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2012年4月

共振するココロとカラダ―綿矢りさ「ひらいて」

【今日の言葉】

モナドには窓がない。
(ライプニッツ「単子論」)

【読書日記】

こんばんは。ともです。
今日の読書は、「新潮」2012年5月号に掲載されている綿矢りさの最新作「ひらいて」です。
ネタばれを含みます。未読の方はご注意ください。

■「彼の瞳」という問題

綿矢りさは、「書き出し」に注意が必要です。

以前、このプログで綿矢りさを読んだときにも、「書き出し」は、要注意でした。(詳しくは、このブログの記事『あとには、ただきみの名前が残るだけ-綿矢りさ「勝手にふるえてろ」』、『大人のための残酷童話―綿矢りさ「亜美ちゃんは美人」』をご覧ください。)

「勝手にふるえてろ」では、「届きますか、届きません。」と「二者択一と自由」という問題を「書き出し」は提示していました。それがそのままそっくり、小説の終わりまで、物語りのうえで、テーマとして一貫していました。

また、「亜美ちゃんは美人」では、「亜美」という三人称に「ちゃん」という一人称目線の愛称をつけることで、小説構造における語り手の「人称の揺らぎ」という問題を提示していました。それが、後には、あたかも「裁判」であるかのごとく、当事者の対立構造を示す、ことが明らかになり、「ちゃん」は正に「当事者適格」を得たものだけに与えられる称号であったことが判明するのです。

だから、最新作「ひらいて」において、

「彼の瞳。」

という体言止めの一文からこの小説が始まることに、読み手は、最大限の注意を払わなければならないのです。

■代名詞、固有名詞

まず、「彼」という三人称代名詞に注目してみましょう。

固有名詞ではなく、三人称代名詞で始まること。それは、この小説が、三人称小説ではないことを表しています。程無く、「私」という一人称が登場することで、この小説は一人称小説であることがハッキリするのですが、「亜美ちゃんは美人」において、「人称構造の揺らぎ」、という冒険をした姿勢とは、この「ひらいて」は、明らかに違うということが示されています。

語り手は、「私」という、ハッキリした主体を持っているのです。

そして、代名詞は、代名詞にとどまることはなく、通常、固有名詞をもっています。固有名詞でも、綿矢りさは、人称構造の冒険をしません。「ひらいて」では、登場人物の固有名詞が、徐々に「ひらいて」、明らかにされていくのです。

ただ、人称構造の冒険がない代わりに、以前「勝手にふるえてろ」で分析したのと同様に、固有名詞が露呈するとき、登場人物の関係性が劇的に変化することが、周到に用意されています。

「彼の下の名前は、すごく変わっている。」

と、綿矢りさが書きつけるとき、既に、固有名詞をめぐるサスペンスが、小説をスリリングにすることが、予言されているかのようです。

比較的早い段落の掃除の場面で、不意に「私」の苗字が明らかになるとき、そこでは、「彼」と「私」の関係性が、大きく変化する舞台が用意されています。そして、校舎の裏で、「私」の下の名前が明らかになるとき、「彼の彼女」と「私」の関係性が、不可逆的に深まっていくことが暗示されていることを、「ひらいて」の読者は、知ることになるでしょう。他にも、綿矢りさは、「ひらいて」において、固有名詞を効果的に使用している場面を、読み手は目撃することになるはずです。

■ココロとカラダ

つぎに、「瞳。」という言葉に注目してみましょう。

「体言止め」は、強い印象を読み手に与えますが、三文文士が使うと、とたんに陳腐で凡庸な文章に堕してしまうおそれもある、危険なものです。ところが綿矢りさは、躊躇なく、最初の一文から体言止を繰り出してきます。それは綿矢りさが、小説という戦場の戦い方を良く知っている手練である、という事実を示しています。

また、この小説の冒頭に、あえて「体言止め」を持ってきたことは、次のような含意があるように思われます。

「体言」とは、国文法の用語で、活用のない名詞などを表します。ただ、この小説の文脈では、「体」はCorps=カラダを、「言」はSpirit=ココロを、暗示する符号として使われているように思われます。なぜなら、「瞳」というカラダを示す言葉から始まるこの小説では、カラダを示す語彙が溢れ出しているからです。

瞳、目、胸、肌、太もも、脚、手、素肌の肩、私の身体、図体、指、唇、口、両手の指と指の間、関節、首の後ろ、耳、心臓、喉、背、顔、受け口、手のひら、鼻、身体の真ん中、足、髪、頭頂部、胃、前歯、あばら骨、腕、お尻、白い肌、膝、爪、瞼、髭、白目、舌、頬、目尻、脇腹、右手、左手、口内、二の腕、肋骨、鎖骨、産毛、乳ぶさ、陰毛、臍、腹筋、腰骨、乳首...

そして、カラダを示す語彙と同じくらい、ココロを示す語彙がこの小説には溢れ出しています。そこから零れ落ちた、「胸の鼓動」という、本来はカラダを示す言葉ですら、ここでは、「私」のココロを表すのに、惜しみなく投入されているのです。

■聖書を読む無神論者

ココロとカラダという論点を、近代哲学で始めて意識的に提示したのは、デカルトでした。心身二元論と一般に呼ばれるその哲学を、批判的に継承したのが、無神論者と呼ばれるスピノザでした。

小説「ひらいて」の主人公の「私」は、毎朝、聖書を読みます。そして、おもむろにこう宣言するのです。

「私は、神様なんか信じない。」

聖書を読む無神論者。福岡安都子「国家・教会・自由 スピノザとホッブズの旧約テクスト解釈を巡る対抗」には、無神論者スピノザが「神学・政治論」において、精緻に聖書のテクストを読み込んでいるさまが論証されています。

スピノザと同じく、聖書を読む無神論者である「私」は、近代的な主体として、独立した批判的な精神を持つことが示されているのです。明確な一人称構造とあいまって、近代における「主体」の問題を、綿矢りさは、意識的に取り上げているのです。

■モナドには窓がない

そのスピノザを批判し、世界を映し出す主体、予定調和の主体、という哲学的な御伽噺としての人間を描き出したのが、ライプニッツでした。曰く「モナドには窓はない」。

小説「ひらいて」の主人公も、実は、「窓のない私の部屋」に、住んでいました。
ところが、最後の電車の場面で、「私」は、電車の「窓」から見える景色を、

「ふいに満たされ」て

眺めます。

「ひらいて」

とは、「窓」を「ひらいて」なのです。予定調和の御伽噺からの脱出。そして、「私」が、二度、「ひらいて」とつぶやくのは、

ココロを「ひらいて」、そして、カラダを「ひらいて」

というつぶやきなのです。「彼の瞳。」という「書き出し」の物語が、ここで、ようやく「終わる」ことを、読む人は、不思議なリフレインの余韻の中で、知ることになるでしょう。

では。

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