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2014年4月

なぜアキレウスの怒りは味方の軍勢を壊滅寸前に陥れるほど強かったのか―マデリン・ミラー「アキレウスの歌」

【今日の言葉】

国家は人間がつくった最も愚かなものだとケイロンが一度言ったことがある。「どの国の人間であろうと、あるひとりがべつのひとりよりも価値があるということはけっしてないのだぞ」
(マデリン・ミラー「アキレウスの歌」)

【読書日記】

こんにちは。ともです。
今日はマデリン・ミラー「アキレウスの歌」を読んだ感想です。

■アキレウスの怒り

かねてからホメロスの「イリアス」にたいしてある疑問がありました。

なぜアキレウスの怒りはこれほど強いのか、と。

直接的な怒りの原因は、アキレウスお気に入りの戦争捕虜の奴隷女を、トロイア遠征軍の総大将であるアガメムノンに奪われたことがきっかけでした。でも、そもそもトロイ遠征の原因になったヘレネがメネラオスの正妻であるのに対して、アキレウスが奪われたのはただの奴隷女です。

いわば、アキレウスが、正妻の奪還のために終結した遠征軍を全滅させかねないほど、奴隷女ごときに執着して激怒するのは何事か、という感想を私は抱いたわけです。引き籠りにもほどがある、と。

しかも自分の代わりに出撃させた盟友のパトロクロスが戦死したからといって、再び参戦するというのは、我が儘がすぎないか、とも思いました。だったら初めから自分が参戦すればよかったではないか、と。これだから、ギリシャの神々や英雄たちの話はよくわからないよ、と納得したところで正直終わりにしていました。

今回、ホメロスの「イリアス」を現代において翻案した小説であるマデリン・ミラー「アキレウスの歌」を読んで、これらの疑問が、何と、するすると解消していったのでした。

■マデリン・ミラー「アキレウスの歌」

疑問が解消したということは、作者であるマデリン・ミラーも同様の疑問を抱いていて、それらに対する解答を文芸作品の形で提示したい、という強い意思があったということになります。

作者自身が「謝辞」のなかで「10年におよぶ」執筆期間を要したと記していることを信頼すれば、それだけの価値が「アキレウスの怒り」にある、ということになります。

また、作者の専攻が古典学であることから、敢えて学術論文の形ではなく、文芸作品の形で「イリアス」の解釈を示したことには、「この形でなければ伝えることができない」と考えた何かがあるはずです。

その答えをここで記載することは、未だこの本を読んでいない読者の楽しみを奪うことになりますし明らかにしませんが、一つだけ指摘しておきたいのは、作者であるマデリン・ミラーの答えに説得力があるとはいえ、それが文芸作品であるがゆえに、「現在、まさに今を生きているわれわれ」が理解できるロジックを使ってその答えを提示している、ということです。

ホメロス「イリアス」の成立については様々な説が唱えられていますが、もともとトロイ攻略に関するさまざまな伝承が当時から存在しており、ホメロスは、それを編集したものであるというのが、現在の一般的な理解になってきているようです。

ということは、アキレウスに関する伝承もさまざまに存在していたわけで、そこには、当時の人々が「イリアス」を読んだとしても、その行動や背景、考え方を理解できるような周辺的な伝承が豊かに存在していたと思われます。

マデリン・ミラーの解釈に、それらの周辺的な伝承群の古典学的な研究の成果が、どこまで活かされているのかは存じ上げませんが、まさに「アキレウスの歌」が行ったことは、アキレウスの行動や背景、考え方を理解できるような周辺的な伝承の「現代的なヴァージョン」を提供しようとするものだと、私は理解しました。

したがって、当時のギリシャ人の理解するところと、現代人が「アキレウスの歌」を読んで理解するところとは、全く別物である可能性が大いに存在します。そこがこの小説の限界であろうとも思われます。

■社会全部を敵に回しても守るべき、かけがえのない価値

とはいえ、敢えて「イリアス」を現代に甦らせて、「アキレウスの怒り」を今に生きる人々に理解してもらいたい、という姿勢に意味がないということではありません。

なぜならば、「イリアス」は西洋社会において読み続けられてきた第一級の「古典」であり、そこには独自の価値があるはずだからです。そして「古典」を現代の目で読み直す、という行為は、古くはルネサンスの時代からそれぞれの時代の現代人が行ってきたことの繰り返しであるからです。

そして、今回「アキレウスの歌」を読んで私が理解したことは、

「社会全部を敵に回しても守るべき、かけがえのない価値」がある

ということです。

これが遠くわれわれの時代において、「個人の尊厳」という議論に響いている、ということが、まさに古典であるにもかかわらず、それが現代的である所以なのだろう、と思った次第です。

では。

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