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2010年3月

贈りものに関するエッセー - ホワイトデーに寄せて

【今日の言葉】

おそらく私のスラブ的性格は西ヨーロッパ人よりも柔軟であり生まれつきもっと野蛮な
のだろう。
(マリノフスキ「西太平洋の遠洋航海者」)

【読書日記】

こんにちは。ともです。
先週末はホワイトデー。うちの男ども(僕と息子)も妻にホワイトデーのお返しをしまし
た。まったく、普段女性へのプレゼントなどとは無縁の世の男性達は苦労しているよう
でこんな記事がネットに出ていました。

■男が悩む義理チョコの返し方

2月14日のバレンタインデーに女性から愛の告白と共にチョコレートを贈られた男性が
、その1ヵ月後の3月14日にお返しをするイベントといえばホワイトデー。このイベン
トは1980年に全国飴菓子工業協同組合が発案した日本独自のものと言われており、男性
はキャンディーやビスケット、マシュマロなどをお返しするのが一般的とされています
。

このホワイトデーが近づくとデパートや洋菓子店などで男性の姿をよく見かけるように
なりますが、彼らが何より頭を悩ませているのが《何を買えばよいかわからない》とい
うこと。好みや欲しい物がわかっている恋人へのお返しであれば何を買うのか悩むこと
はあまりないと思いますが、職場の女性や知人の女性からもらった義理チョコへのお返
しともなると相手の好みがわからず、選ぶのはなかなか難しいようですね。

バレンタインデーの時に《もらったチョコレートはいくらだったのか》がわからない、
《お返しの相場がわからない》というのも男性にとっては悩みの種。相手に直接金額を
聞くのははずかしいし、相手にもらったものより安いものを贈るのは男としてのプライ
ドが許さない――。「ホワイトデーは2倍返し、3倍返しがあたりまえ」などと言われ
ているのを考えると、男性にとっては何とも頭の痛い問題です……。

普段から情報のチェックを欠かさない女性と違って、《どのメーカー/ブランドなら恥
ずかしくないのか》がよくわからない、あるいはデパートや洋菓子店などに《買いに行
くのが恥ずかしい》というのも男性ならではの悩みと言えますが、あまりあれこれと思
い悩むようであれば、思い切って女性に直接「何がいい?」、「お薦めは?」と聞いて
みるのも良いのではないでしょうか。

■マルセル・モース「贈与論」

バレンタインデーに対するお返しとしてホワイトデーがあるのですが、1980年の全国飴
菓子工業協同組合という業界団体の組織的思惑の存在など知らない世の中の大多数の男
達に、何故これほどまでホワイトデーが浸透してしまったのか。バレンタインデーの贈
り物は何故返さなければならないのか。とりわけ義理チョコへの2倍、3倍返しは何故発
生するのか。何故日本独自のものなのか。

この不思議なメカニズムについては、実は既に前世紀に学問的な決着がついています。
それがフランスの社会人類学者マルセル・モースの「贈与論」です。
ご存知の方も多いと思いますが簡単に内容を振り返ってみましょう。

モースは民俗学、社会人類学の文献を猟歩した上で、理論的な綜合を行いアルカイック
な形態の経済社会は贈与により形作られていると結論付けます。これは原始社会が物々
交換による経済社会だとする従来の見方を覆すものでした。

そしてこの贈与経済は、贈り物を「贈ること」と「返すこと」から成り立つ互酬性(re
ciprosity)原理でできていることを明らかにしました。何故贈り物は返されねばなら
ないのか。そこには「ハウ」とか「マナ」とか呼ばれる贈り物に宿った精霊が返さねば
悪さをするのだという原住民の意識があるのだとされます。

このことをモースは一般化して、贈り物を受け取った人間には「負い目」すなわち債務
を返済しなければならない者(債務者)の意識が生じるからだと結論付けます。この負
い目は、しばしば見栄、名誉心に転じ、贈り物を返すときに競争的な贈与が発生するこ
ともあります。それがアメリカン・インディアンの社会に見られる「ポトラッチ」で、
最高の価値のある贈り物を究極の贈与として「壊す」こと(すなわち神への贈与である
喜捨に近い観念)まで競争が激化すると指摘しています。

日本男子が悩む義理チョコへの2倍、3倍返しというのは、この「ポトラッチ」の初期段
階、プチ・ポトラッチとでもいえるのではないでしょうか。

■マリノフスキ「西太平洋の遠洋航海者」

このモース贈与論のネタ本となったひとつが、マリノフスキ「西太平洋の遠洋航海者」
です。いつか読んでみたいと思っていましたが、最近講談社学術文庫で刊行され手に入
れやすくなりました。解説の中沢新一はモースの研究の動機、師匠が作ってモースが受
け継いだデュルケーム学派の特徴を次のように正確に理解しています。引用します。

■中沢新一「解説 クラと螺旋-新しい贈与経済のために」

 産業資本主義が本格的な稼動を始めていた十九世紀後半でも、ヨーロッパの田舎へ出
かけてみれば、まだこの互酬性に基づく人間関係が、生き生きとした活動を続けていた
。この時代の社会思想家たちは互酬性の働きを実際によく知っていたので、この互酬性
こそが産業資本主義によって解体しかかっていた人間の社会性を蘇らせる有力な原理で
あると考えた。
 そこでたとえば富の配分の不公平に憤っていたプルードンのような思想家は、その原
因を私有制の中に見いだして「私有制は非-互酬性(non-reciprosite)である」と書
くことができた。彼は互酬性に基づいて人々が連合していた古い社会(そこにも私有制
は存在していたのであるが)を解体して出現しつつあった産業社会の私有制を告発して
いたのであるが、これを見ても、当時盛んだった社会主義や共産主義の思想にとって、
互酬性の概念が想像力の源泉のひとつであったことが、よくわかる。
 このような広い意味での社会主義に深い共感を抱いていた社会学者マルセル・モース
にとっても、同時代の人類学の研究がつぎつぎに明らかにしつつあった互酬性の概念は
、未来社会を開く鍵のような輝きを秘めたものと思われた。物々交換を組織化した市場
の発達によって、それ以前の人間社会のあり方であった互酬性の諸組織は、たちまちの
うちに衰退しつつあったが、その衰弱しつつある諸制度の内部から、大急ぎで「贈与」
の原理を救い出し、歴史の埃を落として真新しい現代の理論に鍛え上げることによって
、産業資本主義の生み出しつつあった非人間性からの脱出口うぃ見いだすことができる
かもしれない。モースの『贈与論』には、このような真剣な済民的企画が秘められてい
た。

■母系的社会

で、マリノフスキ「西太平洋の遠洋航海者」を読んでみて面白かったのは、実は互酬的
「クラ交易」の部分より、トロブリアント諸島の民俗誌的記述のほうでした。曰く、「
部族生活のなかでの女の地位も、やはり非常に高い」とこれらの島々の部族が母系的で
あるとしていくつかの具体例を示しています。

「成長するにしたがって、乱婚的な自由恋愛の生活に入り、それがしだいにかなり恒久
的な愛情に発展し、その一つが結婚に終わるのである。しかし、こうなるまでは未婚の
女性はかなり好きなことをする自由を持つと、一般に考えられている。」との記述は、
ここだけ読めば日本を含む現在の先進国社会といったいなにが違うのかと思わせるよう
な内容です。

「また、訪問団がほかの地区からやってくると、未婚の女性たちが食物を持ってくるの
であるが、彼女たちは訪問客の性的欲求を満足させることをも期待される」とのくだり
は、中国の古代王国である夏の禹王を描いた酒見賢一「童貞」の同様の場面を想起させ
ます。童貞である彼はそれを拒み、実は純愛に生きるのですが、そもそも古代王国創設
の野望の原点が、彼の母系社会への嫌悪であったというのが示唆的です。

母系社会の高い女性の地位は、マリノフスキによると、どうも「畑仕事」を女性が握っ
ていること、つまり経済社会的な基盤を女性が握っていたことにあるようです。

■木庭顕「政治の成立」

中沢新一は先に見たように、贈与経済の中にに新たな社会の可能性を夢みることにどう
も興味があるようなのですが、同じ年に生まれ、同じ時期に大学で学んだ木庭顕は
これに真っ向から反対します。

木庭顕「政治の成立」は「何が政治を成立させる諸条件なのか」を探ることをテーマと
していますが、モース「贈与論」を徹底的に批判的に分析した結果として、そこから「
枝分節segmentation」と「分節articulation」という概念を見事に抽出します。

「枝分節」とは、贈与論的な宗教・政治・経済・社会・文化が渾然一体となった全体社
会を批判する概念として登場します。そのキーワードはまさに互酬性です。一方、「分
節」はスパッときれいに鋭利な刃物で切り取ったような明晰な社会を意味します。曰く
、枝分節社会には「政治」はなく、分節が成立してこそ「政治」が成立するのである、
と。

その意味で、枝分節社会は社会契約論者が描く「自然状態」に近いものとして概念され
ますが、より正確には「社会状態」であるが「政治状態」には入っていない、入ること
のできない社会であると想定されているようです。

最近、日本の実力政治家に関する報道の中で、当人の妻がある有力企業の娘である
といった報道もなされたわけですが、まさに、ある有力企業といういわば「畑」をもつ女性
が妻であること(母系社会)、それらを背景として互酬的に権力と資金の交換が行われ
ていた(と見える)こと。そこが、すなわち、本来互酬的であってはならない「政治」が互酬性に犯
されていたとして、言語により批判された(本来の分節=政治の機能)、ということの
ではないでしょうか。

ということは、最高権力者ともいわれる政治家が贈与論的な社会原理に従っているこの
日本社会は、いまだ政治を持たず、互酬的な社会にとどまっていることを実は示してい
るのではないでしょうか。

これらの陰惨な想像をめぐらせながら、なんとなく日本独自といわれるホワイトデーが
盛況な理由がわかった気になるのでした。

では。

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