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2013年10月

複数性を生きること-綿矢りさ「いなか、の、すとーかー」

【今日の言葉】

戦後になって、大方の小説は、みだれた風俗や情痴のものばかりが多く出て、また余りに小説らしい小説ばかりが流行して、僕はさういふものに隔たりたい心持もあって、山水風景の清新なものが好きな所から、何か新しい風変りの、小説らしくない小説といふものを書きたい念願で、風景ばかりの小説は書けないものかしらと考へた。
(瀧井孝作「瀧井孝作 : 文学的自叙伝/碧梧桐先生」)

【読書日記】

こんにちは。ともです。
今日の読書は、雑誌「群像」2013年11月号に掲載された、綿矢りさの最新小説「いなか、の、すとーかー」を読んでみます。

以下、ネタバレが含まれますので、未だ読んでない方はご注意ください。

■綿矢りさの「小説の規則」

綿矢りさは「愚直な作家」だと思います。何に愚直かといえば、自分の設定した「小説の規則」に、きわめて愚直に従っていると思われるのです。

ここ最近に発表された綿矢りさの作品をいくつか読んできて、私には、次の「小説の規則」が存在するように思われます。

①「書き出し」は、最大限の注意を払い、そこに小説の主題を提示する。
②「人称」の選択に注意を払い、「固有名詞」と併せて、効果的に使用する。
③「固有名詞」が露呈するときには、何か重大な事件が起こるか、重大なことが判明する。

では、この「小説の規則」がどこまで最新小説「いなか、の、すとーかー」に当てはまるのか、以下にみていきましょう。

■書き出しとタイトル

まず、①の規則:「書き出し」に最大限の注意を払い、そこに小説の主題を提示する。をみていきましょう。ただ、その前に、ちょっと寄り道をして、「タイトル」の分析から入ります。そのほうが、わかりやすいと思うからです。

タイトル「いなか、の、すとーかー」をみて誰もが気付くことは、「変なタイトル」だ、ということです。標準的な現代日本語で表記すれば、「田舎のストーカー」が妥当な所でしょう。それを、まず、全部「ひらがな」に「ひらいて」います。次に特徴的なのは、全部ひらがなにひらくだけであれば「いなかのすとーかー」と表記すればよいところを、一語一語「句読点で分節化」しているという点です。

これは次の「書き出し」と連動していることがわかります。この小説の「書き出し」は

Good luck.

でした。英語なのです。日本語と英語の基本的な表記の違いはなんでしょうか。それは英語が「表音文字」であるアルファベットで構成されているのに対して、日本語は「表意文字」である漢字を含んでいるという点です。

ここで、綿矢りさは「いなか、の、すとーかー」という風変りなタイトルと英語の書き出しによって、これが日本語の小説であるにもかかわらず、「表音文字」としてこの小説を読むべきだ、というメッセージを出しているのです。

■表音文字と固有名詞と人称

表意文字に対する表音文字の特徴は何か、といえば、音声言語の生き写しであるということです。すなわち、発音されたものをそのまま文字化するのが表音文字の特徴で、そこには図形から文字に転じた漢字などの表意文字に対するアンチテーゼがあります。図像によるイメージの拒否、といえばより判るかと思います。

イメージの拒否は、何に対するイメージなのでしょうか。ここで②の規則:「人称」の選択に注意を払い、「固有名詞」と併せて、効果的に使用する、という点を見てみましょう。

この小説は、後に主人公のインタビューの一部であると判明する独白から始まります。ここで「僕の仕事」という言葉が出てきて、この小説が一人称小説であることが判明します。ほどなく、「石居さん」という「固有名詞」がでてきて、「石居」という苗字を持つ「僕」が主人公であることがわかるのです。

ところが「人称」の選択はそれにとどまりません。

「石居」という固有名詞を持つ主体は、自己言及をするとき「自分」とも語り、そして一人称として「おれ」という言葉が主に使われていきます。ここで、「石居」という固有名詞を持つ主体は、はじめから、「複数性」を持つ主体として設定されているのです。

このことは、反射的に、「石居」という主体が、他の登場人物から呼ばれる「呼び名」の「複数性」としても現れてきます。まず、テレビスタッフからは「先生」と呼ばれ、プロデューサーからは「石居さん」とも「きみ」「君」「先生」とも呼ばれ、すうすけからは「おまえ」と呼ばれます。

そして「透」という下の名前が母親から呼ばれるとき、規則の③:「固有名詞」が露呈するときには、何か重大な事件が起こるか、重大なことが判明する。が適用されます。ここでは、最大の事件として、ヒロインの「果穂」が登場する場面に移行するのです。そして、「果穂」は「石居透」という固有名詞を持つ主体に対して「お兄ちゃん」と呼びかけるのです。

このように「石居透」という固有名詞を持つ主体に対して、神の視点から物語を操る「作家」は、あらかじめ「いかにもイメージ通りで」「世間のイメージ」に収斂した「チープな」「像」を持たない、「複数性」をまとった主体としてキャラクターを設定していることが判明するのです。このことはステレオタイプ化された「プロデューサー」との対比が明確に書分けられていることからもよくわかるのです。

■複数性を生きること

このように読んでくると、この小説「いなか、の、すとーかー」は、決して、この物語を神の視点から支配している「綿矢りさ」の創作の苦悩を反映した「私小説」などではなく、「複数性を生きること」の困難さを文体上で実践している、いわば「概念小説」であることがわかるのです。

何故、自分は複数性を生きているのに、相手に対して複数性を許容できないのか。

ヒロイン「果穂」と主人公の葛藤は、その主題に尽きているのです。最後の若者が押し掛けてくる場面は、「開場前におとなしく整列しているファン」というイメージを拒否し、「見知らぬ若者」に複数性を生きることを許容し、「仲間」として認めるというこの小説の主題に対する答えなのだと思われます。

では。

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