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誰のものでもない―井口奈己「ニシノユキヒコの恋と冒険」

【今日の言葉】

深海魚に会おうとした揚羽蝶が、海面にへばりついている。
(飯田茂実「一文物語集」)

【読書日記】

こんにちは。ともです。
私が長い間、新作を待ち焦がれていた井口奈己監督の映画「ニシノユキヒコの恋と冒険」を今週ようやく観ましたので、その感想など。上映中ニヤニヤしっぱなしだったイイ映画でしたので、お読みになる方は是非、先に映画をご覧になることをお勧めします。

■ハスミシゲヒコの恋と冒険

と書いてあったとしても、どうしても先に映画評をお読みになりたいという方が、もし、いらっしゃいましたら、文芸誌「群像」2014年3月号に掲載されている蓮實重彦の映画時評「繊細な演出と神の采配とが奇跡のように同調すれば、こんな映画が生まれ落ちる」をお読みになることをお勧めします。そのほうがわくわくしながら映画を見ることができるかもしれないからです。

蓮實重彦の文章は、彼のスクリーンに対する恐るべき動体視力を駆使して、映画の隅々までとらえた的確な分析と、情景が目に浮かぶような詳細な描写を加えていて、映画を観る前に、すでに井口奈己の世界観を緻密に再現しています。それでいて過剰に分析的にならず、適度な「煽り文」になっていますので、読んだ人は「見損なっちゃいけない!」と、うっかり錯覚してしまい、映画館へ足を運びたくなるような時評になっています。

こんなに蓮實重彦が「恥も外聞もなく」ベタ褒め、ベタ惚れした時評を書くのも近年珍しいので、この文章は蓮實重彦の「老いらくの冒険」ではないかと心配してしまうほどです。「映画に愛された稀有な映画監督」に対する蓮實重彦の映画的な愛があふれていますので、ぜひご一読を。

■井口奈己とエリック・ロメールの差異と反復

という私は、2009年2月15日のこのブログの記事で前作「人のセックスを笑うな」について感想を書いています。
http://tomonodokusho.cocolog-nifty.com/blog/2009/02/post-6d63.html
今回まるまる5年ぶりに井口監督の映画を観て感想を書きたいと思ったのですが、ほぼ完璧な紹介は蓮實重彦にやられてしまい、何を言っても二番煎じとなってしまうので、今回は前回の記事同様、芸もなくエリック・ロメール「友だちの恋人」と井口奈己の映画の偏差分析を、懲りもせず反復することになります。

では、なぜエリック・ロメール「友だちの恋人」なのでしょうか。

前作「人のセックスを笑うな」は、いろいろなところで、エリック・ロメール「友だちの恋人」の影響が濃く画面に表れている、というのが前回のブログ記事での私の分析でした。そんなことをなぜ言えるのか、という声が聞こえてきそうですが、5年前の「人セク」関連イベントで井口監督推薦映画の上映があり、案の定、「友だちの恋人」が上映されているのです。井口監督が大好きな映画を、たまたま私も大好きだから、というだけです。

■友達の友達はみな友達だ

エリック・ロメール「友だちの恋人」は、『喜劇とことわざ』というシリーズの一作で、この作品にはモチーフとなる「ことわざ」が配されています。

Les amis de mes amis sont mes amis.

愚直な直訳をすれば、「わたしの友達の友達は、やはり、わたしの友達だ」とでもなるでしょうか。タイトル「友だちの恋人」はこれを文字っています。が、フランス語原文では、より直截的にこの映画の内容を表しています。

L'ami de mon amie

またまた愚直な直訳をすると「わたしの女友達の男友達」となります。フランス語の名詞には男性形と女性形があるため、日本語に直すとかなり露骨な表現にみえますが、音読みでは「らみどぅもなみ」と何かのおまじないのように美しい響きになります。

「ニシノユキヒコの恋と冒険」を観ながら、この「ことわざ」が、ぼんやり頭に浮かんだのは、かつての恋人たちがニシノの葬儀に美しい庭園へ集まった場面です。なにやら激しい戦いを経た退役軍人たちのパーティーのように明るい表情の女性たちはどこか不気味です。かといって秘かな絆で結ばれたかのようななごやかな空気感さえ漂うのは、お互いが「敵」ではないからでしょう。

なぜニシノユキヒコ(竹野内豊)はいつも女性にフラれるのか、という問いが映画の中でも出てきますが、どうやら、このシーンに答えがありそうです。

■誰のものでもない

エリック・ロメール「友だちの恋人」では、二組のカップルが最後には入れ違いになります。最初は、女①=男①/女②=男② だったはずのカップル構成が、最後には、女①=男②/女②=男① となるのです。それでいて喜劇。劇中も観客も大爆笑です。

「ニシノユキヒコの恋と冒険」ではこの構造が大きく変わっています。

まず「男②」がいません。「男①」しかいないのです。すると何が起きるか。女①と女②がまず奪い合いを行います。その結果、「横滑り」が発生するのです。構造的には女①→②→③→④...と男①を中心に円環状にそしてらせん状にカップルが動的に変化をするのです。これは延々と男①という中心が消失するまで続いていく構造になっているのです。

つまり、誰も「男①を所有しない」=「結婚しない」のです。

そしてニシノユキヒコは、構造的に男②を欠くために不安定なモビールのようにくるくると回転しながら、コマのようにいつも円の中央で静止しているのです。その反射的な効果として、

「誰のものでもない」

ということが、不思議な女子たちの連帯(友達の友達は友達)を形作っているのでした。

■シネフィル的な映画の記号たち

このように「ニシノユキヒコの恋と冒険」は、「友だちの恋人」から大きく「差異」の方向へ舵が切られています。とはいえ、三つ子の魂百までという通り、滲み出る「反復」も鮮やかに画面を彩って躍動感を与えています。

マナミ(尾野真千子)がニシノを振るシーン。

愛し合った後に、女性が抜け出しさよならを告げる。というのはエリック・ロメール「友だちの恋人」の白眉のシーンです。また「友だちの恋人」のヒロイン・ブランシュのクセは上着のポケットに手を突っ込んで歩くことでした。マナミがリベルテ(フランス語で自由)という名のマンションの前でポケットに手を差し入れるとき、ロメールへ秘かなリスペクトが捧げられていると思うのは私だけでしょうか。木々の緑を見上げるように撮ったカット。緑の小道で手をつなぎ歩く二人。

さらには、江ノ電、七里ヶ浜という「晩春」の小津安二郎を髣髴とさせる記号がちりばめられています。幽霊のニシノが現れるミナミの自宅をローアングルでとらえるショットも小津へのリスペクトでしょうか。古い日本家屋に血の繋がらない男女が寝泊まりするというのは「東京物語」の笠智衆と原節子をも想起させるのに充分です。

他にもまだまだシネフィル的な記号たちが映画を彩っているのでしょうが、シネフィルではない私にはよくわかりません。是非とも浅田彰がゴダール「映画史」でやったようなインデックスを誰か「ニシノユキヒコの恋と冒険」でやってほしいと思うのは贅沢すぎる望みでしょうか。

それよりも、気が早いかもしれませんが、早く井口奈己の次回作を観てみたい!というのが本音のところですが。

では。

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