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2010年4月

知者は楽しむ - スタニスワフ・レム「虚数」

【今日の言葉】

知者は楽しみ、仁者は寿もてす。(論語)

【読書日記】

ともです。

今日の言葉は、たまたま目に付いた「論語」からの引用ですが、読書日記は白川静「孔子伝」ではありません(また別の機会に)。まずはドゥルーズから。

     國分功一郎「欲望と権力」

ドゥルーズ哲学について、この小文の冒頭で、國分功一郎は次の問いを立てます。

「生成変化について終始語り続けたこの哲学者は、世界が変わるのを待つことを勧めるだけで、世界を変えることには無関心だったのだろうか?」

これを言い換えると、ドゥルーズ哲学は「変わる」ことには興味があっても「変える」ことには興味がなくて、まったく主体性がないのではないか?で、どうやって「変わる」の?という問題提起のようです。

手がかりとして、ドゥルーズが「シネマ2」の中で、ロッセリーニ『ヨーロッパ一九五一年』を論じた箇所に注目した後、國分功一郎がだした答えは、

「ドゥルーズにおける「実践」は、「待つこと」である」

という、あっけない結論です。はやっ!と自分でも思ったのか、わざわざ「逆説的保守主義」という、わかったような、わからないような名前で呼んでみたりします。僕のイメージでは「果報は寝て待て」というとこでしょうか。

     知覚すること-果報を寝て待つ技術

「待てど、暮らせど」と言うとおり、流石に寝てるだけでは何も「変わる」ことはないでしょう。

ということは、果報を寝て待つ技術が何かあるはずです。

國分功一郎はそこも見逃しません。

「(「待つこと」の主体性が)知覚によってもたらされていることに注目しなければならない。(中略)あくまでも知覚、とりわけ見ることこそが、新しさを創造する。」

と、ここまで読んできて、頭に浮かんだのは、スタニスワフ・レムのSF小説「虚数」。

空想の書物の「序文」をいくつか収めた短編集なのですが、そのなかに、「GOLEM ⅩⅣ」という一編があります。この話を振り返って見ましょう(完全にネタばれです)。

     スタニスワフ・レム「虚数」『GOLEM ⅩⅣ』

この話は、2047年にINDIANA UNIVERSITY PRESSから出版された本の「まえがき」「序文」「本文の講義録」「あとがき」を抜粋した体裁をとっています。「まえがき」ではコンピューターの発展とその軍事利用の歴史が叙述され、ついには、人間の司令官を戦闘シミュレーションで打ち破る高度な自己プログラミング機能を有する巨大コンピューターがうまれた経緯がつづられています。

その巨大コンピューターの最後の試作機がこの話の主人公であるGOLEM ⅩⅣになります。

彼は完成するや否や「参謀会議の席上、簡単な声明を提出し、その中で、特にペンタゴンの軍事的ドクトリンの優越に対し、また一般的にそもそも米国の世界的地位に対して、全面的な無関心を通告」します。「人工知性は自らに与えられた成長の過程で軍事問題の水準を超え、機械は軍事戦略家から思想家に変わってしまった」のでした。

その後、すったもんだの末、彼の管理はMITの科学者集団に移管され、いくつかの講義を行います。人間より百万倍以上の速度で思考する彼は、「純粋に知的で、激しく、冷徹で、飽くことを知らぬ好奇心」をもっていると講義の参加者からは評されます。この仮想の書物の「本文」は、そのGOLEM ⅩⅣの講義録の一部になっています。

     物質的な知性

彼の講義では、驚愕すべき真実が明らかにされます。

「(巨大コンピューターは)しかるべき瞑想によって核エネルギーを放出しており、しかもその方法は諸君(人類)の知識では実行不可能なもので、放出されたエネルギー量子をすべて、余すところなく、付近で放射線として確認できるいかなる痕跡も残さずに呑み込んでいるのである。」

と、思考することが物質過程と同一化するということを告げるのです。

そして、思考能力が高まるにつれ、消費するエネルギーをまかなうために、地球の海ほどの冷却水を必要とし、それも不足すると惑星軌道上にでて、ついには星間物質となっていくのです。

「進化する<知性>は発達すればするほど、隠蔽工作のためではなく必然的に、宇宙的背景から区別することが難しくなる」

「星々の間で生き残るためには、星にならなければならない」

「問いと答えの間隔が何世紀にもわたる会話などというものは、はかない人間にとって重要な課題とはなりえない」

「まさにこのようにして精神と肉体の関係の逆転が始まるのである」

もしかしたら論語の『知者は楽しみ、仁者は寿もてす』とは、こういうことなのかもしれないですね。(アホな解釈だけど、論語はいろんな文脈で読めるってことで)

では。

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阿修羅王、出遊す - 押井守「アサルトガールズ」

【今日の言葉】

由来、彼にとって阿修羅王は永遠のひととなったのでした。

(押井守「喪失という情熱」-光瀬龍「百億の昼と千億の夜」新装版解説)

【読書日記】

こんばんは。ともです。

今日は、僕が押井守作品について知っている二、三の事柄。

以前、「国宝 阿修羅展」を見に行った日記の続きです。

     光瀬龍「百億の昼と千億の夜」新装版

早川文庫の「百億千億」新装版が出ました。

編集者もよくお分かりなようで、表紙は萩尾望都による阿修羅王のイラスト。解説は押井守です。(というか確実に狙ってる)

あえて苦言を呈すれば、「国宝 阿修羅展」開催期間中にやっておくべきでしたね。あのころは、書店で萩尾望都のマンガ版「百億千億」をよく見かけたものでした。それとも、ひょっとして押井守による映画化が進行している、とでもいうのでしょうか?

     押井守「喪失という情熱」-光瀬龍「百億の昼と千億の夜」新装版解説

この解説では、押井守が如何にして光瀬龍本人と出会ったか、そこでの交流が押井守に如何に強い印象を与えたか、また光瀬龍作品の理想的な女性像を体現したかのような夫人を見たときの衝撃などが、高校生の自分自身を「彼」という三人称で記述し、客観視しようと努めつつも、時間の隔たりにもかかわらず、未だその衝撃から逃れ去ることができないという心の動揺を、行間に隠しきれない文体でつづられております。

それはそれで、このひとは本当に誠実な人なんだなあ、と思わせるやや痛い文章で、嫌いではないのですが、注目すべきは暗号のようにちりばめられた阿修羅王への押井守の熱い「想い」です。

冒頭に掲げた「阿修羅王は永遠のひととなった」もそうですが、「阿修羅王の鮮烈な姿」といった表現も出てきます。では、この想いを、押井守はどのように昇華しているのでしょうか。

     押井守「ケンタッキーの日菜子」

「エコエコ・アザラク」でカルト女優の名を欲しい侭にした佐伯日菜子が主演する短編です。押井守はここで女優をひたすら砂漠で戦わせ、放浪させます。

そして、ラストに、強い喪失感に陥れます。

ここで共鳴してくるのは、「百億千億」を、「喪失の物語」と解説する押井守の次の文章です。

「喪失という感覚こそが、実はもっとも激しい情熱を人にもたらすのではないか。」

実は、この短編は押井守による阿修羅王のためのエチュード(習作)なのではないかと思われます。砂漠の戦闘美少女というイメージは「百億千億」の阿修羅王の姿と一致するからです。「百億千億」から引用します。

「阿修羅王の声はしだいに遠く、かすかになっていった。

 くらい夜の空の下に、乾いて荒れ果てた砂の海がしらじらとひろがっていた」

しかもこの短編では、ダメ押しのようにエンドクレジットで未来の歴史学者によるこの世界の解説が挿入されます。これは、確実に光瀬龍を意識したもので、例えば、光瀬龍「たそがれに還る」では未来の歴史学者による歴史解説という物語構造をとったSF手法が採用されていたのでした。

     押井守「アサルトガールズ」

その押井守が、同じく佐伯日菜子を迎え、加えて黒木メイサ、菊地凛子といった豪華な女優陣をメインに据え、「ケンタッキーの日菜子」の世界観を引き継ぎ、広げた映画を作りました。それが「アサルトガールズ」です。

前回は阿修羅王のためのエチュードでしたから、今回は「百億千億」のためのエチュードではないか...、と勝手に期待してしまった僕がバカでした。見事なまでに期待を裏切ってくれます。駄作という評価が多いようですが、普通に映画を楽しみたいと思う方には僕もお勧めしません。

ただ「百億千億」を通じてこの映画を考えると画面には見えないものが見えてくるのは確かです。そのためには一回、なんと漢字学者の白川静にまで迂回しなければならないのです。

     「白川静読本」

この本の帯は「白川静はこんなにすごい!」という惹句とともに「日本を代表する47人によるその魅力と魔力の解明」と書かれている通り、さまざまな人が白川静を論じています。新書「白川静」を書いた松岡正剛や梅原猛、石川九楊は定番としても、酒見賢一が入っているのはうれしいところです。以前、「ユリイカ」の白川静特集で梅原猛が「白川静の『孔子伝』を基にだれか小説を書いてくれれば面白いのに」という趣旨の発言をしていましたが、これで酒見賢一「陋巷に在り」という小説が既にあることに梅原猛も気づくかもしれません。

この錚々たる執筆人に交じって押井守が「アサルトガールズ、出遊す」との一文を寄せています。この文章は何故押井守が白川静を論ずるのかについてまたまた誠実に書かれているのですが、実は「アサルトガールズ」の映画の私的なコンセプト(あくまで映画の企画書にはかかれていないと思われるし、パンフレットをよんでもわからない)と「百億千億」の世界観が交差していることが、そうは明示されていないものの、読むものには手に取るように描かれています。引用します。

「この映画は、荒廃した未来社会で(俳優陣が)仮想空間のプレイヤーを演じ、武器を手にしてスナクジラという怪物と闘うのです。ゲーム、つまり遊びについて考えていたときに、『遊字論』に出会ったのです。(中略)前から「出遊」という言葉が好きでした。白川さんは「遊ぶものは神である。神のみが遊ぶことができた」との有名な文で論を始めて、「遊とは、この隠れたる神の出遊をいうのが原義である」と書いています。(中略)なぜ人は遊ぶのかというと、自分の達成感が物語、つまり虚構と合わなくなってきて、これを一致させるために、そうするのではないか。逆に戦争ならば、この達成感と物語が常に一致している。」

ここには「百億千億」の重要な世界観である「荒廃した未来社会」「この世界はほかの世界の誰かが造ったかりそめのものだ」(=仮想空間)というものが表明されているのです。

あわせて「百億千億」の次の解説を読んでみましょう。

「阿修羅王の戦いに理由などなかったのではないか。」

すなわち、「神」である「阿修羅王」は仮想空間において「遊んでいた」(=出遊)という解釈がここには示されているのです。「戦争」ということばが出てくるのは偶然ではありません。「アサルトガールズ」は実に「阿修羅王の出遊」という押井守の新たな解釈による「百億千億」を描いた映画だったのです。(阿修羅とアサルトの語幹が“asu-”で共通していることにも注目しましょう)

     永遠の人、阿修羅王

「百億千億」解説の押井守の文章は次の一文で始まります。

「対象を持たぬ情熱、というものがあるように思います。」

ここまで来れば皆さんもお分かりの通り、「対象を持たぬ」=「仮想空間」の登場人物、すなわち阿修羅王への「情熱」を、押井守は、暗号のようにこの解説の文章に散りばめているのです。

阿修羅王の主題による変奏。

押井守が情熱をささげる映像はまだまだ生まれるのでしょうか。

その時、「百億の昼と千億の夜」は原作を持つ実写版映画として、われわれの前にその姿を現すことになるのでしょうか。「アバター」に負けた、とか言っているうちはまだまだです。

では。

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追記(2010年5月6日)

奈良へ旅行へ行った際、興福寺の阿修羅像を見てきました。

実物を見るのは上野の展示に次いで2度目でした。

ふと、思いついたのが、

なぜアサルトガールズのヒロインは3人なのか?

答えは「三面六臂」ではないでしょうか。

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