立な、民主的かつ社会的な共和国である」という一節を、フランス語で発音できるのは、「言葉などは丸暗記して身体に刻み込めばよいのだと言わんばかり」の「一見教育的ではないが、言葉を身体化するという観点からすると実に教育的な教科書」を、「Chantal夫人」の「例文を録音した声」とともに学んだ者だけが振舞える、極めて特殊な身振りである、と言うことができるでしょう。

■その人を目にすること

あくまで記号としてではなく、その固有名詞を持つ存在との直接的な遭遇については、解説者である小野正嗣は、「大学二年の秋」と記述しています。ということは、「フランス語の余白に」を使用した初級フランス語の授業は、蓮實重彦本人その人によるものではなく、他のフランス語教師によるものであったことがわかります。実は私もそうなのです。

ところが、私は既に「大学一年の一学期」に、その固有名詞を持つ存在と遭遇していた事実があります。その過去の事実を証明する証拠として、私の手許には、一冊の教科書、つまり「フランス語の余白に」がまぎれもない物証として残っているのです。

何故、証拠となるのでしょうか。

それは、私がその固有名詞を持つ存在に遭遇した際、厚かましくも、「蓮實先生ですね。サインをください」とおねだりしてしまったからなのです。大学からの帰りだったからでしょうか。とある場所でタバコをふかしていた蓮實重彦に遭遇し、「フランス語の余白に」をおもむろに取り出した私に対して、丁寧にも「お名前は?」と尋ね万年筆を取出し、スラスラと私の名前と蓮實重彦という二つの固有名詞を、中表紙に、すなわち「フランス語の余白に」というタイトルの書かれたページの「余白」にサインする「身体もまた大きな人」を、背の低い私が仰ぎ見ていた記憶が残っています。

■不思議なことに

不思議なことに、その後も数回、その固有名詞を持つ存在を目撃することになります。一度は、Chantal夫人と二人でフランス語の会話を交わしている姿まで目撃しています。なぜなら、どうやらその当時、同じ町に私は住んでいたらしいのです。

不思議なことに、これらの記憶を喚起させてくれた記号の発話主体である小野正嗣という固有名詞には、決定的に私は今の今まで「すれ違って」しまっていたことに気づかされました。「その人は同じキャンパスにいた」のだし、もっと早くに遭遇していても良かったのかもしれません。それが蓮實重彦という固有名詞をめぐって、今ここで遭遇したことの不思議さ。

不思議なことに、私が、著書に作者のサインを頂いたのは、蓮實重彦が最後ではありません。
運よく川上未映子の「すべて真夜中の恋人たち」の発売サイン会の整理券を入手し、同じく、私の名前と川上未映子の二つの固有名詞を表紙に書いてもらったところで、

「実は、本にサインを頂いたのは、蓮實先生から二人目なんですよ」

と話しかけたところ、川上未映子は小首をかしげて、小さく聞き返してきました。

「ハスミン?」

嗚呼!あの20世紀後半における「蓮實重彦」という「神話的な記号」は、21世紀を迎えたいまや、かの芥川賞作家によって、どうやら「ハスミン」という、なんとも可愛らしい愛称に変換されてしまっているのでした。

では。

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