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人称と固有名詞の冒険―綿矢りさ「大地のゲーム」

【今日の言葉】

松島や鶴に身をかれほとゝぎす 曾良
(芭蕉「おくのほそ道」)

【読書日記】

こんにちは。ともです。
今日は、「新潮」2013年3月号に掲載された綿矢りさ「大地のゲーム」を読みます。
ネタバレを多く含みますので、先に原典をお読みいただくことをお勧めします。

【以下、ネタバレあり】

■書き出し

これまで何度か綿矢りさの小説を読んできた教訓の一つは「書き出し」には注意せよ、でした。では「大地のゲーム」の書き出しはどうでしょう。

「いつか力尽きるから美しい」

この書き出しを、文節的に読むと①いつか②力尽きる③から④美しい、と4つの要素に一応分解することができます。それでは順を追ってみていきましょう。

■この小説の現在は「いつ」なのか

まず「①いつか」ですが、小説冒頭の、しかも最初の語に、時間の概念が来るということは、ここに集中しなければ、綿矢りさの小説は読めないという注意喚起と思われます。

では、この小説の「現在」は「いつ」なのでしょうか。

プロローグの章には「幼い兄き」という表現があり、妹が兄に対して「幼い」とは滅多に口にしないことを考えると、この小説で、妹たる「私」の現在は、幼くないことが示唆されています。また第二章にあたる「学祭二週間前」の冒頭には「あのころと私は変わっただろうか」という回想文が挿入されていますから、この小説の「現在」は、大学の学生に成長した「私」が体験している時間であることが判明します。

ここで注意喚起しておきたいのは、綿矢りさの小説において、「固有名詞」が露呈するとき、そこには何かしら重大なことが生じる、ということです。

他方、この小説「大地のゲーム」では、固有名詞が周到に排除されている跡がみられます。場所について言えば「大学」という一般名詞で私の居場所が記載され続け、大学の固有名詞は徹底して排除されているのです。それだけに固有名詞が登場する場合には、そこに重大な何かが隠されていると読んだほうがよいようです。

では時間に関係するような固有名詞は、何があるでしょうか。読み進めていくと、それまで11ページでは「記念タワー」と一般名詞とも思われる名前で呼ばれていた場所が、12ページ目のはじめに「大学創立二百周年記念タワー」という固有名詞を持っていることが不意に判明します。

ここで日本における最初の大学の設立が、1877年の東京大学であったことを思い出しましょう。すなわち、「大学創立二百周年記念タワー」は、固有名詞が不明などんな大学であろうとも、2077年以降にしか存在しないことが判明するのです。つまり、「大地のゲーム」は2077年以降の「いつか」を小説的現在とした綿矢りさによる「未来小説」であり、それを示す固有名詞が、すらりと地の文に紛れ込んでいるのです。

■対話による形而上学

次に「②力尽きる」をみてみましょう。「力尽きる」とは何か、という問いに対する形而上学が、プロローグの兄と妹の対話で語られていきます。

「力尽きる」は、次の段落で早々に「死がある」という言葉に言い換えられます。その後「さいごはみんな、死ぬんだぞ」と繰り返され、妹の「しぬってどういうこと」という問いに対して、兄の口からは「ぜんぶなくなる」「息もできなく」「動けなく」「つめたくなる」「きえるんだ」「さいしょからなかったみたいに」と、力尽きることに関する形而上学が次々にパラフレーズされていきます。

ここで「ひらがなが多用」されているのは、別に「abさんご」の黒田夏子に敬意を払ったわけでもなく、構成上、単純に幼い兄妹の会話であることを示したかったものなのでしょうが、小説のテクストに沿っていえば、次の箇所に共鳴するように思われます。

「あの人は哲学を知ってるのかな」
「知らないだろうね、知らないからこそ、あんな風にさも自分が一番初めに思いついたようにふるまうんだろ」(22ページ)

「ひらがな」はここでは、「知らない」ことの象徴、「一番初め」の「哲学」であることを示しているように思われます。だからプロローグの章で、幼い兄きは「さも自分が一番初めに思いついたようにふるま」っていたのではないでしょうか。

■美しさの因果関係

では、「③から」という因果関係を示す言葉と、「④美しい」についてみていきましょう。この小説では、多いか少ないかわかりませんが「美」という言葉が、5回使われています。

最初の一文「いつか力尽きるから美しい」を受けて、直後に「その美しさからは逃れられない」と続き、その後しばらく「美」は登場しません。

次に登場するのが14ページ「リーダーの笑い声がはじける。つり上がった口角が美しい」で3回目です。その後33ページ「私より偉い人も、できる人も、美しい人も、みんな死んだ」で4回目。49ページの「リーダーは左脚の足首を右足の膝に乱暴に乗っけている。彼の左脚が作る、脛と太腿の大きな三角形が美しく」で5回目です。

ここで気づくのは、「死」と「美」が、冒頭文では因果関係を示す「から」で結ばれており「死ぬから美しい」と読めたのに対して、14ページ以降は「美しいから死ぬ」へ因果関係が転換されていることです。リーダーの死は、こんな形のテクスト的な現実として、早くから周到に用意されていたのだ、と驚かされるのです。

■人称と固有名詞の冒険

このように、手の込んだ複雑なテクストになっている「大地のゲーム」ですが、更に手の込んだ仕掛けが残されています。それは「人称と固有名詞」の冒険です。

一見、この小説は、はやい段階から「私」(5行目)という語が登場して、一人称小説であることが確定しており、何も問題がないかのように思われます。視点は一貫して「私」目線で進行しますから、一人称と三人称の間で微妙な「人称構造の揺れ」を見せていた「亜美ちゃんは美人」とは異なり、人称構造は安定的です。

問題は「固有名詞」です。

この小説「大地のゲーム」のヒロインである「私」の名前を、誰か思い出して答えられる人がいるでしょうか。

そうです。誰もいません。この小説は、主人公の名前が不明なのです。主人公だけではありません、主人公の彼氏も、「私の男」と呼ばれ、つまり、一般名詞である「男」に「私」の所有格である「の」をつけただけで、固有名詞がないのです。さらには、「リーダー」も固有名詞が出てきません。他方、「マリ」と「ニムラ」は、固有名詞をもった登場人物として出てきます。

この固有名詞を持った登場人物と固有名詞を持たない登場人物の混沌とした混在は、いったい何なのでしょうか。

■解釈

ひとつの解釈として、やはり語り手は「意図的に、積極的に、理由があって固有名詞を排除している」のではないかと考えられます。

ただし、小説技術的には、ぎりぎり、固有名詞を排除できるだけ排除してみようと試みて、「私」と「私の男」、「リーダー」までは何とかなったものの、「女グループ」になると「リーダー」とかぶるため「主格」とやや苦しい日本語となり(手許の「新明和」では「(文法で)主語を示す格」とのみ記載されており、一義的には文法用語であるようです)、「マリ」「ニムラ」はカタカナにして「リーダー」とまぶしてしまおう、と限界に達して固有名詞を使いつつもも、細工をしてみたように私には思われます。

これ以下は、テクストから勝手に離れた、自由な想像なのですが、おそらく、綿矢りさは黒田夏子を真似しようとして失敗したのでは決してありません。

では、何故、固有名詞を意図的に排除するのでしょうか。その理由があるはずです。

ヒントは72ページの「私は男の名を叫ぶ」にあると思います。ここには、「私の男」に固有名詞が存在することがはっきりと書かれています。他方、「私」の名、名前、固有名詞が呼ばれた形跡はどこにもありません。ということは、綿矢りさは「私」から固有名詞を完全に奪うために、「私の男」や「リーダー」を緩衝材として、固有名詞を持たそうとするテクストの磁場から守るために利用していたのです。

そこまでして「私」から固有名詞を奪おうとする理由は、

「私」と「綿矢りさ」という固有名詞を、徹底して切り離そうとする戦略

だろうと思います。

一人称小説がホームグラウンドである綿矢りさにとって、「私小説」と読まれない「私」小説を作るためには、時間を切り離し、固有名詞を切り離す、ことが目的だったのではないでしょうか。そう読むのが、この不自然な固有名詞の排除の理由として、私には素直なように思われます。

では。

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