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『トウキョウソナタ』は黒沢清の『社会契約論』である

【今日の言葉】

自然状態を現実的なものとする手段は一つしかないであろう。

それは「もろもろの出会いを組織する」ようにつとめることである。

(ジル・ドゥルーズ『スピノザと表現の問題』)

【読書日記】

ともです。

本や映画の感想などを書いていきたいと思います。

今日は黒沢清の『トウキョウソナタ』から。

     黒沢清『トウキョウソナタ』

これはソナタ形式の映画です。

提示部ではある家族の姿が第一主題として提示されます。

会社からリストラを言い渡された夫。

専業主婦として夕飯を作る妻。

オデュッセウスのように放浪する長男。

学校で担任の先生と反目する次男。

夫はリストラを妻には切り出せず、長男はティッシュ配りのバイトに日本社会の不条理を感じ、次男は帰りに見かけたピアノ教室の女性教師に魅かれていきます。

まるでバイオリンソナタのようにそれぞれの音を出しながら、次第に不協和音を奏で始める家族。次の展開部では家族の崩壊が描かれていきます。

長男は米軍へ入隊すると言って家族に同意を求めます。

次男は給食費をこっそりピアノ教室の月謝に当てます。

夫はバイトのトイレ掃除で拾った現金の束を持って走り出します。

妻は偶然に会った夫に「違うんだ!」と叫びながら逃げられ、自らの意思で誘拐犯と逃避行に出ます。その時の小泉今日子の変容の仕方が、コンバーチブル車のルーフを開く場面で象徴的に描かれ、その後小泉今日子と誘拐犯の役所広司は海で行き止まります。

     ドゥルーズ『スピノザと表現の問題』

小泉今日子は海でそれまで抑制していた妻の殻を捨て、狂気を宿した眼をし始めます。まるで誘拐犯との出会いが自然状態を組織したかのように、月の光の下で波辺に横たわり自然と一体化します。

よく知られるように自然状態をどのように想定するか、ホッブズとルソーでは全く異なる見解が示されます。ホッブズは「万人の万人に対する闘い」として自然状態を描きました。一方、ルソーは「自由だが孤立した野生人」として自然状態を描きました。

この映画で、長男はオデュッセウスのように家族のもとへは帰還せず、米軍に入り戦争状態の中に身をおきます。ホッブズ流の自然状態です。

一方、孤独な野生人である役所広司はルソー流の自然状態を示しているかのようです。

小泉今日子は役所広司を拒否します。役所広司は小泉今日子に諭され「あんたは神なのか?」と問いかけます。

神と政治が等値可能なものであることを示したのは『神学政治論』のスピノザですが、政治とは自然状態を脱して、それぞれ結合する契約を結んだ社会状態に生まれることを理論的に示したのがホッブズでありルソーら社会契約論者です。

そして映画は最後の再現部にはいり、バラバラになった家族は家へと戻っていきます。

そして一緒に朝ごはんを食べます。

この場面で監督の黒沢清は、家族にとって「ごはんを一緒に食べること」こそが「社会契約=結合契約」なのだと言っているようです。

このように『トウキョウソナタ』は映画=映像として見られるとともに、黒沢清の『社会契約論』としても読まれるべき稀有な映画なのではないでしょうか。ソナタ形式の『A-B-A´』をなぞりつつ『社会状態-自然状態-社会状態´』を描いている映画の構造に思われます。まるで、現在の日本社会は、いったん社会契約を解除し、再度、新しい社会契約を結ぶべきだとでも言っているかのようです。ちょっと深読みのしすぎでしょうか。

では。

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