ボアソナード民法から読む木庭顕「占有理論」
【今日の言葉】
初学者には少し注意が必要です。まず、占有する権利、占有権というものはありません。占有はしているか、していないかだけです。占有訴訟は、占有している人しかできません。
(木庭顕「法学再入門:秘密の扉―民事法篇 第四話 消費貸借,その二」)
旧民法 第180条
法定ノ占有トハ占有者カ自己ノ為メニ有スルノ意思ヲ以テスル有体物ノ所持又ハ権利ノ行使ヲ謂フ
(旧民法 明治23年4月21日法律第28号)
民法 第180条(占有権の取得)
占有権は、自己のためにする意思をもって物を所持することによって取得する。
(民法 明治29年4月27日法律第89号)
【読書日記】
こんばんは。ともです。
今日は、木庭教授の法学教室連載「法学再入門:秘密の扉―民事法篇」の第四話『消費貸借,その二』まで公表されたところで、その占有理論を、ボアソナード民法(旧民法 明治23年4月21日法律第28号)を参考にみてみましょう。ちなみに、私は学者じゃないので、間違いがございましたら、どうぞ容赦なくご指摘ください。
■占有は事実か権利か
まず冒頭の引用文です。木庭顕は、占有は権利ではなく、事実(「しているか、していないかだけ」)であることを上記引用文で明確にしています。ボアソナード民法もその点を明確にしています。即ち、現行民法が第二編「物権」第二章「占有『権』」と占有を権利としていること、に対して、ボアソナード民法は財産編第一部「物権」第四章「占有」とのみ規定し、「占有権」という語は使用していません。
たまたま新旧両民法にて第180条が、「自己の為めにする意思」(animus domini/所有者の意思)を用いて占有を規定しているのですが、条文数が一致しているのはほんの偶然でしょう。たまたま一致しているので、反って、比較するとその微妙な差異が際立ってくるのですが、現行民法は、「占有は権利ではなく、事実である」という点を、間違ってしまっているのが手に取るようにわかります。
現行民法の起草者の一人である梅謙次郎「民法要義」においても「占有の性質については古来偏る議論がありて或いは之を事実なりといい或いは之を権利なりと謂へり」と一応占有が事実か権利かという論点の存在を理解していることを示していますが、「占有が占有を為すの有様と法律が之を保護する為めに興うる権利とは自ら別物」「本章に占有権と謂えるは法律が占有を保護するために興うる所の一切の権利を総括したるもの」と、あたかも実体的「権利」であるかのように占有「権」と名付けてしまったようです。
ただし、単なる事実的支配たる所持(detentio)と占有(possessio)とは別の概念であることにも充分に注意しましょう。その違いが分からなくなってしまった人は、木庭顕「法学再入門:秘密の扉―民事法篇『第一話,占有』を復習してみましょう。
■法定の占有
さらに、ボアソナード民法を見ていきましょう。
旧民法 第179条
占有ニ法定、自然及ヒ容仮ノ三種アリ
(旧民法 明治23年4月21日法律第28号)
この3種の占有は、ローマ法でいう市民的占有(possessio civilis)=法定の占有、自然的占有(possessio naturalis)=自然の占有、容仮占有(precarium)=容仮の占有、に該当し、ローマ法の呼称と区分を継受しています。
冗談だと思われた方は、ボアソナードの草案を見てみましょう。
Art.191. La possession est naturelle, civile, ou précaire.
(Boissonade ”Projet de code civil pour l'Empire du Japon”)
条文数は草案と旧民法で異なりますし、naturelleとcivileの順番が旧民法では逆転しているのですが、現在の民法典には出てこないローマ法概念が、ほぼそのまま規定されていることが分かるのではないでしょうか。そしてフランス語化されているとはいえ、possessio civilis、possessio naturalis、precariumという語が、そのまま使われていることが手に取るようにわかるはずです。
おそらく、現行民法に「占有『権』」と権利であるかのように規定されてしまったのは、旧民法の「法定の占有」という日本語表記に対して、概念構成が日本的に引き摺られ、「法定の占有であるからには、権利であるべき」と起草者が誤解してしまったのではないかとも想像されますが、原意からすれば「市民的占有」であって、あくまで事実たる「占有」にすぎません。その意味では「市民的占有」を旧民法が「法定の占有」と翻訳してしまったことに、そもそもの脱線が生じているのかもしれません。
■市民的占有
ではその「市民的占有」とは何か。中世以来の永らくの議論の中で混乱にさらされてきたこの概念に、木庭顕が明快な回答を示しています。
木庭顕は、まず「(土地の上の)端的な占有」という言い方と、次に「(もっと実力支配から遠い)占有」という言い方を区別しています(木庭顕「現代日本法へのカタバシス」収録『占有概念の現代的意義』)。(余談ですが、この題名は、三ケ月章『占有訴訟の現代的意義』に対するパロディです。村上淳一編「法律家の歴史的素養」で、木庭顕が三ケ月章の民訴理論を批判しています。)
「(土地の上の)端的な占有」とは、木庭顕「法学再入門:秘密の扉―民事法篇」でいえば、第一回の「お話」の「ゼンベエどん」が「オハナぼう」に対して有している関係で、これがローマ法で言えば自然的占有(possessio naturalis)に該当します。
次に、「(もっと実力支配から遠い)占有」とは、ローマにおいて「所有権」(dominium)が生まれた際に、所有権者が「端的な占有」に手を触れずに、あたかも「占有」しているかのように擬制(フィクション)するために編み出された法的概念である「市民的占有」(possessio civilis)のことです。よく木庭顕が例に出すものとして、土地の売買において所有権移転の登記を行うのは、「市民的占有」(possessio civilis)の移転であり、また担保権の登記を行うことも「市民的占有」(possessio civilis)の一部を移転しているのである、ということです。
そして、この二つの占有の効果として、自然的占有(possessio naturalis)が奪われたばかりのものをすぐに取り返すための占有訴訟を基礎づけるのに対して、「市民的占有」(possessio civilis)は債務者の破産時の債権者としての優先弁済権を基礎づけるもの(そして、決して債務者の「端的な占有」を取得するものではなく、いわば「管理占有」しか取得しない)とされます。
■占有訴訟
もう少しボアソナード民法の面白い規定を見てみましょう。
旧民法 第199条
占有者ハ占有ヲ保持シ又ハ回収スル為メ下ノ区別ニ従ヒテ占有ニ関スル訴権ヲ有ス
占有訴権ハ保持訴権、新工告発訴権、急害告発訴権及ヒ回収訴権ノ四種ナリ
旧民法 第201条
新工告発訴権ハ占有ノ妨害ト為ル可キ隣地ノ新工事ヲ廃止セシメ又ハ変更セシムル為メ不動産ノ占有者ニ属ス
(旧民法 明治23年4月21日法律第28号)
ここでは、「占有者」は「訴権」を有すること、すなわち、「占有訴訟は、占有している人しかできません」ということが規定されており、「占有権」という実体法上の「請求権」がある訳ではないことが明確にされています。
また「新工告発訴権」という現代の日本民事法理論には出てこない占有訴訟類型があることが規定されています。ここで響いてくるのは、木庭顕「現代日本法へのカタバシス」の以下の箇所です。
■木庭顕「現代日本法へのカタバシス」『7 占有;その2』
「奇妙なことに、interdictum[保全手続]の発給を求めるときに、権原が自分に存在することを、簡略な(summarius)仕方によってではあれ、論証しなければならないのである[疎明]。こうしてこの手続きは殆ど本案訴訟(petitorium)のようになってしまう」「人々は奇妙な権原を勝手に編み出しては、長期の本案訴訟に耐えなければならないという。たとえば、隣の大きな建物が何らかの脅威を与えたとき、権原の如何にかかわりなく、直ちにこれを止めるのでなければならない。まずは止めることが優先される。」「高く脅威となる建物を建てられた者は、仕方なく「太陽を享受する権原」(ius solis fruendi)などというものを創り出し、本案訴訟をするという。凡そこれらの問題が全て占有に関わるということに、誰も気づかないのである。」
と、日照権訴訟(太陽を享受する権原による本案訴訟)も、本来であれば、占有訴訟による解決がなされるべきであることを木庭顕は指摘しています。
仮にボアソナード民法が施行され、「新工告発訴権」に基づく占有訴訟が機能していたならば、現在では、どのような日本社会となっていたのか。と、歴史のifは無いと判っていながら、大変に気になるところです。
■民法出でて忠孝亡ぶ
その歴史のターニングポイントとなったのが「法典論争」です。旧民法施行「断行派」と旧民法施行「延期派」の一大論争が起きたのでした。結果、「延期派」が勝利し、ボアソナード民法は、公布されても施行されることなく、現行民法典が新たに起草されたのでした。
その際の「延期派」のスローガンが「民法出でて忠孝亡ぶ」(穂積八束)でした。
木庭顕は、贈与交換を典型とする人類学的社会関係を排除するために、占有概念ひいては法がある、といいます。「政治の成立」のタームで言えば、「枝分節」segmentationを排除するために「分節」articulationが創り出されることとなります。
その意味で、現行民法が守ったのは「忠孝」としての人類学的社会関係=「枝分節」segmentationであって、現行民法下の学説・判例・実務においては、旧民法の「分節」articulation的性格は排除され続けてきたのかもしれません。
では。
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