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かたちなきもの-川上未映子「すべて真夜中の恋人たち」

【今日の言葉】

いい匂い。いい見栄っ張り。いい瓶、いい体。それからいいハンドバッグに、何もかものいい形。いい発色。いい目玉。いい毛髪にいい野心。化粧品売り場で検分したり、鏡をのぞき込んでる女たちはみな自分たちのなかにあるささやかな、それとも実はもう押さえきれないくらいの量になりつつある「いい」ものを手入れしに、あるいは倍にしにここへやってきて、取り出しては見せあって、その口角はどれも同じように斜めうえにひっぱられて、よく見るとそれは笑顔と呼ばれるものだった。女たちはみな、笑ったりしているのだ。
(川上未映子「あなたたちの恋愛は瀕死」)

【読書日記】

こんばんは。ともです。
今日の読書は、川上未映子「すべて真夜中の恋人たち」です。

以前、このブログで、『ヘヴン』を、「かぞえること、計算させること、名指さぬこと」のものがたりとして読んでみましたが、今日は、そこからの偏差を確認しながら、「すべて真夜中の恋人たち」を読んでみたいと思います。

受け身な語り手

雑誌「群像」11月号に、川上未映子のインタビューが掲載されています。聞き手は武田将明氏。そのなかで、武田氏は、「『ヘヴン』と『すべて真夜中の恋人たち』には、連続して読めるところがある」、と語り、「受け身」で「いじめ」をうける二つの作品の主人公二人の類似性を指摘します。

わたしも、「『ヘヴン』と『すべて真夜中の恋人たち』には、連続して読めるところがある」という意見に賛成なのですが、でも、この二つの作品の共通点が「受け身」とは思われません。まず、語り手が、「数をかぞえる」という身振りを提示しているところに、この二つの作品の連続性が求められるのではないかと思います。

そもそも、「かぞえること」は能動的な振る舞いで、「受け身」でできるものではありません。たとえば、最近、「説明責任」という訳語が定着してきた「アカウンタビリティaccountability」という言葉には、「かぞえることcount」が含まれていることに注目してみましょう。決して「かぞえること」が受け身ではないことが、おわかりいただけるのではないでしょうか。語り手は能動的なのです。

■かぞえること

「ヘヴン」の冒頭は、「四月」という季節をかぞえる言葉からものがたりが始まりました。同じく、「すべて真夜中の恋人たち」では「真夜中」という時をかぞえる言葉ではじまります。そして語り手が、「半分」と世界をかぞえたと思ったとたんに、「三束さん」という数をまとった登場人物の名前が登場します。これは、「ヘヴン」において「百瀬」という重要な登場人物が、「語り手から数をかぞえてもらうことが当然だ」といわんばかりに、数をまとっていたことを連想させます。

そして、決定的なことには、「光をかぞえる。」という一文が登場します。ふつう光はかぞえません。でも、この語り手は、やはり光をかぞえるのです。そして音楽までをも、「すべて」と、かぞえていきます。それから、ふたたび、真夜中の光を「残された半分」とかぞえていきます。この語り手は、かぞえることを、やめないのです。

「ヘヴン」の冒頭が「四月」であったことから、その後も、「僕」は季節をかぞえ続けました。「すべて真夜中の恋人たち」の「わたし」も、さりげなく、その身振りを反復していきます。第「2」章にはいったところで「いまはまだ四月」というフレーズが、そっと、文章の冒頭ではなく地の文に紛れ込んでいるのです。そして次の第「3」章では、「はっきりしない天気ばかりがつづいた五月」と続き、その後「六月の真ん中あたりに梅雨に入り」「さらに一週間が経った、七月最後の日曜日」「八月にはほとんど雨が降らなかった」と続いていきます。「わたし」は律儀にも「僕」に倣って季節をかぞえ続けるのです。

「わたし」の「かぞえる」能動的な行為は、まだ続きます。第「3」章では、カルチャーセンターの「全講座ご案内」を「二時間」かけて「正確な数はわからなかったけれど、たぶん千に近い数はあった」とかぞえているのです。

このように二つの小説は、「かぞえること」のものがたりであるという連続性があるのです。

■計算させること

さらに連続性は続きます。

「ヘヴン」の語り手である「僕」は、小説における「現在年」と僕の「年齢」を、読み手に計算させる形で提示していました。その後、いじわるにも、カレンダーを見ながらその読み手の計算が正しいことをつたえていました。

「すべて真夜中の恋人たち」でも同じように読み手に計算をさせる場面が出てきます。

第「2」章の冒頭では「いまから九年前の冬--二十五歳の誕生日」というフレーズが登場します。ここでも、語り手である「わたし」は「僕」に倣い、読み手に対して、「わたし」が「いま」、三十四歳であることを計算させます。そして、第「2」章も終わりかけたところで、素っ気無く「正解発表」がされるのです。「名前は入江冬子で、仕事はフリーランスの校閲をしていて、三十四歳。十二月、この冬が来たら三十五歳になる。」

名指さぬこと

ここにきて「ヘヴン」と「すべて真夜中の恋人たち」との決定的な違いが明らかになります。「ヘヴン」の「僕」は名前がないわけではないにもかかわらず、一人称と二人称で指示されるばかりで、最後まで名指されることはありませんでした。これに対して、「すべて真夜中の恋人たち」の「わたし」は「入江冬子」という名前が、あっけなく名指されているのです。

この姿勢は、徹底されています。

「ヘヴン」では、僕とコジマの二人の関係は、友情とも愛情とも支配関係とも名指されていませんでした。これに対して、「すべて真夜中の恋人たち」では語り手と異性との関係が、これまたあっけなく、「愛」である、と名指されています。しかも、おもしろいなあ、と思うのは、かつて蓮實重彦が夏目漱石「それから」を読解した文章の中で指摘したとおり、愛の告白が、「 I love you 」、というフォーミュラには、やはりここでもおさまっていないことです。つまり、近代以降の日本文学の特徴として蓮實重彦が挙げた、一人称から二人称への愛の伝達の不成立がここでもみられるのです。きわめてストレートな「愛」という言葉を用いつつも、しかも一人称を用いつつも、残念ながら、愛の対象は「二人称」ではなく「三人称」に向かっているのです。蓮實重彦の結論である、二人称へ向かわない愛は、試練としての色彩を帯びることになるという不吉な予言は、ここでも当たってしまったことになります。

しかも、ものがたりの次元を超えたところで、当初発表された「群像」文芸誌版でははっきりとは描かれていなかった三束さんの「嘘」が、新たに出された単行本版ではその内容が名指されているようです。このことは、ものがたりの次元とは異なりますが、名指すことに語り手は徹している姿勢を示そうとしている、ということではないでしょうか。(ちなみに、わたしも、「嘘」の内容は、作者である川上未映子が「そうは読めないように」書いた内容を想像していました。この訂正はおそらく正しいと思います。)

■かたちなきもの

では、名指さぬことにより「美しさ」にたどりついた「ヘヴン」とは異なり、徹底して「名指すこと」を試みる「すべて真夜中の恋人たち」は何を描いているのでしょうか。

あらためて冒頭の文章を読み返してみましょう。そこには、「真夜中」「光」「音楽」といういわば「かたちなきもの」が描かれています。「すべて」とかぞえられる「真夜中」というかたちなきもののなかに浮かび上がるものは「愛」です。

それは、言葉にしたからといって、「名指すこと」によっても、かたちが明確になるわけではない「複雑」なもの、「色々ある」もの。「何でもない場所に、目的のない、何のためでもない」ものとして存在する「愛」。「それが何なのか見当もつかない何のための何の言葉なのかさっぱりわからない」「愛」。この「かたちなきもの」を描くことに川上未映子は成功しているといえるでしょう。

やはり、言葉に対する鋭い感性に、敬服すべき作家であるという結論は変わらないようです。

では。

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コメント

【今日の言葉】

私はあなたについて伝え聞いていただけでした。
しかしいまや私はこの眼であなたを見ています。
(ヨブ記第四十二章第五節)

【読書日記 追記】

今日は川上未映子さんのサイン会に行ってきました。
ご本人をお眼にするのは初めてでしたが、やっぱりおきれいな方でした。でも、「冬子さん」がいたらこんな感じの方かな、と思ったのは何故でしょうか。文は人なり...なのかなあ。

投稿: とも | 2011年10月21日 (金) 23時01分

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