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2014年5月

私三十歳、私小説始めました-綿矢りさ「こたつのUFO」

【今日の言葉】

おおさえ、おおさえおお、喜びありや、喜びありや
(狂言「三番叟」)

【読書日記】

こんにちは。ともです。
今日の読書は、雑誌「新潮」2014年6月号に掲載された、綿矢りさの最新小説「こたつのUFO」を読んでみます。

以下、ネタバレが含まれますので、未だ読んでない方はご注意ください。

■綿矢りさの「小説の規則」

前回、綿矢りさを読んだ際(このブログの記事/複数性を生きること-綿矢りさ「いなか、の、すとーかー」)綿矢りさは自分の設定した「小説の規則」に、きわめて愚直に従っていると分析しました。
すなわち、
①「書き出し」は、最大限の注意を払い、そこに小説の主題を提示する。
②「人称」の選択に注意を払い、「固有名詞」と併せて、効果的に使用する。
③「固有名詞」が露呈するときには、何か重大な事件が起こるか、重大なことが判明する。

今回も、この「小説の規則」がどこまで最新小説「こたつのUFO」に当てはまるのか、以下にみていきたいと思います。

■書き出し

まず、①の規則:「書き出し」と小説の主題の分析です。

「三十歳になったばかりの私」

が今回の主題です。非常にわかりやすいです。何故ならば、二十代超えというのは何故か女子にとっては生物学でいう津軽海峡を横切る動植物分布の境界線「ブラキストン線」のように越えがたい壁のようで、三十歳はついにそれを突破するというすさまじい葛藤があると男の私にも容易に想定ができるからです。主題の分析は以上です。

■人称の選択と固有名詞

次に、②の規則:「人称」選択と「固有名詞」です。

既に書き出しで明らかな通り、これは「私」という発話主体が物語る一人称小説です。非常にわかりやすいです、といいたいところですが、これがクセモノです。続いて「太宰治」という固有名詞が出てくることで、その厄介さが際立ちます。

何がそんなに「クセモノ」で「厄介」なのか。以下、分析のフレームワークを示したうえで、具体的に小説に沿って読んでみたいと思います。

■私の複数性

まず小説の構造分析です。

この小説は大きく2つのパートに分かれます。この小説の言葉を使えば「言い訳」(315頁から317頁1行目まで)と「おはなし」(317頁3行目から327頁まで)の2つに分割されるのです。

綿矢りさの小説にはしばしば、冒頭の部分で、主人公の独白とも一般的なアフォリズムともとれる形而上学パートが置かれることがあります。大抵は「主人公の独白」と解すれば事足りることが多いのですが、ここでは「太宰治」という固有名詞が介入してきます。

ここで、③の規則:「固有名詞」が露呈するときには、何か重大な事件が起こるか、重大なことが判明する。が発動します。

すなわち、ある程度の綿矢りさの読者であれば、綿矢りさの好きな作家が「太宰治」であるということは周知の事実です。「太宰治」を引用する「私」とは、限りなく「綿矢りさ」に似てくるのです。いままでの「綿矢りさ」の小説で、敢えて「私」の属性が「綿矢りさ」に似るということは、少なくとも小説テクストの次元においては周到に回避されていた事態です。これは「事件」と呼んでも差支えがない「重大なこと」なのです。

ここにおいてもう一つ分析のフレームワークを提示すると、「私」について以下の仮説が成り立つ、ということです。即ち、「私」には二種類が存在しているという仮説です。

一つは、現実の小説の書き手=話者である「私」。これを「私①」とここでは呼んでみたいと思います。もう一つは、フィクションとしての一人称小説の語り手=主人公である「私」。ここでは「私②」と呼んでみることにしましょう。

するとこの小説は、「言い訳」パートで「私①」が発話主体となって、「おはなし」パートでは「私②」が語り手となっている、というもう一つの仮説が成立する可能性が開かれます。

同一の小説内で、同一の「私」という一人称を用いて、複数の「私」(私①と私②)を提示するという、なんともまあ「厄介」なことが行われているように見えるのです。

■言い訳の分析

では、小説に沿って中身を見てみましょう。

「言い訳」パートでは、「私①」と「私②」との関係をめぐる形而上学が展開されていきます。ここでは「私①」の属する世界は「現実」「実」と表現されます。対して「私②」の属する世界は「フィクション」「創作」「想像」「設定」「架空」「虚」と表現されます。「現実と想像」は「体験と想像場面」という二項対立的な構図には素直に収まりません。なぜならば、両方とも「個人の脳内世界」における「真実」だからなのです。

フィクションにはフィクションなりの真実の世界があり、そこにおいて、固有の価値と社会の紐帯が生まれる可能性を形而上学として提示したのが、哲学の王とも呼ばれるスピノザでした。「私①」はほぼこのスピノザのラインに沿って、「私②」の語る小説にも固有の「真実」があると高らかに宣言して、「私②」の「おはなし」パートへ繋がっていきます(「”おはなし”だけが残る」)。

■おはなしの分析

次に「おはなし」のパートを読んでいきましょう。

ここで本当に「厄介」だと思わせるのは、「私②」も限りなく「私①」に似ているように「設定」されていることです。

Wikipediaでみると「綿矢りさ」は、1984年2月1日生まれであることが分かります。「おはなし」は「私②」の「誕生日」の話であり、「雪」の降る「寒風」吹く「京都市」の情景描写が続きます。現在、どうやら「京都市」に住んでいるらしい「私①」にどうも設定が「私②」は近接しています。

「三十歳になったばかりの私が、三十歳になったばかりの女性の話を書けば、間違いなく経験談だと思われると、これまでの経験から分かっている」という「言い訳」の言葉からすると、「だから、敢えて主人公(私②)は現実の私(私①)に近い設定にした」という開き直りにも受け取れる書きぶりです。何が厄介かといえば、「誕生日を迎えたばかりの作家が、誰にも誕生日を祝ってもらえないさびしい女を書いたら、読者の方は『一人きりの誕生日を実際に過ごして、不平たらたらなんだ』と思う」と、先回りして、凡庸な読者の感想まで書き連ねていることです。

■私小説

私小説の定義について、手許にある「日本語大辞典」を引くと、「作者自身を主人公に、身辺の実生活や心境を体験の告白という形で描いた小説。自己凝視の中に真実性を求めようとする。身辺雑記風のものを私小説。観照性の高いものを心境小説とよぶことがある」という定義に当たります。

本当に「厄介」だなあと思うのは、綿矢りさが「私小説」もっといえば「心境小説」をパロディーとして利用して、ついには一人称小説を突き詰めてしまったところでしょうか。上の分析では、「私①」≠「私②」と読んでみましたが、仮に、「私①」=「私②」として「私①」の外部に、更に作者としての「綿矢りさ」という固有名詞があると、より一層先鋭化して読んでしまえば、「言い訳」部分ですら「虚構」とも読めてしまうのです。

これまで、人称の揺らぎ(亜美ちゃんは美人)、固有名詞の徹底した排除(大地のゲーム)などで一人称小説の可能性を追求してきた綿矢りさとしては、「私小説」への逆襲として「私小説」をパロディーにしてしまう、というのは必然だったということでしょうか。

一つ分かったことは、「綿矢りさ」は相当厄介な女だ、ということでしょうか。

では。

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