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永遠のローマへ-ヤマザキマリ「テルマエ・ロマエ」、木庭顕「ローマ法案内」

【今日の言葉】

異国の言葉(ラテン語)で記された異国の法(ローマ法)は、
学者によって導入されたものであり
学者だけがこれを理解することができた。
(イェーリング「権利のための闘争」)

要するに「ローマ法」を何か打ち出の小槌のように神秘化して捉えてはならず
この態度はまた古色蒼然たるもののように感じて忌避することにも繋がる。
そして神秘化から免れる唯一の方法は人文主義的方法である。
(木庭顕「ローマ法案内―現代の法律家のために」)

【読書日記】

こんにちは。ともです。

今日の読書のテーマは永遠のローマ。
まずは、今年注目を浴びたヤマザキマリ「テルマエ・ロマエ」から。

■ヤマザキマリ「テルマエ・ロマエⅠ、Ⅱ」

正直はじめてⅠ巻を手に取ったとき、「ローマの風呂」だけで単行本マンガが成り立つものだろうかといぶかしがったものですが、読み出したらこれが面白くてとまらず、Ⅱ巻が出たとき迷わず買い求めたものでした。

ローマの「浴場技師」がタイムスリップして「平たい顔族」のいる現代日本の風呂文化を堪能するという話は、どうかんがえてもSFじゃあないし、そこのところのカラクリは全く無視して(何でタイムスリップするのかまったくわからない)、能天気にローマと日本の風呂文化を紹介し「もし日本の風呂文化がローマにあったなら」を絵にしてしまう構想力はすごいものです。不条理な状況においてもいつも明るいラテン人のなかで生活したことのある人だけが描きだせる、独特の味わいとでもいったらよいでしょうか。

■木庭顕「現代日本法へのカタバシス」

「テルマエ・ロマエ」を読みながら頭をかすめたのは、昔「法学教室」という雑誌に掲載された「現代日本法へのカタバシス」。タイムスリップしたローマ法学者が現代日本の法を論じた「偽書」を、木庭顕東大法学部教授が翻訳紹介するカラクリになっています。共通点は「ローマ」と「タイムスリップ」。相違点は、木庭教授の周到なカラクリです。

まず木庭教授によると、これは「偽書」ではない由。カンパネラの名前まで持ち出して17世紀西欧の知識人が錬金術に代表される魔術をサイエンスとして大まじめに研究していたことを指摘し(ピンと来ない人はディズニー映画「魔法使いの弟子」を観ましょう)、ローマ法学者が水晶玉で同僚をタイムスリップさせたことになっています。その水晶玉に映し出された同僚の言葉を17世紀に書き写して出版したのだと。

そこまで言われてしまうと「理由なくタイムスリップしようが、魔法を使ってタイムスリップしようが、もうどうでもいいや。とはいえ、さすがナポリに留学した木庭教授のことだけあってラテンの血を引いたうまい冗談だ」と手をたたいてしまえば済むかのように思われますが、実はここからまだ先があります。

■木庭顕「G.V.Gravinaのための小さな覚え書」

「現代日本法へのカタバシス」には二人のローマ法学者が登場します。一人は魔術を操る水晶玉の法学者。もう一人は人文主義を愛する法学者です。「偽書」でないとするならば、この二人にはモデルがいるはずです。しかも17世紀のローマ法学者。この謎を解き明かすには「国家学会雑誌」に掲載された小論「G.V.Gravinaのための小さな覚え書」を読み解く必要があります。

「G.V.Gravinaのための小さな覚え書」の論述の基本線は、スピノザとモンテスキューをつなぐ思想的系譜上にグラヴィーナという人文主義法学者がおり先駆的な市民社会論を展開していたという点にあります。また寄り道として、その系譜上の「縦のライン」とは別に、「横のライン」としてグラヴィーナと同世代の思想家ヴィーコが紹介されています。ヴィーコは「自叙伝」を読めばわかるとおり実はローマ法の教授になれなかったローマ法学者です。そして木庭教授はヴィーコの「verum=factum」論を魔術的と評し、人文主義法学者であるグラヴィーナと対比しているのです。木庭教授がグラヴィーナの側に陣取っているのは明らかでしょう。

そうです。お気づきの方もいらっしゃるとおり、「現代日本法へのカタバシス」は「もしグラヴィーナが現代日本に生きていたなら」という空想小説の形を借りて、木庭教授が人文主義法学宣言をしているマニフェストだったのです。

■木庭顕「ローマ法案内―現代の法律家のために」

その木庭教授が初めてローマ法の概説書を著したのが「ローマ法案内―現代の法律家のために」です。著者曰く「そもそもローマ法学者でない」とのことですが、今まで見てきたとおり「人文主義法学者」であることの裏返しとして挑発的に言っているにすぎません。

では誰を挑発しているのか。

同時期に公表された「債権法改正の基本方針」批判論文では「ロマニスト」と名乗っていますから、もしかしたら「ロマニスト」を名乗れるのはサヴィニーと木庭教授だけで、それ以外は骨董屋ローマ法学者、その成れの果てである日本の民法学者はただの似非ローマ法学者だと言っているのかもしれませんが、そこまでは書いていないので真偽のほどは不明です。

ただ「『債権法改正の基本方針』に対するロマニスト・リヴュー,速報版」において起草者達である日本の民法学者を「まるで何も知らないゼミ学生のレジュメのようだ」と一笑に付しているところなどを読むと、不条理な状況においてもいつも明るく笑ってしまえというラテン気質を垣間見る気がします。「改正過程に参画する議論を構成しない」とは「チャンチャラおかしくて笑うしかない」という意味の控えめな表現に思えるのは、私だけでしょうか。

では。

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