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彼女たちのいる街で-青山真治「東京公園」

【今日の言葉】

「迷える子(ストレイ・シープ)」と美禰子が口の中で云った。
三四郎はその呼吸を感ずることが出来た。
(夏目漱石「三四郎」)

【読書日記】

こんにちは。ともです。
今日は、青山真治「東京公園」を観てすばらしかったので感想など。
ネタばれになりますので、ご覧になられていない方は、是非、ご覧になってからお読みください。

まずは、まっすぐ「東京公園」に行くまえに、昨年上映された映画で少し古いのですが、ホセ・ルイス・ゲリン「シルビアのいる街で」にちょっと寄り道です。

■ホセ・ルイス・ゲリン「シルビアのいる街で」

ひとりの男が6年前に出会ったシルビアという名前の女性を探しにストラスブールの街をさまよう。カフェに座り女たちを見る男の視線、さまざまなカフェの客たちの視線の交差、絵画の中に迷い込んだような固定カメラの視点、太陽の光と反射に満ちた移動撮影の動き、路面電車を透かして見る女性の後姿、あふれかえる雑踏の音楽、さまざまな言語の話し声。ダイアローグがほとんどない映画にもかかわらず、エリック・ロメールの映画以上に会話であふれているかのような、豊かさにあふれる不思議な映画です。

「彼」はカフェに陣取り、女たちの姿をスケッチしていきます。ウェイトレスの輪郭を描いた素描の上に、「彼」はDans la ville de silvia(シルビアの街で)というフランス語をなぞります。そして、elle(彼女)と書いた後、ややしばらくして複数形の –sをつけelles(彼女たち)と直します。「彼女」とはシルビアのことだろう、といったんは納得した観客は、そこで、「彼女たち」とは誰のことなのかと訝しがることになるでしょう。

すでにいろいろな評者が指摘しているとおり、この映画では、不思議なことに、彼女らの誰もがシルビアに見えてくるのです。それはまるで、だまし絵を見ているかのようです。ここでふと思うのは、実は、この映画の主題のひとつは「複数性」「多様性」なのではないか、ということ。「彼」がストーカーまがいに追いかけることになる一人の「彼女」にしても、実に、いろいろな場所で、さまざまな表情を見せることになるのです。一でも多でもなく「複数」であること。シルビアという名前は、実は、その複数性・多様性の代名詞だったのかもしれません。

ちなみに話を脱線すると、主演のグザヴィエ・ラフィットXavier Lafitteの名前は、日本語表記では気づきにくいのですがフランシスコ・ザビエルFrancisco Xavierと同一。本名か芸名かは存じませんが、1974年パリ生まれということは、仮に本名であればフランス旧戸籍法の「子供には聖人の名前をつけるべし」という規定に則ってつけられた名前かもしれません。透明感があってカリスマ性も感じられる俳優なので、ザビエルの生涯を描いた島田雅彦「フランシスコⅩ」が将来映画化される機会があるときには、ぜひとも主役を演じていただきたいものです。

■デジャヴ(既視感)

青山真治「東京公園」を観ながら、ふと、「シルビアのいる街で」を思い浮かべたのは、どうやら、単なる私の気まぐれではなさそうです。パンフレットから青山監督の話を引用します。
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青山 ちょうど原作を読んだ頃、ホセ・ルイス・ゲリン監督の「シルビアのいる街で」を観て、自分もこういう作品がやってみたいな、そういえば、「フォロー・ミー」を思い出させる作品だな、と思っていたんです。
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確かに、「シルビアのいる街で」では、「本人の許可なく」、主人公は、捕らえた女性を素描していきます。「東京公園」でも、主人公の男がふと母の面影のある綺麗な女性を追うように、カメラでその姿を追いかけていきます。いずれも、主人公の動作である「描く」と「撮る」という違いはあるものの、語り手である「映画のカメラ」が密かに「ひとりの女性」を追っていく語り口は、ふたつの映画に共通しているものです。そこに何かデジャヴ(既視感)を私も覚えたのかもしれません。思いもかけず、島田雅彦が出演していたことも、私の中で、その思いを強めたのかもしれません。

「追われる女」である井川遥は、むかし、NHK教育テレビの「フランス語会話」でアシスタントをやっていたことを思い出します。ファビエンヌと一緒に、エリックさんやパトリスと絡んでいた頃が非常に懐かしいです。「ファビエンぬーっ」という井川遥の発音を「ちがう、ちがう」と思いながら観ていたのとは違い、今回の「東京公園」では彼女にセリフがありませんでしたので安心して観ていられます。彼女が辿る東京の公園の足跡が、渦巻き型になっているというのは、実は、東京とパリという街が、相似形になっているのではないか、という示唆に富むものです。役のこととはいえ、「遙ちゃん」、やるじゃん、と思いました。

■夏目漱石「三四郎」

もうひとつ、寄り道をすれば、最近、夏目漱石「三四郎」を読み直してみて、いままで、この小説をまったく理解できていなかったことに衝撃を受けました。今回、はじめて、夏目漱石「三四郎」を「きちんと読んで」判ったのは、三四郎と美禰子は、三四郎池で出会ったはじめから「お互い共」に「一目惚れ」だったんですね。しかも、「お互い共」に「一目惚れ」だなんて気づいていない。というところまで、夏目漱石はきちんと書き込んでいる。

青山真治「東京公園」の中で、血のつながりのない兄弟である、主人公と義理の姉のあいだの関係が、まさに、はじめから「お互い共」に「一目惚れ」だったにもかかわらず、「お互い共」に「一目惚れ」だなんて気づいていない、というところまで、まるで夏目漱石に倣ったかのように、青山真治はきちんと撮り込んでいます。青山真治は初めての二人の出会いの場面で、三四郎池のほとりのように、高いところに女性を置き、低いところから男性を眺めさせているのです。明治時代の美禰子が「絵」に描かれるのとは対照的に、平成の現代日本では、男は女をカメラで「写真」に捕らえます。

この場面の小西真奈美がすばらしいです。

全身で、女に生まれた性(さが)を表現していて、魂がゆさぶられるキスシーンになっています。
おそらく、ここで、夏目漱石で言えば、「三四郎」の続編である、「それから」の告白シーンまで一気に青山真治は描いていることになるのでしょう。

■「迷える子(ストレイ・シープ)」

夏目漱石の青春三部作といえば、「三四郎」「それから」に続き、「門」に至ります。青山真治「東京公園」は、バックパッカーのような身なりで榮倉奈々が主人公の前に現れるところで、急に「苦悩」の色を出してきます。ここでは、夏目漱石「門」のように、「親友の彼女を奪うこと」という主題が急浮上してくるのです。

あらためて、この映画を観て、不思議だなと思うのは、愛し合う男女の誰もが、「I love you」ということをひとことも口に出さない、ということです。蓮實重彦がかつて喝破した通り、夏目漱石に始まる日本の近代恋愛小説は、ことごとく、「I love you」という日本にはないフォーミュラを忌避します。「わたし」という一人称の主体が、「あなた」という二人称の主体に対して、正面切って、「愛」を伝達することはないというのです。(実例は、川上未映子や綿矢りさという現代作家まで枚挙に暇がありません。)

そのかわり、青山真治は、人物を「真正面から捉えた」極めて不自然なカットを多用します。しかしながら、それらの人物は、画面の構図に近代的な「主体」としてくっきり収まっているというよりは、どこか所在なげに、背景に同化しているかのように思われます。ここでも、青山真治は、夏目漱石以降の近代日本の「主体性」の問題をなぞっているかのようです。

われわれは、みな、いまだ、「迷える子(ストレイ・シープ)」。

そんなことを考えながら、この映画を観終わりました。

では。

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