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ここにコモン・ローの驚異についての書が始まる―木庭顕「ローマ法案内」再読

【今日の言葉】

この世界のさまざまな地域のまぎれもない真実を知りたいとお望みなら、どうかこの書物を取り上げて朗読をお命じになっていただきたい。
(マルコ・ポーロ「東方見聞録」)

【読書日記】

こんにちは。ともです。
最近、初めてアメリカ法をかじる機会があり、今日の読書のテーマは、木庭顕「ローマ法案内」を透かしてみたコモン・ローの読み方です。

■誤解の源泉

木庭教授は「ローマ法案内」の「序」において、「『ローマ法』にアプローチするときに障害となりうる若干の思い込みを予めぬぐっておく」として、ローマ法に対するいくつかの誤解を解いています。

そのひとつとして、「大陸法つまりcivil lawを『ローマ=教会法』的伝統と言うこと」に対して充分な注意喚起をすると共に、「エクイティーを中核とするイングランド法やアメリカ法ほど『ローマ法』に近いものも無い」という謎めいた断言をしています。大陸法の基盤をつくったサヴィニーを常に参照基準とする木庭教授が、コモン・ローに対して活き活きとした共感を綴っているのは、何故でしょうか。

まずは、代表的な英米法の入門書である田中英夫「英米法総論 上」から読んでみましょうか。

■田中英夫「英米法総論 上」

田中英夫は、「第1章 概観」の「§113 イギリス法の独自性」の中で、「大陸法が程度の差こそあれローマ法の影響を強く受けたのに対し、イギリス法は、数次にわたって(それぞれの時期における)ローマ法の影響を受けはしたものの、基本的にはゲルマン法に由来する伝統的な法体制を維持してきた」と述べています。誤解の源泉は、どうやらここら辺にあるようです。

この誤解の源泉は、次のように受け継がれていきます。丸山英次「入門 アメリカ法」を見てみましょう。「英米法(系)と大陸法(系)という区分をするとき、両者の間のもっとも基本的な違いは、ローマ法の影響の大小ということである。すなわち、大陸法はローマ法の影響を強く受けているのに対して、英米法に対するローマ法の影響ははるかに弱い。」「ローマ法を基礎とする法典編纂の有無が、大陸法においては第一次的法源が制定法である(制定法主義)のに対して、英米法においては判例法である(判例法主義)という違いをもたらしたともいえるのである。」

その先に行くと、樋口範夫「はじめてのアメリカ法」における次のような記述となります。「ヨーロッパ大陸の国々の法は、元々、ローマ帝国の法を継受したと考えられている点で共通性を持ちます。それに対し、イギリス法はローマ法と無関係に発展したとされるのです。」

いかがでしょうか。

「数次にわたって(それぞれの時期における)ローマ法の影響を受けはした」という田中英夫の慎重な配慮を伴う記述が、次に「ローマ法の影響ははるかに弱い」となり、最後には、「ローマ法と無関係」となっていく様子がわかるのではないでしょうか。これが、もし日本における英米法学の発展の実態を表しているのだとしたら残念なことですが、おそらくそれ以上に「ローマ法学が死滅しつつある」(木庭顕「ローマ法案内」はしがき)ことを鏡のように反射した記述の推移なのかもしれません。また、3つの記述は、それぞれ想定している読者層が違うといってしまえば、それまでです。あえて樋口範夫を擁護すれば、「~ とされる」に注目して、その本意が「一般的にはそう言われているが、学術的には厳密には違う」という意味で、学問的良心を残した記述だと解釈すれば、ぎりぎりのところセーフでしょうか。

■註をよく読む

とはいえ木庭教授がその対象として、誤解を解こうとしているのは、明らかに最後の記述のような通俗的な「理解」であろうことがわかります。

なぜならば、引用した木庭教授の文章の直後に続く「註」においては、「日本の優れた英米法研究者(例えば田中英夫)からも聞かれた言葉であるが、W.W.Buckland, A.D.McNair ”Roman Law and Common Law. A Comparison in Outline” 1936,2ed.,1952 という 名著がこの視角から生まれた。」として、田中英夫が、ローマ法とコモン・ローの類似を既に指摘していたことを、示唆しているからです。

ここまで読んできて、漸く、木庭顕「法存立の歴史的基盤」の一節、「政治やデモクラシーの面で先頭を切るイングランドでもまた、そもそも「占有の再発見」も「人文主義法学」も(密やかな影響を除くと)受け取らなかったにせよ、法ないし法学の相対的孤立は(ここではことのほか積極的な意味を有したとはいえ)明白であった。」という箇所(52頁)に、注意深く書き込まれた、ローマ法がイングランド法に与えた「密やかな影響」や、却って大陸法との断絶が「積極的な意味」をもっていたという叙述の真意が理解されるのです。

以下では、「お粗末な比較」ながら、アメリカ法をかじってみて私が感じたところを、いくつか挙げてみたいと思います。

■ラテン語

まず、アメリカの法律文書を読むと最初に気づくのは、ローマ法の「密やかな影響」として、至る所にラテン語が使われていることです。特に、ここぞという殺し文句に、イタリック体でラテン語が登場する傾向があるようです。

例えば、判例を引用する際に事件名の前に現れることのある「In re」。語源を記載していることで有益な「カレッジクラウン英和辞典」によれば、「に関して(concerning).[L.]」とラテン語の語源略符である[L.]が付されています。

同じく、対人管轄権を表す「in personam jurisdiction」は、「《法律》(訴訟で)対人の(opp. in rem). [L. against the person]」。対物管轄権を表す「in rem jurisdiction」は、「《法律》(訴訟で)対物の(opp. in personam). [L. against the thing]」と、裁判管轄権の基本概念からして、わざわざご丁寧に対義語でラテン語が使われています。

そもそも「法廷」を示す言葉として「forum」[L. forum]というラテン語が使われることもあります。木庭教授の著書において、「公共空間」「公共広場」「forum」が、重要な基本概念であることを理解している者にとっては、垂涎ものの生きたアメリカ法概念ではないでしょうか。

田中英夫編「英米法辞典」には、そういったラテン語由来の英米法概念がことごとく収録されておりますので、大変に役立ちます。田中英夫であったならば、間違っても英米法が「ローマ法と無関係」などと、誤解を生むような表現は使わなかったであろうと想像されます。

ちなみに「イギリスの制定法集であるHalsbury’s Statutes of England and Walesの索引巻にある制定法の年代順一覧表を見ると、その冒頭に13世紀に制定された数個の法律が現行の効力を持つものとして挙げられており、その中にマグナ・カルタ(1297年)も見出すことができる」(丸山英次「入門 アメリカ法」)との由。そういえば、最古の現行制定法マグナ・カルタ Magna Carta もラテン語[L. Great Charter]ですね。

■当事者対抗主義

日本でも「当事者主義」という言葉は良く使われますが、アメリカ法の解説では、より当事者主導である、ことを表すためか、「当事者『対抗』主義」という訳語が使われることもあります。そのニュアンスを伝えるものとして、丸山英次「入門 アメリカ法」から再度引用して見ます。

「アメリカにおいて、自国の民事訴訟手続きの特徴として第一に挙げられるものはその対審的性格(adversarial character)である。そこでは、訴訟は、敵対する当事者(ないし当事者を代理する弁護士)の勝訴を目指しての競争と捉えられる。訴訟は当事者の要求(申立て)に裁判所が応えるという形で進行するため、訴訟の進行の主たる責任は当事者が担うことになる(当事者進行主義―party-prosecution)。主張立証活動も当事者の責任でなされ、提起されない争点、主張されない異議、指摘されない論点は、(例外はあるが)当事者によって放棄されたものと扱われ、無視される(party-presentarion―大雑把に言っていわゆる弁論主義に対応する)。」

この文章で注目すべきは「大雑把に言って」です。要は、大陸法的な訴訟進行と、コモン・ロー的な訴訟進行は、まったく異なるものであり、「大雑把」な比較しか本質的には許されないことを著者はいわんとしているように思われます。

これに響いてくるのは木庭顕「ローマ法案内」の次の箇所です。

「in jureの終局判断はプラエトルの職権的判断の布告ということになる。彼の元では陪審は存在しない。ただし当事者の申し立て(主張)によらなければ一切手続は動かない。その限度でしか判断が与えられない。職権判断を求めるのではあるが、処分主義を含む当事者主義は貫かれた」(64頁)。

「本案手続」に関する諸原則の「基本は、当事者が口頭で弁じ立てて争うということであり」「裁判の中核的要素である。さらに、両当事者が弁論したところ以外から陪審は判断材料を採ってはならない。」「他方、論拠としては何を言おうと自由であり、何か特定の証拠や証人によらなければならないということはない。それよりも弁論自体の方が重視される。」「何を言おうと、何を提出しようと、構わない。」「つまり法定証拠主義の部分が全く無い。」「必要な論拠を当事者が提出しない以上どうしようもないというのは、ローマでもそうである」(66頁)。「今日およそ当事者主義と呼ばれる原則に属し、その中の特定の一つ処分権主義である」「かくして、訴訟が当事者のイニシアティヴに懸かるのは既に述べたとおりである」(67頁)。

このように当事者主義が、訴訟進行上の原則であるだけではなく、そのことが実体法上の権利の有無にかかわる(「大雑把」に言って、処分権主義)という点において、アメリカ法とローマ法は、類似性があるのではないか、と思われます。これは、「権利」を実体的かつ演繹的に思考する大陸法的な思考とは、大きく異なるように思われます。

■演繹法と帰納法

このアメリカ法とローマ法の思考の近親性。対するに大陸法の演繹的性格の淵源を探るため、ドゥルーズ・ガタリ「哲学とは何か」を読んでみましょう。

ドゥルーズは「哲学地理学」という呼び名で、哲学概念には「或る歴史とさらには或る地理」があるといいます。そしてギリシャ哲学(ひいてはローマ)の特徴を次のように要約します。

「哲学は、ひとつのギリシア的なものに見えるのだし、都市国家(ポリス)がもたらしたものと一致するのである。すなわち、都市国家は、友からなる社会つまり対等な者からなる社会を形成し、そればかりでなく、都市国家どうしで、またそれぞれの都市国家の中で対抗関係を促進し、たとえば恋愛、競技、裁判、執政官の職務、政治、そして思考にいたるまでの、すべての領域において権利要求者たちを対立させたということである。」

そしてアメリカ哲学とイギリス哲学について、このように述べます。

「なるほど、フランスではかくも理解されていないプラグマティズムという哲学的企てが、アメリカにおいては、民主主義革命および新たな兄弟社会と関連しているとしても、その辺の事情は、十七世紀のフランス哲学黄金時代、十八世紀のイギリス、十九世紀のドイツの場合と同様ではない。しかし、同様ではないということは、人間たちの歴史と哲学の歴史は同じリズムをもっていないということを意味しているにすぎない」

「イギリス人はまさしく、内在平面を、移動可能なしかも動いている土地、根源的経験の野、群島状の世界として扱うあの遊牧民(ノマド)であり、そのような世界の中で、島から島へと、また海の上に、自分らのテントを張るだけで満足しているからである。バラバラになって、フラクタル化し、宇宙全体に広がった古きギリシア的大地の上で、イギリス人は遊牧するのだ。イギリス人は、フランス人やドイツ人のように概念をもっていると言うことはもってのほかである。イギリス人は概念を(ある経験から)獲得するのであり、獲得したものしか信じない。」

そしてこう結論付けます。

「黙約の概念を構成している慣習=持ち前(アビチュード)は、どのようなものであろうか。それはプラグマティズムの問である。イギリス法は慣習法あるいは黙約による法であり、他方フランス法は契約法(演繹体系)であり、ドイツ法は制度法(組織的全体)である。哲学が法治国家のうえでおのれを再領土化するとき、哲学者は哲学教授へと生成するのだが、ただしそうした事態は、ドイツでは制度と地盤固めによって成立し、フランスでは契約によって成立し、イギリスでは黙約によって成立するのである。」

哲学と法が地理的に連帯していることが、ここでドゥルーズのいわんとすることのように私には思われます。

■占有原理

最後に、アメリカ法の「lien」という概念をとりあげてみたいと思います。この「lien」という概念は、極めて日本法概念に翻訳しがたいものの一つで、留置権、先取特権などの訳語があてられることもあるものの、他方、翻訳不可能であることを良心的に示す試みか、「リーエン」とそのままカタカナで記載される例もしばしば見かけられます。

再び「カレッジクラウン英和辞典」を覗くと、「《法律》留置権、先取特権(債権者が債務者の財産に対して有する権利). [F.<L. ligamen ,tie]」とラテン語由来のフランス語概念であることが示されています。フランス語でlien とは「絆」のことです。

ここでふと思い当たるのは、木庭顕の質権に関する議論です。

「個別の市民的占有に質権設定をみとめるとしてもなお、質権者はその市民的占有を売却して得られた収益について優先弁済受領権を保持するにすぎない」「質権者に対して占有防御を認めるのであるが、質権者に市民的占有を認めるのでなく、所有権基体の崩壊、とりわけ(他の)債権者達自身による侵食、から防御する権能を与えるものである。いわば管理占有の付与である。」(「ローマ法案内」184-185頁)

そして占有に関する議論において、

「xという資源に対して持つ関係は形の問題であり、それの(abxかbaxかの)単純なパタン認知である」(「ローマ法案内」59頁)

と書くとき、それが、「a」または「b」のどちらが、「x」と近い「絆」をもつか、すなわち「lien」をもつか、という問題だったのだと、ハタと気づくことになるのです。

またそれは、「先取特権は領域に原生的な小信用が展開するときに不可避の形態である」(「『ローマ法案内』補遺」194頁)という指摘にもつながる、長い射程を持った議論のはじまりでもあるのです。

では。

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