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彼は俗流に陥っていた法学教育と裁判実務を一変させた―木庭顕「法学再入門:秘密の扉―民事法篇」第二話『民事訴訟の基礎』

【今日の言葉】

そしてローマ大学の市民法講座を獲得し、当時俗流に陥っていた当地の法学教育と裁判実務を一変させた、と言われる。つまり、彼はまずは専門のローマ法学者であったということになる。
(木庭顕「G.V.Gravinaのための小さな覚え書」)

【読書日記】

こんばんは。ともです。

今日は、木庭教授の法学教室連載「法学再入門:秘密の扉―民事法篇」の第二話『民事訴訟の基礎』まで読んで、考えたことを書いてみたいと思います。

■木庭顕「G.V.Gravinaのための小さな覚え書」

以前のブログ記事で、法学教室の連載の第一話『占有』まで読んできて、木庭教授は「教育がしたいのだ」と、私は理解しました。

が、連載の第二話まで読んで考えを改めました。
おそらく木庭教授は、

「現在、俗流に陥っている日本の法学教育と裁判実務を一変させたいのだ」

と。

冒頭に引用した木庭顕「G.V.Gravinaのための小さな覚え書」の文章は、グラヴィーナという人文主義の文学運動家であり、且、ローマ法学者であった人物の経歴を紹介している木庭教授の論文の一節です。グラヴィーナの経歴紹介ですが、まるで、そのまま木庭教授その人自身の紹介に使えそうな文章ではないでしょうか。

木庭教授は自らを「そもそもローマ法学者でない」(「ローマ法案内」)として、「歴史学の徒」(「現代日本法へのカタバシス」)であると自己規定しています。しかしながら、冒頭の引用文をもじっていえば、「東京大学においてローマ法(=市民法)の講座を獲得」している教授が、「まずは専門のローマ法学者であったということになる」ことは、現代日本社会にあって、制度的にも実質的にも当然の話でしょう。

そして、何やら木庭教授が煙幕を張って「ローマ法学者」であることを否定しようとしているのは、ひとり文学運動家として教科書に名前を残しているグラヴィーナだけでなく、例えばライプニッツ、ゲーテ、グリムなどが「しばしば法学者であったことを忘れられている」という神話を、あたかも、ここで再現実化しようとしている、かのようです。

■岩波書店「漱石全集」第19巻

一方、逆も真なりといえそうです。

法学者が、文学者や哲学者として名前を残している例は数多くあるのですが、その逆に、文学者が、鋭い言語能力と社会観察力で、法の核心に迫っている場合があります。
その象徴的な例が、夏目漱石の次の一節です。

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二個の者がsame spaceヲoccupyスル訳には行かぬ。甲が乙を追ひ払ふか、乙が甲をはき除けるか二法あるのみぢや。
(夏目漱石「明治38,9年 断片33」)
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ここにつけられた註で指摘されている通り、夏目漱石「虞美人草」には、ほぼ同趣旨の「同一の空間は二物によって同時に占有せらるる事能わずと昔の哲学者が云った」という一節があります(虞美人草「四」章)。
これに共鳴してくるのは、木庭教授の連載の次の一節になります。

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法は必ず特定の明確な対象との関係で主体を捉える。かつ一次元で。すると、全ての二当事者は、直線上の異なる全ての任意の二点のどちらがある特定の点にヨリ近接かを一義的に決定しうる、が如くに優劣の対象となる。決して等距離ではありえない。

実は、法は衡平でなく、一方の味方であり、依怙贔屓するのです。俄然一方に加担する。
(木庭顕「法学再入門:秘密の扉―民事法篇」第一話 占有,その二)
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このように、夏目漱石は、ロンドン留学も経た英文学者として、西洋の社会に通底する「占有原理」を、既に明治時代に、日本人として早くも喝破していたということになります。

これらの西洋社会の基礎について、何故深い洞察を夏目漱石が持ちえたのかは、「漱石全集」の断片や日記、ノートなどをみると、その一端を理解することができます。そこで漱石は、「英語と日本語交じりの独特の文体」で思考を積み重ねていたことがみてとれるのです。

■フィンリー「民主主義」(講談社学術文庫)~木庭顕「解説」

そして、その漱石の西洋を読解する素養を支えたものが高等教育における「リベラル・アーツ教育」すなわち人文主義的な基礎教育であったことは容易に想像がつきます。たとえば、漱石の小説ですら、註を見ればわかるとおりに、様々なギリシャ・ローマにおける古典的素養が至る所にちりばめられているからです。(不思議に感じられた方は、例えば「猫」の註のある文庫をお手に取ってみてください。)

その「人文主義」について、木庭教授が熱く語っている文章があります。
以下に引用してみましょう。

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人文主義者とは単にギリシャ・ローマを尊重する人のことではない。確かに彼らの思想の根幹自体がギリシャ・ローマから来るから、彼らはそれを尊重しはする。しかし決して無批判であるのではない。少なくとも如何なる切片たりともそのまま持ってくることはない。その切片の理解すら常に疑って一層正確に把握しようとする。本当はどうか。それがわかったとしても、全体の脈絡を押さえてみればその基盤は実は弱かったということがわかりはしまいか。いずれにせよ無批判に依拠することは決してなく、また凡そ物事を吟味する方法や装備を身につけている。そうした精神や方法自体がギリシャ・ローマから来るとしても。もしギリシャ・ローマ自体に対してこのような態度を保持しうるとすれば、彼らがそれぞれの「現代」、つまり自分たちの現実、に対して極めて批判的な態度を欠かさないくらいは朝飯前であるということになる。
(フィンリー「民主主義」(講談社学術文庫)~木庭顕「解説」)
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つまり人文主義者である木庭教授の手にかかれば、現代日本法に対する批判は「朝飯前」であることになります。それらの成果の一端である「現代日本法へのカタバシス」が公になっている現在、更に進んで、木庭教授の「朝飯後」の関心は既に、「現在、俗流に陥っている日本の法学教育と裁判実務を一変させる」ことにあるのではないか、と思う次第なのです。

では。

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コメント

ともさん、はじめまして。

木庭顕先生の連載についての記事拝見させて頂きました。

当方、法律以外の分野には、かなり疎いので・・・
関連する他分野について検討してくださっている記事に
大変感謝しております。
非常に勉強になります、本当にありがとうございます。


今回コメントさせて頂いたのは、
「現在、俗流に陥っている日本の法学教育と裁判実務を一変させたいのだ」

との理解について、
私も全くそのとおりだと思っていたので、
つい嬉しくなってしまいまったのでコメントしました。


また、拝見させて頂きたく思っています。


ではでは

投稿: よし | 2014年12月28日 (日) 12時59分

よしさん、はじめまして。

丁寧なコメントを頂きましてありがとうございました。わたしもだいぶ前から木庭先生の著書・論文を読んできていますが、木庭先生の守備範囲はおそろしく広いので、まだまだしらないことばかりです。

ただ、ずっと謎だった「占有」概念の意義については、法存立の歴史的基盤、ローマ法案内、現代日本法へのカタバシス、法学再入門の連載と様々な形で解説されてきましたので、だいぶわかりやすくなってきたのではないかと思います。

まあ、現代日本法から遡行して、ローマ法の基盤をも突き抜けて、ギリシャの政治成立の瞬間まで深く潜って、政治と法の基盤を掘り当てようという広大な学問的射程には敬服するほかありません。ただ、その原点には「現在の日本法研究と実務に対する齟齬」があったのではないかというのが私の見方です。

「政治」にしても「法」にしても木庭先生の概念定義は一般の定義からはかけ離れてついていけない人がいることも理解できますが、木庭先生の定義こそが、われわれに確かな指針を示すもののように思われます。

またコメントをお待ちしております。

投稿: とも | 2014年12月28日 (日) 14時33分

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