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2013年4月

ソクラテスの法学―木庭顕「法学再入門:秘密の扉-民事法篇」

【今日の言葉】

文化とは、文をもって化する、文をもって民を治める、という意味なのです。
(古井由吉「漱石の漢詩を読む」)

【読書日記】

こんばんは。ともです。
今日は、木庭顕「法学再入門:秘密の扉-民事法篇」の「第一話,占有」がおわったところで、多少感想を。

■なんでいまさら...

木庭教授が約10年ぶりに法学教室で連載を開始したと聞き、大河ドラマのような長編大作である「政治の成立」「デモクラシーの古典的基礎」「法存立の歴史的基盤」という三部作を出しつつ、それらを要約した「ローマ法案内」という概説書や、一般の法律家も読みやすい言葉で書いた「現代日本法へのカタバシス」などの論文集で、さらにそれらの補足を行ってきて、いまさら何をやられるつもりなのかな、と訝しがっていたところ、4月号を読んでやっとわかりました。

そう、木庭教授は「教育がしたいのだ」と。

■ソクラテスの方法

そのソクラティック・メソッドの論述は、実際に行われていた授業(「学習困難者のための法学再入門」)を下敷きにしているとはいえ、騙されてはいけないのは、そこに出てくる生徒は、すべて木庭教授が生み出したキャラクターだということです。

注意深く読むと生徒A以下すべての登場人物には、それぞれ役割が振られていることがわかります。木庭教授のタームにすれば、Critiqueが施されているのです。言い換えれば、そこにはディアレクティカ(弁証論)が施された概念的人物たちが登場している、といってもよいでしょう。

そう、木庭教授が「ディアレクティカ」と、わざわざ手垢の憑いた「弁証法」という用語法を周到に排除してきたのは、ソクラテスの問答法・産婆法dialektikeを、なるべく原初に近い形で想起して貰うためでした。

ここでは、原型の授業(「学習困難者のための法学再入門」)をソクラティック・メソッドで行いつつ、その二次テクスト(「法学再入門:秘密の扉-民事法篇」)をソクラテス=プラトンのディアレクティカを用いて作っている点で、なんと、木庭教授はソクラテス(は周知のとおりテクストを後世に残さなかった)とプラトン(がソクラテス文学を生み出した)の一人二役までやってのけていることになります。すごい意気込みですね。

■「ゼンベエどんとオハナぼう」のお話=ウェルギニア伝承

そのソクラテスとプラトンを気取った木庭教授が、最初に持ってくる「お話」が「ゼンベエどんとオハナぼう」です。こりゃ「法存立の歴史的基盤」を読んだ人には明らかな通り、占有概念成立の原基となったローマの「ウェルギニア伝承」のパロディです。

さしずめ、ゼンベエどんは娘を奪われる父ウェルギニウスVerginius、オハナぼうは悲劇のヒロインである娘ウェルギニアVerginia。 対するゴンザエモンは悪代官アッピウス・クラウディウスAp.Claudius、ゴンベエはその子分M・クラウディウスM.Claudiusといったところでしょうか。

「ウェルギニア伝承」は原典の精密な訳ではありませんが、現在では日本語でも読めるので(抄訳ですが、リヴィウス著・北村良和編訳「[抄訳]ローマ建国史(上)」や、ノーベル文学賞を受賞したモムゼン「ローマの歴史」による熱い口調の翻案、など。「法存立の歴史的基盤」でも大略翻訳がついて理解できるようになっています)わざわざパロディにしなくてもいいのになあ、と思う反面、ソクラテスに立ち返るためには、日本の昔話に模した「お話」によって、予断なく、まるでギリシャ人のように考える・想像するという教育的配慮をおこなっていると評価できるのではないでしょうか。

兎角、「難解だ」とされる木庭「占有理論」を『ここまでわかりやすく』例解したということは、現在のゆとり世代の学生水準に合わせたという面があるにせよ、面白く伝えたい・教えたいという、ここ最近の木庭教授の教育にかける情熱が伝わってきます。その情熱は、東京大学出版会の機関紙「UP」2013年2月号に掲載された「法科大学院をめぐる論議に見られる若干の混乱について」という論考にも見られますし、「Business Law Journal」2013年6月号の「放蕩息子の効用」における卒業生へ対する暖かい視線にもつながっているようです。

■ゴダール「フィルム・ソシアリスム」

と、法学教室の4月号・5月号を読んできて、ふと既視感に襲われたのは、ゴダールの映画「フィルム・ソシアリスム」の「予告編」と「本編」の関係に、この連載が何か似ていると思ったからです。

ゴダール「フィルム・ソシアリスム」の予告編では、102分の本編を高速再生によって2分で全編流すというよく言えばアヴァンギャルドな手法、有体に言えば人を食った手法がとられています。予告編を見て本編を見に来た観客は、全部見ているはずのものを、改めて通常速度で見直すことになります。ここで観客は、良く訳のわからなかった予告編が本編ではこういうものであったのだと納得することになるのです。(とはいえ本編を見てもわからんという観客は多数いると思いますが)

実は、木庭教授の上記の著作群にも、「予告編」が存在していることを知っていましたか?

「岩波講座 社会科学の方法〈6〉社会変動のなかの法」(1993年)に収録された木庭顕「政治的・法的観念体系の諸前提」がそれです。

■木庭顕「政治的・法的観念体系の諸前提」

この論文「諸前提」は本文が15ページ足らずという短い論考ですが、以後の三部作「政治の成立」「デモクラシーの古典的基礎」「法存立の歴史的基盤」の基本線がすべて凝縮され、圧縮されており、非常に密度の濃い記述となっています。そのためポイントを落とした脚注が本文以上の17ページにわたって綴られているというすごい形式になっています。

「法存立の歴史的基盤」が出版されたのが2009年ですから、「諸前提」で展開された「予告編」が、「本編」たる三部作で、実に16年の永きにわたって、膨大な2500ページを費やして「解凍」されてきたことがわかります。

ここでゴダールとの比較をすれば、ゴダールが予告編を2分÷102分=1.96%に圧縮したよりも更に大きく凌駕し、木庭教授は32頁÷2500頁=1.28%に予告編を圧縮していたことになります。ここで人は、木庭教授の初期の研究プログラムが、いかに周到に準備され、かつ、射程の長いものであったかと驚かされることになるのです。

■占有原理

そして「諸前提」において「別に発表予定の研究」と予告されていたウェルギニア伝承の分析が「法存立の歴史的基盤」において16年の永い冷凍状態を解かれ全面に展開しているのを人は眩しそうに眺めることとなります。

とはいえそのエッセンスを伝える「ローマ法案内」では、明示的にはウェルギニア伝承を取り上げた議論を行っていません。「現代日本法へのカタバシス」ではリファーがなされるものの、その意義を十分に伝える形には至っていないのが実情です。

今回の「法学再入門:秘密の扉-民事法篇」の「第一話,占有」において、そのウェルギニア伝承を多少のパロディを交えて伝えているのは、「法存立の歴史的基盤」ではローマ史歴史学のプロトコルに則って厳密な分析を行っていたことにより、かえって難解に見えていた占有原理を、『あたかもギリシャ人であるかのように』木庭教授が、本来は水と油の関係にあるギリシャ哲学とローマ法を、いったん忘却して架橋しようとしたアヴァンギャルドな試みなのかもしれません。

「Liviusのテクスト自体へのCritique,これは以降長く結局はアヴァンギャルドでありつづける」(「法存立の歴史的基盤」30頁)。

という木庭教授のつぶやきがきこえてきそうです。

では。

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自由な憲法解釈と政治の不在―木村草太「憲法の創造力」

【今日の言葉】

実は、法の世界に入るためには秘密の入り口があるのです。知りませんでしたか?
(木庭顕「法学再入門:秘密の扉―民事法編」)

【読書日記】

こんにちは。ともです。
今日は、木村草太「憲法の創造力」を読んでみたいとおもいます。

■魅力

木村草太の魅力は、なんといっても、その「同時代性」にあるとおもいます。
自身の憲法講義をベースにした演習書「憲法の急所」では、ユーモアあふれる秀逸な設例で大いに楽しませてくれました。鮮やかに右左を逆転させ思考の深化を誘う「国家伴奏拒否事件」設例や、涼宮ハルヒに関する社会現象から着想を得た「妄想族追放条例事件」設例など、遊び心が満載です。また「キヨミズ准教授の法学入門」では、石黒正数のイラストととぼけた会話の妙などが、同時代感覚をふんだんに吸収したつくりになっており感心しました。

■「憲法の創造力」

その木村草太が「憲法学の入門書」を一般人向けにだしたのですから、面白くないわけがありません。また、入門書とうたうからには、いわゆる個別の論点についての見解のみではなく、ある程度、木村憲法学の全体像のようなものがみえてくるのではないか、という期待感もあります。では、その期待が当たったのか、はずれたのか、以下に木村草太「憲法の創造力」を読んで「共感できた」点と「違和感が残った」点を、順にみていきたいと思います。

■共感

最近、子どもの入学式に参加して、久しぶりに国歌斉唱の場面に出くわしました。
「憲法の急所」などの書物からの知識で、教育現場において激しい対立があることを知っていたため、やや身構えておりましたところ、あっさりと教員・生徒・父兄一同が起立して何事もないかのように終了してしまい拍子抜けしました。

そこで思ったのは、こんなあっさりと済む儀式に対して、裁判で争われたように極度の体調不良を惹き起こす教員もいるのだという驚きでした。というわけで改めて、憲法学者はどう整理をつけるのだろうと興味を覚えながら、木村草太「憲法の創造力」の第一章「君が代不起立問題の視点」を読みました。

そこでは、原告と最高裁のロジックを丁寧にわかりやすくなぞっていきつつ、右左の人たちの信念を手際よく要約したうえで、法的議論がそのような信念のレベルとは異なるものであることを、くっきりと浮かび上がらせています。

憲法ドグマティークの議論では、ここまでわかりやすい立体的な像を提示することはできないしょうし、敢えてしないのだと思われます。憲法学者の議論として一般人にもわかりやすい整理といえるのではないでしょうか。さらに、最高裁の判断を「肩すかし」「詭弁」と評価し、この問題を「パワハラ問題」としての法的議論に再構成しようとする姿勢には脱帽です。

■違和感

と個別の議論では感心する記述も多いのですが、違和感を持ったのが、「総論」部分の議論です。

序章の「国家と憲法の定義」にある「国家は、『権力』を作ることを目的とした団体である」に続く「権力」の定義として掲げられた「暴力を背景に、有無を言わさず人を従わせる力」である、という箇所です。

「木村草太の力戦憲法」というブログでは、「良書」として木庭顕「ローマ法案内」と「現代日本法へのカタバシス」が挙げられており、また「キヨミズ准教授の法学入門」でも「現代日本法へのカタバシス」が紹介されています。木庭教授の著書を推薦図書に挙げている割には、木村草太は、木庭教授の「急所」をつかんでいないのではないかという懸念を私は感じました。

「法の前提には政治があり、政治とは暴力や不透明な取引を排除し、言語による自由な議論のみが君臨することである」という木庭顕の基本テーゼからいうと「有無を言わせぬ物理的強制力」とは、「政治もなく法もない」状態、木庭顕のタームでいえば「無分節」状態のことを指すと思われます。これは乱暴に言い換えれば、社会契約論の「自然状態」、すなわち政治が成立する以前の状況、言ってしまえばアウトローの状況です。

憲法は「国家を成立させる『ルール』」であるという木村草太の憲法の定義に、先の権力の定義を代入すると、憲法とは「暴力を背景に、有無を言わさず人を従わせる力、をつくることを目的とした団体の成立ルール」ということになります。

■解釈

これでは「日本には西洋的な政治も法もなく、ただ憲法典という政府による暴力を正当化する(法という記号が一応付与されているが、本来の法とは異なる)東洋的ルールがあるのみである」と読めなくもないことになります。

木村草太の記述は、ちょっと古いけど徹底したリアリスト、もしくはホッブズ主義者による国家観の吐露としてスルーすることも可能でしょう。一般受けを狙ったわかりやすい説明に徹したと好意的に解釈できなくもありません。しかし、例えばこれから大学へ進学するべき中高生をも想定読者としている新書の入門書としては、いかにも不用意ではないでしょうか。まるでリアル北斗の拳であるかのような国家観を青少年に植え付けやしないか、と危惧します。

木村草太の本意がそんなところにあるのではなく、上のような解釈がただの私の誤読であればと祈りつつ、木村草太には、「各論」だけではなく、「総論」についても是非とも思索を深めていただき、高い学問的水準を背景にしたわかりやすい国家と憲法の関係を論じていただきたい、と思った読後感でした。

では。

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