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2009年7月

かぞえること、計算させること、名指さぬこと―川上未映子「ヘヴン」

【今日の言葉】

「わたしは、君の目がとてもすき」
(川上未映子「ヘヴン」)

【読書日記】

こんばんは。ともです。
今日は川上未映子の新作小説「ヘヴン」について。

■数をかぞえること

「四月が終わりかけるある日、」

という季節をかぞえる言葉からこの小説は始ります。
この小説の語り手は、数をかぞえることから物語を始めるのです。

そして「三限目」「最初」とやはり語り手は数をかぞえていきます。

「クラスメイト」も「二ノ宮」「百瀬」という名前で、語り手に数をかぞえてもらうことが当然だといわんばかりに、名前に数をまとっています。

それでやはり「五月に入ってすぐに」と語り手は季節をかぞえていきます。その後、「六月」「七月」と数をかぞえていくだろうことは、おおよそ予想がつくはずです。

それでも、数をかぞえることなどで小説というものが成り立つのだろうか、といぶかしがる読み手に対して、決定的に、これは語り手が数をかぞえる物語なのだと確信させるのは次の言葉です。

「こんなとき僕はなにも考えずにただ数をかぞえることにしていた。百までいったらもういちど一にもどって、なにも考えずにただそれだけを繰りかえした。」

これは、なにも考えずに、語り手が数をかぞえる小説なのです。

■読み手に計算させること

「中学校生活が終わるまであと一年半」とコジマという同級生の女の子は書きます。

ここでは読み手に、かれらが中学二年生であることを計算させます。

続けて「一九九九年の七月の第二水曜日に、そのときわたしたちがどこでなにをしていても、会うことにしませんか?」「二十二歳の君はいったいどんな人になっているのでしょう」と続け、この物語の「現在」が、一九九一年であることを読み手に計算させます。

さらに読み手には、彼らが一九七七年生まれであることも計算させることになるでしょう。

のちに語り手は「十月も終わりに近づ」いた頃、「机のうえのカレンダーをぼんやり見」て「一九九一年十月と書かれてあった」と、以上の読み手の計算が正解であったことを素っ気なく告げます。

語り手は、数をかぞえながら、読み手に計算をさせ、小説を物語っていくのです。

■名指さぬこと

この語り手は「僕」という一人称で描かれています。

「僕」は二ノ宮たちクラスメイトには「おまえ」と呼ばれ、コジマには「君」と呼ばれ、義母には「あなた」と呼ばれます。奇妙なことにクラスメイトの「百瀬」にはコジマと同じく「君」と呼ばれ、同じく医者にも「君」と呼ばれます。

ところが、なぜか「僕」の名前は最後まで名指されないのです。

とはいえ夏目漱石の「猫」のように「僕」には「名前はまだない」わけではなく、病院では「名前が呼ばれて」いるのです。でもその名前は名指されない。

同じように、僕とコジマが行く美術館の画家も名指されない。

語り手が「不思議な絵」と呼ぶその画家のいろいろな絵は、「うちあげられる魚」というところで一瞬「ダリか」と読み手を幻惑するのですが、他の「この緑の人と馬の目は白い線でつながっている」という言葉から、ほぼシャガールの絵であることが特定されます。

この小説の題名でもあり、コジマが「ヘヴン」と呼ぶ「恋人たちは首をにゅーんとすきなだけ自由にのばすことができる」絵もほぼシャガールの「記念日」という名前をもつことが読み手には特定できるでしょう。

それでも、語り手もコジマもシャガールとも絵の名前も名指さない。

コジマはこう語ります。

「この人ってね、絵はこんなにすてきなのに、題名がどれも悲しくなるくらいつまらないんだよ」「だからね、わたしが名づけなおしたの」

では、「僕」もコジマに「名づけなおされた」のでしょうか。
ところが、あくまで語り手はコジマに、「君」と呼ばれるのみで、名指されません。

■世界の向こう側

なぜ「僕」は名指されないのでしょうか。
それはあくまで「僕」が、名指すことがなくとも同一性が特定される世界、すなわち狭い世界にいたからです。

「おまえ」「君」「あなた」といった二人称はそういった狭い世界の代名詞です。

「僕」が「世界の向こう側」に足を踏み入れたとたん、その先にはひとつの主体が名指されるべき世界が広がっています。

そこには奥行きも、美しさもあるのです。

そのことを、この物語の作者は数をかぞえること、読み手に計算させること、名指さないこと、を通じて、ひとつの美しい物語に紡いでいるのです。

この言葉に対する鋭い感性には、敬服すべき作者ではないでしょうか。

では。

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新エヴァ:破は新しい政治を求めているのか

【今日の言葉】

09年6月現在、女王。
(茂木健一郎・矢内理絵子「女脳」。矢内女流棋士のプロフィールから)

【読書日記】

こんばんは。ともです。
今日は「かけがえのない一人の女性を守ること」について。

■exemplum iuridicum Verginia

木庭顕「法存立の歴史的基盤」はローマ法史の本ですが、内容は「かけがえのない一人
の女性を守ること」が軸となってローマ法が発展していった、というものです。

判例・法源としてのヴェルギニア伝承がその原基となります。
ローマに実質的な憲法(十二表法)が制定されようとしていた紀元前の時代の話です。
ひとりの独裁者が、許婚のある平民の娘に横恋慕し、我が物にしようと自分の奴隷の娘
であると主張する裁判を起こします。これに対して婚約者や乳母などの近親者が必死に
反撃するという話です。

この「かけがえのない一人の女性を守る」ことを基本動機にもつ伝承が判例・法源とな
り、占有possessio概念が生まれ、社会構造の変動に伴うその変奏がローマ法の発展で
あった、というのが主張の通奏低音となっています。

その主題に気づいたのは、僕が茂木健一郎・矢内理絵子「女脳」を読んでいたとき。「
法存立の歴史的基盤」は1,000頁を超える大部の書物で、人文科学はデカルトにさかの
ぼる厳密な科学であるべきという著者が書いたので決して読みやすいものではないので
すが、「女脳」を読みながら制度的思考に適した「男脳」と感性的思考に適した「女脳
」の対比(もちろん、男性でも女性でも個人的に差があるのは当然ですが)を考えてい
たとき、「制度的思考=法により女性を守る」という「法存立の歴史的基盤」の本の主
題が見えてきたのでした。

■「愛を読むひと」

ケイト・ウィンスレットをヒロインに迎え、ベストセラー小説「朗読者」を原作に、「リトル・ダンサー」のスティーブン・ダルドリーが監督した映画です。

ある青年が年上の女性と激しい恋に陥ります。その恋はヒロインの失踪により突然の終
わりを迎えます。青年が法科大学の学生に成長したとき、ある裁判の被告人席に女性を
見つけます。その裁判はホロコースト裁判でした。青年は女性の無実を証明できるある
真実を知っていましたが、結局、その真実を明らかにせず女性は長期の有罪判決を受け
ます。弁護士となり、検事の妻と別れた男が、引越しの荷物の中から、かつて女性に語
り聞かせた本を発見し、ふと刑務所にいる女性に朗読したテープを送ります。何年も同
じようにテープを送ってきた男に、あるとき刑務所の所長から女性が出所するので身元
引受人となってほしいと連絡が届きます。

「かけがえのない一人の女性を守る」というVerginia exemplumの主題がここにも見ら
れます。ただし「守らない」という反対の形で。象徴的なことに、やはり女性は裁判の
中にいます。

なぜ男は女性を守らなかったのか。

その謎は、男が最初に朗読したテープがホメロス「オデュッセイア」だったことから判
ります。「オデュッセイア」は各地を放浪した男が帰郷する話という単純なものではあ
りません。その隠れた主題は、「旧来の社会原理を否定し、新しい、水平な友からなる
政治社会、デモクラシーをつくる」ことにあります。

つまり男は反=Verginia exemplum、すなわち法による「かけがえのない一人の女性の
救済」ではなく、「ホロコーストを否定し、新しい政治社会をつくる」という政治的選
択として女性を救わなかったことがわかります。

男が女性を刑務所に迎えに行ったとき、残酷にも老女となった女性に対して「あの事件
のことを考えることはあるのか」と訊ねることがそれを証明しています。女性の「もう
あなたの朗読は聞けないの」との問いに対して男は曖昧にこたえるばかりで「新しい住
まいの近くには図書館がある。もう読めるだろう」と突き放します。

法ではなく、政治を、というメッセージがこの悲劇には横溢しているのです。

■「エヴァンゲリオン新劇場版:破」

エヴァの物語は「戦えば戦うほど悩む主人公の成長(もしくは成長しない)物語」であ
ると以前指摘しておいたのですが、この映画の副題は「You can (not) advance.」です
。「あらら?大当たりじゃん」と思った、というのはどうでもよろしい。

「マクロスF」のCGと同じところがCGを担当していて画面が新鮮だった、というのもど
うでもよろしい。

前半のストーリーが、幾多の学園エヴァ物に対する自己批判、パロディーかと思わせる
展開で笑ってしまった、というのもどうでもよろしい。

この映画の最大のポイントは「代わりがいるから私はいいの」という綾波レイを、敢え
て碇シンジが「救う」という、「かけがえのない一人の女性を守る」というVerginia e
xemplumの主題がここにも見られることです。

とはいえ、ここには「法」に繋がりそうなものは見当たりません。強いて言えば「神」
が出てくるだけです。スピノザが「神学=政治論」において神と政治が等値可能なもの
と論証している通り、この物語も隠れた主題は「新しい政治」です。ミサトが口にする
「この世界が終わる」という言葉もその文脈で「古い政治が終わる」と読むべきです。

オタクの象徴であったエヴァが、何で社会を問題にするのかなあ、といった感じですが
、この10年近くの日本社会の構造変化が影響してないとは言えないのかもしれません。
各国の政府がこぞって「かけがえのない企業を守っている」現在の政治状況も全く無縁
ではないのかもしれません。

とはいえ、まだまだオタク達を謎解きの袋小路に誘い込むような「ほのめかし」がちり
ばめられているので、批評家たちやその他の言説が以前と同様にその罠にはまっていく
のかどうか、批判的に見ていくことが必要かもしれません。

では。

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