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中身は空っぽ―ねむようこ「午前3時の不協和音」、綿矢りさ「仲良くしようか」

【今日の言葉】

“カワイイね”って
近づいてくる人は

大抵

“カワイイだけだね”って
離れていくの
(ねむようこ「empty heart」)

【読書日記】

こんばんは。ともです。
今日の読書は、ねむようこと綿矢りさを読んでみたいと思います。

■ねむようこ「午前3時の不協和音」

ねむようこの最新作「午前3時の不協和音」は、「午前3時の無法地帯」、「午前3時の危険地帯」と続いた恋愛大河ドラマのスピンオフ短編集です。

鬼営業・輪島の本質に迫る逆転劇の「ガゼルのたてがみ」や、堂本と真野の別れ話の意外な顛末を描く「大人の事情」など、魅力的なサブキャラクターに焦点をあてたanother world が楽しめます。

なかでも、「午前3時の危険地帯」で、ヒロインたまこのライバル?だったアキホを主人公にした「empty heart」が秀逸だと思います。元キャンギャルで美人のアキホが拾った綺麗なラッピングの箱の中身は、

「空っぽ......」

でした。

「可愛いのにほどかれるのがアイデンティティー」の綺麗なラッピングを、アキホは、

「まるで、私みたい...」

とラッピングにハマっていきます。

■綿矢りさ「仲良くしようか」

綿矢りさ「仲良くしようか」を読みながら、ねむようこが描くアキホの物語が頭に浮かんだのは、

「私があんまり中身の無いつまらない人間」

というフレーズにぶつかったときでした。

この綿矢りさの最新小説は、「作者自身を主人公に、身辺の実生活や心境を体験の告白という形で描いた小説。自己凝視の中に真実性を求めようとする。身辺雑記風のものを私小説。観照性の高いものを心境小説とよぶことがある」(日本語大辞典)という定義に照らせば、綿矢りさの「私小説」。とりわけ「心境小説」と、解釈できなくはない構成を持っています。

ストーリーはほぼ無いに等しく、敢えて言えば、男と喧嘩別れした小説家の「私」が、家の前で待ち構えていたファンの娘を部屋に招きいれて「仲良くしようか」と(明示はされていないが)耳元でささやくまでの、「私」の言動や夢を綴った短編です。

■「書き出し」の分析

とはいえ、これは綿矢りさの「私小説」ではないだろう、というのが僕の読みです。

これまで綿矢りさを読んできた一つの教訓が、「書き出し」に、小説の主題が隠されている、ということでした。この小説「仲良くしようか」では、

「ぜいたくとは何か。」

と「ぜいたく」の定義を問う人称不定の一文から始まります。例えば、ドゥルーズ・ガタリ「哲学とは何か」では、哲学とは「概念の創造である」という回答が提示されています。ここでは、綿矢りさは「ぜいたくとは、是々、である。」という回答の代わりに、「私にとってそれは、」と、「ぜいたく」の本質とは関係の無い、個々の「名詞」を挙げていきます。続いて、

「宝物とは何か。」

と「宝物」の定義をとう一文が続き、まったく同じように、「私にとってそれは、」と、「宝物」の本質とは関係の無い、個々の「名詞」を挙げることを、繰り返していきます。

ここで問われているのは、「ぜいたく」や「宝物」の定義とか本質なのではない、ということです。
では、「何が」問われているのでしょうか。

答えは、そこに書いてある、すぐ直後に来る、「私」という言葉なのです。

すなわち、「私とは何か。」

あくまで、「私小説」ではなく、「私とは何か。」という主題の小説として読むことにより、この小説が、何を描こうとしているのかが、よく見えてきます。

主人公は「私」という一人称で語り、「あなた」という二人称でしか指示されません。紙に署名する際にも、「自分の名前」という一般名詞でしか指示されない、固有名詞が存在しない主体なのです。注意深く読むと、「私」は、いくら似ているように読者にイメージされようとも、「綿矢りさ」では、無いことが示されています。

その「私」とは、「中身の無いつまらない人間」という定義を与えられる存在なのです。

■仲良くしようか

言葉が、シニフィアンとシニフィエという2つの要素の恣意的なつながりによって、成り立つものであることを示したのが、言語学者のソシュールでした。シニフィアンは、あくまで、言語体系の関係性の中に位置づけられることによって、シニフィエとの関係を持つに過ぎないということです。犬という日本語のシニフィアンは、別の言語体系である英語の中では、そのシニフィアンだけでは意味を持ちません。犬という日本語の言語体系におけるシニフィエと、Dogという英語の言語体系におけるシニフィエとの結びつきが、翻訳されることにとって、犬とDogの関係性が生まれるのです。

これと同じように、「私」とは、「中身の無い」人間のシニフィアンに過ぎません。

ねむようこが描くアキホが、ラッピングを他人に渡し、他人との関係性を持つとき。また、綿矢りさが描く「私」が、「仲良くしようか」と他人にささやくとき。そこに、はじめて、他人との関係性のなかで「中身の無い」主体のシニフィエが立ち上がってくるのを、読者は見ることになるでしょう。

では。

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