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2009年10月

レインボーブリッジの恋人―是枝裕和「空気人形」

【今日の言葉】

決して一つの意味に還元されることのない映画への驚きを他者と共有すること。
(蓮實重彦「映画論講義」)

【読書日記】

こんにちは。ともです。
前回ぺ・ドゥナの魅力に触れた是枝裕和「空気人形」について、今日は別の視点からお話してみたいと思います。

■ レオス・カラックス「ポンヌフの恋人」

観始めた瞬間、これは「ポンヌフの恋人」だと思いました。

冒頭の夜道を走る車、そこから「ゆりかもめ」の車内に視点を移し現れる登場人物。「空気人形」のこの場面は、コダーイのチェロソナタで印象的に始まる「ポンヌフの恋人」の冒頭と親近性を持っています。夜のパリの地下道を疾走する車、その車が主人公をはねる場面。この映画的な記憶をたどって、レインボーブリッジとポンヌフという日仏の首都を象徴する二つの橋が交錯しているのです。

ほかにも親近性が見られます。
橋を介した「水辺の恋人たち」という主題。
川を隔てた「向こう岸の建物」をおさめる構図。(サマリテーヌ百貨店と高層マンション)
記念日の花火(パリ祭)と空気人形の誕生日のロウソクの火、クラッカーのはじける音。
虚脱感に放浪する画学生(ジュリエット・ビノシュ)と中身が空っぽな空気人形(ぺ・ドゥナ)。考えてみれば「ゆりかもめ」の始発駅は、そもそも新橋=ポンヌフ!ではなかったでしょうか。

■ コンポジシオン。それこそ芸術の唯一の定義である

ペ・ドゥナ演じる空気人形が隅田川で舟に乗るシーンがあります。
ここで幾つかの橋をくぐりぬけ、まるでパリのセーヌ川の遊覧船に乗っているかのように東京が意外にも江戸時代から続く川の街であることを再認識させるシーンです。
また印象的な場面として空気人形がビルの屋上に立ち街を見渡す場面も出てきます。

ここで僕が思い出したのが、以前見た押井守の「NHK ようこそ先輩」という番組。ご存知のとおり自分の母校で有名人が授業をおこなうというコンセプトの番組です。

その番組の中で押井守は、小学生のクラスを船に乗せて隅田川をさかのぼらせ、また、高層ビルの最上階からの眺めを見させます。そしておもむろに「普段と違う視点から見る事の重要さ」を小学生に向かって講義し始め、課題として「普段と違う視点で見た東京の絵」を描かせ始めたのです。

つまり、まず仰角と俯角からの東京の構図を子供たちに提示し、その新鮮な驚きを体験させ、そして次に「自分だけの視点」で絵を子供たちに描かせたのです。ドゥルーズの「哲学とは何か」に「コンポジシオン(=合成、創作、構図)、それこそ芸術の唯一の定義である」という言葉があるのですが、押井守が突然ドゥルーズ主義者になってしまったかのように「芸術は構図だ」と言い出したことに僕は驚きました。

この「空気人形」でも押井守とまったく同じ視点が取られています。
仰角と俯角からの東京の構図を、人間とは違う人形の視点で新鮮にみせること。
このようにペ・ドゥナの圧倒的な存在感の裏で、是枝裕和監督は舞台装置の設定を丁寧に行っていたことがわかるのです。

■ 都市の構造とそこに生きる人々の精神

ここでもうひとつ思い浮かべる言葉があります。少し長くなりますが引用します。

ミレトスのヒッポダモスは都市の形態が深く国政の態様status rei publicae(政治システムの骨格)に関わることを洞察した。単に計画的な都市ならばそれまでにもあったのだ。多元的なmultiplex 公共空間に如何に自由かつ開放的な脈絡を与えるか、ということを意識する精神の成熟がヒッポダモスの思考の基礎であり、これが無ければデモクラシーは無かった。(木庭顕「現代日本法へのカタバシス」)

オスマンによる大規模な都市計画により整備され、いまもそのまま維持されている壮麗なパリの街を描いた「ポンヌフの恋人」と大規模な公共事業の時代が終わり、これからはその都市構造が大きな変化を経ずに維持されていくであろう東京を描いた「空気人形」。どちらも橋を介して描かれた都市の構造とそこに住む人々の精神の「いま」を切り取ろうとしている映画に違いありません。(カラックスはわざわざ大規模なパリのオープンセットを街を丸ごと再現してまで映画を撮影しているのです)

「空気人形」における「ポンヌフの恋人」の映画的引用から見えてくる是枝監督の構想はこのように雄大です。それに成功しているかは、映画「空気人形」を見終わった人の判断に委ねられているということではないでしょうか。

では。

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見えるものと見えざるもの―Visibilium omnium et invisibilium

【今日の言葉】

あなたも あるとき
私のための風だったかもしれない
(吉野弘「生命は」)

【読書日記】

こんにちは。ともです。
最近気になったものから。

■アベラールとエロイーズ「愛の往復書簡」

普遍論争というものが西洋中世にありました。
そもそも答えがないことや、仮に答えがあってもどうでもよいことを延々論じあうこと
を神学論争と揶揄しますが、それです。「普遍」というものが実在するのか名前だけか
を主題にしたようです。「普遍」を「神」に置き換えて読むとなぜ議論が激しくなるの
かわかります。

アベラールは12世紀のフランスで普遍論争の論客(唯名論の創始者といわれている)。
弁証家として名声を手にしていたアベラールは聖職者であるにもかかわらず教え子のエ
ロイーズと禁断の愛に落ち、ふたりの仲は悲劇的に裂かれます。

と書くと美しいようですが、アベラールが誰かに出した手紙(第一書簡)を、身を寄せ
た修道院でたまたま読んだエロイーズは烈火の如く「なんであたしにも手紙くれないの
よ」という趣旨の手紙をだします(第二書簡)。それを丁寧に諭しつつ、つれなく返す
アベラール(第三書簡)に対し、今度は「そんなこといっても、私にはもうあなたの思
い出しかないの」とエロイーズが切々と訴える(第四書簡)やりとりが続くように、ド
ロドロです。

以下にちょっとながいですがエロイーズの第四書簡から引用します。

あなたと分かち合った愛の歓びは、私にとって、それは甘美なものでした(中略)厳か
なミサのさなかでも、私たちの淫らな交歓の幻影が哀れな私の魂を襲ってきますので、
お祈りのことよりも、いかがわしい妄想に夢中になってしまうのです。犯した罪を嘆き
わびなくてはならない私ですのに、むしろ失った歓びを想ってため息をついてしまうの
です。いいえ、私たちのしたことばかりではありません。事に及んだその場所や、その
時間までもが、あなたの面影とともに私の心にくっきりと刻み込まれていますから、心
の中で、あなたと一緒に、また同じことをやり直すのです。眠っているときも、その幻
から解き放たれることはありません。ときどき、胸中の想いが、うっかり体の動作とし
て出てしまったり、不意に口をついて出てしまったりすることもあります。ああ、ほん
とうに私は不幸です。

「うっかり」って...。と修道女がこんな手紙を書いていることに愕然とするわけで
すが、そこはフランス。エリック・ロメール「我が至上の愛 アストレとセラドン」を
見てもわかるとおり、キリスト教化される前のガリアと呼ばれた昔からフランス人はエ
ロかったということでしょうか。

■是枝裕和「空気人形」

息を吹き込む、とは比喩的表現として生命感を与えること(いき=生き)ですが、
それを是枝監督は即物的に映像化します。

ペ・ドゥナ演じる空気人形が裂けて空気が漏れる場面。
思いを寄せている男が、彼女のお腹の栓から息を吹き込む。
みるみるもとに戻る身体。
その悦びを、ペ・ドゥナはとても官能的に演じています。

「私は猫ストーカー」で好演していた星野真理もでているのですが
とにかくペ・ドゥナの存在感に圧倒される映画です。

■アンヌ・フォンテーヌ「ココ・アヴァン・シャネル」

シャネルが成功するまでの人生を、「アメリ」のオドレイ・トトゥが演じています。
誰に対しても物怖じせずはっきりと自分の意見を主張する彼女は、それを自分の人生で
実現するすべを知らずに悶々とした日々を過ごします。

それが恋に落ちることで一変し輝いていく。オドレイ・トトゥはその姿を鮮やかに表現
していきます。最後のシーンで成功の喝采の中、堂々と遠くを見つめて事故死した恋人
との想い出を回想する場面。この一点を描くことに映画は成功しています。

■西炯子「娚の一生」

哲学教授と負け犬女子の恋愛モノの漫画です。
負け犬女子の出口戦略としておじさんを提示したところがすでにファンタジーになって
いるのですが、最近はそういう需要が多いのでしょうか。

僕は「天才柳沢教授の生活」のような含蓄を期待して手にとってみたのですが、あんま
り哲学的なものは出てきません。哲学者と才気ある女子といえばアベラールとエロイー
ズの関係を想起させますが、既に女性が手に職を持って自立しているところが時代の変
化でしょうか。

哲学教授が女性に求婚する場面でこんな言葉を言い捨てます。

「ええか、ぼくは『結婚しよ』と言うてるだけや。
『幸せになろ』なんか言うてへん」
「......し、幸せにならない結婚ってなんなんですか!?」
「知るかえ。“幸福論”はぼくは専門外や」

京都学派の哲学者ならこんなこと言いそうですね。
では。

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