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2012年8月

さまざまな意匠―「群像」2012年9月号

【今日の言葉】

ブルジョワよ、立法者であれ、商人であれ、七時か八時の鐘が鳴り、疲れた頭が炉床の熾火のほうへ傾いたり、肱かけ椅子の耳にもたれかかったりするとき、諸君は芸術の効用を理解する
(ボードレール「一八六四年のサロン」)

【読書日記】

こんにちは。ともです。
今日は、「群像」2012年9月号に面白いテクストが多かったので、それらの感想です。

■舞城王太郎「私はあなたの瞳の林檎」

アリストテレスは「詩学」において、優れた悲劇の条件として、登場人物は首尾一貫していること、そしてストーリーはカタルシスを与えるものであること、を挙げています。

この小説は、「悲劇」ではなく「散文」であるにせよ、アリストテレス的な意味で、掛け値なしにいいストーリーになっています。

「僕」という一人称で語られる小説に対して、「私」という一人称が表題となっていることの意味。その一人称の位置を、最後のヒロインのセリフで転換する鮮やかなカタルシス。そこから、広がるもう一つの「林檎」ヴァージョンの物語。さわやかな青春恋愛譚として読めるばかりでなく、周到に練られた構想がキラリと光る佳作です。

■野崎歓×青山七恵×綿矢りさ「文学と、たかが恋愛されど恋愛」

野崎歓が恋愛文学ベスト20の筆頭に、「アベラールとエロイーズ 愛の往復書簡」を挙げていて、要約、引用も的確なので感心しました。そうか、これが恋愛文学の原型だったのか!

以前、私も、このブログで読んだことがありましたので、同じような感想を、みな持つのだなあ、と思った次第です。

■アントワーヌ・コンパニョン「文学は割に合う」

コンパニョンによって、このテクストで挙げられた人名を列挙してみましょう。

フローベール、ボードレール、ピエール・ブルデュ―、ルイ・ナポレオン、マラルメ、ヴァレリー、ブランショ、ギュスターヴ・ランソン、プルースト、キケロ、モンテーニュ、マックス・ヴェーバー、フランソワ・ベゴドー、ローラン・カンテ、ハムレット、シェイクスピア、ヴェルデュラン夫人、ルグランダン、コタール、ディケンズ、バルザック、チャールズ・テイラー、アラスデア・マッキンタイアー、ポール・リクール、ニコラ・サルコジ、ヘンリー・ジェイムズ、トーマス・マン、ジョン・アップダイク、ウィリアム・スタイロン、アイリス・マードック、ジョン・ベイリー、ドストエフスキー、カフカ、カミュ。

ここでは、時代も国も超えて、作家から政治家まで、実在の人物から文学の登場人物まで、多くの人名が、等しく語られています。このことは、「文学は割に合う」La litterature,ca paye と主張するためには、これだけのネーム・ドロッピング(著名な哲学者や文学者の名前ばかりをやたらと羅列すること)をしなければならないのだ、と主張することでは決してなく、その核心は、

「人間のあらゆる活動の切り札となるのが人文的教養なの」だ、

という部分にあります。

「たかが文学されど文学」とも言い換えたくなるその主張は、単純な人文主義的で古典主義的な伝統への回帰を周到に排除しているだけに、なかなか奥が深くて複雑なものです。

■蓮實重彦「フローベールの『ボヴァリー夫人』-フィクションのテクスト的現実について」

蓮實重彦の前衛性は、どうやら東大総長に就任したことを境に、啓蒙性、明晰性に変化したのではないか、と思っていたのですが、かねてから「一冊の書籍に纏めないことが、蓮実重彦の最後に残された前衛性だ」と公言していた「ボヴァリー夫人」論が、ついに上梓されるというのですから、これは、スキャンダルです。

おそらく、みずから回想するに、「どことも知れぬ不気味な無法地帯」と呼ぶ東大総長の職に、「幽閉」された経験から、回心がおこったのかもしれません。コペルニクスですら、幽閉され地動説を撤回したというのですから、中世の宗教裁判にも似た強力な磁場が、近代日本の知を形成してきた大学の行政職のまわりを包囲している、という事実を示唆しているのかもしれません。

日本の憲法学者は「大学の自治」などを抽象的に講ずるのをやめて、謙虚に、蓮實重彦の回心を読解することに精力を傾けては、いかがでしょうか。もしかしたら、「切り札」としての「大学の自治」が、そこから再構成できるのかもしれません。少なくとも、蓮實重彦は、来栖三郎「法とフィクション」を読んでいるのですから、せめて法学の側からお返ししては?と、全く内容に関係ないところでこのテクストを読んでしまいました。

■清水良典×円城塔×柴崎友香「創作合評」 ~ 綿矢りさ「人生ゲーム」

当代きっての文学的知性3人が、綿矢りさ「人生ゲーム」を合評するというので、楽しみに読んでみたのですが、釈然としない感じが残りました。3人とも読めてはいないのです。

柴崎友香が語るように、「私も綿矢さんの小説を読むと、なぜ今この話をこの書き方で書くんだろう、どういう意味があるんだろう、ということをよく考えてしまうんです。この小説も本当にそうでした」という言葉が、そのことを素直に表していると思います。

これは、私の仮説なのですが、この小説「人生ゲーム」は、大江健三郎賞を受賞した綿矢りさが、大江健三郎に返した文学的返礼なのではないか、と思われます。

まず、「人生ゲーム」という題名。すぐに、大江健三郎には、「同時代ゲーム」という題名を持つ小説があることが想起されます。意味ありげに、「同時代」という共時性(シンクロニシティ)を示す記号が、「人生」という通時性(ディアクロニシティ)を表す記号に置き換えられています。丁度、右90度にひねって、直角に交わるように、題名の指示語を置換しているのです。

そして、「兄」という書き出し。これまで何度か綿矢りさのテクストを読み込んできた教訓は、「書き出し」に最大限の注意を払わなければならない、ということでした。そこから予測するに、大江健三郎「同時代ゲーム」には、「兄」に関係する「書き出し」があることが想像されます。では、それを確かめるために、大江健三郎「同時代ゲーム」の「書き出し」、第1章「第一の手紙 メキシコから、時のはじまりにむかって」の冒頭を読んでみましょう。

「妹よ、僕がものごころついてから、自分の生涯のうちいつかはそれを書きはじめるのだと、つねに考えてきた仕事。(中略)それを僕はいま、きみあての手紙として書こうとする。」

ほら、やっぱり!

「兄」を180度ひねると「弟」になってしまうところ、90度ひねって「妹」なのでした。

こう読んでみると、文学的「兄」=大江健三郎に対して、文学的「妹」=綿矢りさが、「兄きの手紙に返事を出したよ」といっているかのようです。返事の中身は、私の文学的半生を、「聞いていただいて、ありがとうございます。長くつまらない思い出話をして」というものでは、ないでしょうか。確か受賞後に二人は対談してましたよね。

では。

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